覗き込まれる、と思ったのは初めてだった。
いつだって、私は──俺は、覗き込む側だったから。相手の記憶を、その過去を。
「仮面、ですか」
ああ、その通りだなと内心で嗤う。
俺は、この体の持ち主が健在ならこうするだろうと思って、それを実行しているに過ぎない。
エレーナという少女を演じている。
それは、否定しようのない事実だ。
とんでもないウソっぱちだ。
なにしろ、私という人格そのものがウソなのだから。
「それを取って、あなたはどうするおつもりですか?」
「どうもしないよ」
目の前の少女は、キッパリとそう言い切った。
「私はただ知りたいの。君、今まで見たことない人だったから」
なるほど──知識欲か。
それはますます、救いようがない。
好奇心は猫を殺すって諺を知らないのだろうか。
「ショックを受けると思いますが」
「受けないよ」
「いえ、私が」
「そっちなの?」
そりゃそうだろう。仮面を被るってことは、その奥に見られたくない素顔があるってことなのだから。
「別に見せてもいいですけど、その場合、私の心は深く傷つくことになるかもしれません」
「対価は払うよ」
「具体的には?」
「私に出来ることなら何でもする」
ほう。それはまた大きく出たな。
「なぜそこまで? 私たち、ほぼ初対面ですよね」
「一緒にお風呂入ったよ」
お風呂にそんな距離を縮める効果はないと思うが。
「おっぱいも触ったし」
「それはあなたが、勝手に触っただけでしょう」
おっぱいにも、そんな距離を縮める効果はない。むしろ遠くなるぞ、人によっては。
「……はぁ、分かりました。見て楽しいものでもないと思いますが、お見せしましょう」
「やったぁ」
「ですが」
先に、報酬の前払いをしてもらおう。
私は──俺は、少女の頬にそっと自分の右手を添えた。
「あんたの仮面の奥も、見させてもらう」
仮面を外しながら、そう囁いた。
◆◇◆◇
「で、どうしてこうなってるんでしたっけ?」
射し込む朝日、囀る小鳥。
そして、全裸のままベッドに横たわる私と
うん。本当になんで、こんな事になってるんだっけ?
「取り敢えず、服を着ましょうか」
ベッドから降りて、掛け布団を掛け直す。そのまま洗面所へ歩いていくと、昨日から干してあるシスター服が目に入った。
どうやら完全に乾いているようだ。そのまま袖を通すと、いつも通りの敬虔なシスターに早変わり。
アイロンを掛けてないせいで、めっちゃくちゃシワシワになってるのには目をつぶって欲しい。帰ったらちゃんと掛けるから、アイロン。
「うむむ……このままお暇してもよろしいのですが」
まだ千世子ちゃんは夢の中だ。このまま書き置きでも残して、さっさと退散してしまったほうが面倒は少ない。
でも、その選択肢は何となく気に食わなかった。
「あ」
直後、私のお腹がぐぅと鳴る。
そういえば、昨日の夜から何も食べて無かったような。
「……これは私が朝ご飯を食べるためですから。一宿一飯の恩義とかでは、全くありませんから」
誰に向かって言い訳してるんだろうか。
雑念を振り払い、そのまま洗面所からキッチンへと歩いていく。そうして冷蔵庫を開けて──固まった。
「……なんですか、この中身は」
冷蔵庫の中には、このわたの瓶詰めが入っていたり、イカの塩辛が入っていたりした。おまけに、当然のようにビールも入っている。
千世子ちゃん何歳だっけ。いや、成人はしてる……のかな。童顔だからよくわかんないや。
「…………」
四十過ぎた独身男性宅の冷蔵庫みたい、という言葉は辛うじて呑み込んだ。
というか、朝ご飯に使えそうな材料が一つも無い。最低限たまご位は入れておいて欲しかった。これでどうしろというのか。
「買ってきますかぁ……」
不幸中の幸いと言うべきか、財布とエコバックは手元にある。ササッと買ってきて、ササッと作れば問題ないだろう。
ここに来る途中にスーパーも見かけたし、今度は迷わない……と思う、多分。
「何事もチャレンジですし!」
自分に言い聞かせるように声を上げ、玄関から外へ飛び出す。結果として、今回は無事に買い物を終えることができた。失敗は繰り返さない女なのですよ、私は。
◆◇◆◇
「んぅ……いいにおい……」
鼻をくすぐるいい匂いを感じて、百城千世子は目を覚ました。リビングへと繋がるドアの隙間から、ベーコンが焼ける匂いが漂ってくる。
何故か全裸だったが、そんなのは些細な事だ。誰に見せるわけでも無いのだから。
「…………」
ぼんやりする頭で、昨日何があったのかを思い出そうとする。
脳裏に焼き付いているのは、白く柔らかな指が頬に添えられる感覚。
そして、こちらを覗き込む彼女の深淵なる瞳。
「っ……!」
ゾクリ、と背筋が震える。
自分という存在が、自分という人生が、一片残さず喰らい尽くされた。
「あは……あはは……」
知らず、笑いが零れる。女優の百城千世子としてではなく、全てを貪り尽くされた、哀れな一人の少女として。
何をされたのかは分からない。どういう手段を使ったのかも知らない。ただ、自分はもう
「……着替えなきゃ」
いつまでもこうしてる訳にはいかない──という理性に従って、ベッドから降りて部屋着に袖を通す。
幸いというべきか、今日の仕事は午後からだ。彼女が今も家に居るなら、話す時間は十分にある。
「あ、おはようございます」
着替えを終え、リビングへ続くドアを開ける。
「──え?」
すると、そこには
「随分とぐっすり眠っていましたね」
修道服を着た百城千世子が、キッチンに立って朝食を作っている。
なんと夢のような光景だろう。ファンが見たら垂涎の光景が、目の前に広がっていた。
「簡単にですが、朝食を作ったんです。昨日のお礼という事で……一緒に食べましょう?」
息を呑む。
そこで、気づく。
彼女は、百城千世子ではない。
「……エレーナ、ちゃん」
「はい? なんでしょう?」
顔は変わっていない。
服装も変わっていない。
なのに、目の前の存在はエレーナではなく──百城千世子そのものだった。
(なに、が──)
昨日までは、彼女は確かにエレーナだった。では、今の彼女は昨日までの彼女と、何が違うのか。
女優である千世子は理解た──
「大丈夫ですか? ボーっとして、熱でもあるんでしょうか……?」
立ち姿から、指の動き。細かな動作まで、その全てが百城千世子そのものと化している。
仮面をかぶる、なんて生易しいものではない。
エレーナという存在に、百城千世子という存在が上書きされている。
「……あの」
「はい」
「それ、戻るの……?」
「はい? 戻る、とは?」
ぞわり。
「な、なんでも、ない……」
また、背筋が大きく跳ねた。
気づいてない。
彼女は、エレーナは──自分が百城千世子になっている事に気づいてない。
(……どうしよ)
ハッキリ言って、予想外だった。
軽い気持ちで踏み込むべき領域では無かったのだと、この時初めて理解した。
おそらく、思考や人格はエレーナのままだろう。ただ、自分では気付けない無意識下での身体の動かし方が、纏う雰囲気が、変質しているだけ。
(戻したほうが良いのかな……でも、どうやって)
日常生活に支障は無いだろう。今までと同じく生活をするには、何の問題も無い。
ただ、お仕事となれば話は別だ。
「あの、エレーナちゃん」
「なんでしょうか? というか早く食べないと朝食が冷めて──」
「私と一緒に、お仕事に行ってくれない?」
「へ?」
端的に言って、千世子は目の前の少女にますます興味が湧いた。
ただ、ソレだけの話。