夏休み。
というものが、学校にはあるらしい。僕の知っている夏休みというものは、大体三日くらい許される職場のお休み……夏期休暇、と呼ばれるやつなのだが、アズールさんの言うには、本当の夏休みというものは、一か月とか二か月とか二週間だったりするものらしい。学生かお金持ちだけに許される、人間が労働から解放され本来の姿でいられる期間なのです……とか、珍しく熱く語っていた。
なので。
アズールさんはあと一か月、ここに住み込むつもりらしい。
いやなんだそれは、とんでもない話だ。そんなに長い間、あの人に、同じ屋根の下にいられたら、僕は……。
ていうかウチに住んでまでほぼ毎日働くのなんて、相当きつい労働なのでは。そういう意味でもよくないのでは。
そんな気持ちなど伝わらず、アズさんは本当に、グランメイズのオフィスという範囲をはみ出し、僕の生活の場である二階にまでやってきた。大きな荷物を背負って。
そして……、
それから数日が経ったけれど、やはりというか、毎日いろんな場面に遭ってしまって、気持ちが休まらなかった。
アズールさんには客間を使ってもらっているけど、どうしたって日々の生活の中でニアミスは避けられない。
例えば……、
▽
「うぁっ……!? あっ、アズさん……お、おはようございます」
「……ざーす……」
朝。いつもならルーティンをこなすだけの時間帯に、さっきまでベッドで寝ていたであろう姿のアズールさんと廊下で遭遇する。
どうやら彼女は寝起きが弱いのか、目は半分だけ開いていて、髪はちょっと跳ねていて、足取りはおぼつかない。
いつも仕事中に見る彼女と雰囲気が違う。ゆったりとしたスウェットを着ていて、眠たそうな顔で、その……かわいい。アズさん、おうちではこんな感じなのか……。
だめだ、人が隙を見せているところをじろじろ見るなんて、よくない。アズールさんは洗面所に向かうところだろう、案内してあげないと。
「アズさん、アズさん。顔を洗ったりするならこっちですよ、こっち」
「……んう」
「えっ」
気が付くと、片腕をむぎゅ、と何かが締め付けていた。
アズールさんが、僕の腕にしがみついてきたのだ。
おおきい声が出そうになった。いつもよりさらにやわらかくて、いつもよりさらに熱っぽいものを、腕に感じたからだ。
寝起きのアズールさんは、人間にとってちょうど心地よい体温をしていて、さらにあろうことか、まだ寝ぼけていて力が入らないのか、かなりこちらに体重を預けてきている。もたれかかっていると言ってもいい。この重みもなんだか、体温や香りと合わせると、こっちの心臓がゆっくりとドキドキしていくような、なんとも幸せな感じが……。
なんだかこちらも眠くなってきて、このまま一緒に、布団に潜り込みたくなるような……。
……! なんてことを考えるんだ。僕というやつは。愚か者だ。そんな変なことをしたら、アズさんからの信頼を裏切ることになる。ちゃんと、ちゃんと洗面所に送り届けないと。
ゆっくりゆっくり、ていねいに。いきなり起こしてしまわないように、息をひそめて、ゆっくり、アズールさんを誘導していく。
……別に、この時間をできるだけ引き延ばそう、なんて悪いことは考えて……、
……いる、かもしれない。
・・・
仕事を終えて、夜になっても、アズールさんはこの家にいる。晩御飯の時間でも。
「お夕飯作ってあげますね、ルーファンくん。今日は精のつくカキ料理です」
「わぁっ……!」
あ、アズールさんの手料理! まさかこんなことをしてくれるなんて……。
いつもの一人の食卓とは全然違うし、あったかくておいしいし……こんな温かな気持ち、じいちゃんがいたとき以来だ。
僕、僕こんなに幸せでいいのかな。
「今日はこんなにおいしいもの食べてもいいんですか!?」
「ええ……遠慮しないで、しっかり食べてください……おかわりもいいですよ……」
・・・
「ふえッ、こ、これ……!」
普段通り、除湿器をかけた脱衣所で干していた洗濯物を取り込もうとしたら。自分のものの中に、その、女の人の……結構派手な……ものが、混じっていた。
うう、ダメだ、触ったら当然ダメ、見るのもダメだ。洗濯物についてはタイミングずらさなきゃ。そしてこれは記憶から抹消する。
すばやく自分のものだけカゴに回収し、今や自分に許された唯一の心休まる空間である、自室に逃げ込んだ。
……アズールさん、あんな……大きいの、つけて……ああああ! 覚えるな!! そういうこと考えるな! すぐ近くの空間にアズールさんもいるのに……!
・・・
「今日は精のつくスッポン料理ですよ」
「わ~!」
・・・
「あ……!! す、すいませんッ!!」
いつものように、お風呂へ続く脱衣所の戸を開けただけだった。
そしてすぐに閉めた。
でも、真っ白な背中が……振り向いた正面の、胸元が、脚が……ああああ。
すぐに閉めたはずなのに、その光景が目に焼き付いちゃって、僕は、僕はほんと最低なヤツで……。なんてお詫びすれば……。
「社長。そこにいますか?」
「えっ、あっ、あのっ、すいませんッすぐ退散しますッ」
「言いたいことがあるので、少しお耳を」
脱衣所の入り口である引き戸に身を寄せて、耳を傾ける。もしかして。このすぐそこに、アズールさんが……。
やがて、彼女の大人っぽい声が、すぐそこから聞こえた。
「ルーファンくんの、スケベ」
引き戸を隔てたその声は、まるで耳のそばで言われたみたいに、この上なくクリアに自分の中に入ってきた。
どす、と胸を鋭利なもので刺されたような感触をおぼえる。
「う……うう……うううう~!」
地面にうずくまり、己の罪にうめき声をあげるしかなかった。
・・・
「今日は精のつくマムシですよ」
「わ……わぁ~」
・・・
「今日は精のつくサプリメントがありますよ」
「ありがとうございます~」
▽
というような日々だった。
ところで最近、どうしてか、夜なのに妙に目がさえて眠れないということが多い。不思議。
それで仕方なく……というわけではないけど。オフィスまで下りてきて、机にテキストを広げて、資格の勉強なんかをやっている。いつもは余暇のとれた日にやっていたことだけど、眠れないのならちょうどいいと思う。
ただ、今は、えんぴつを動かす手が止まってしまっている。
練習問題がわからないから……というだけではない。頭の中に、練習問題とは関係のない情報が入ってきて、集中できていないからだ。
静かなオフィスに、水のどばどばと流れる音がしていた。この部屋の天井にある、二階から通っている排水パイプからの音。この水音は、上で誰かが、食器洗いをしているか、洗濯機を回しているか……お風呂に入っているときに、聞こえるものだ。
そしてこの家に、今、僕以外の人間はひとりだけ。
「むぁーっ」
いつから僕は煩悩まみれになったのか。ついこの前までの自分と、今の自分では、なんだか別の人間みたいだ。
よくない変化だと思う。集中だ、集中……。
しばらくして、気が付くと、排水の音は止まっていた。
勉強は1ページ分進んだ。けど、次のところがあまりわからない。数学の図形の問題。苦手だ。仕事の中で、使いそうで使わない。でも試験の一般教養の範囲ではある。ちゃんと理解しておきたい。
じいっと、背中を丸めて、穴が開くほど同じページを見つめる。
ふわりと、甘い、いい匂いがする。
「なんだ、お勉強か……」
「うえっ!?」
耳元で声がして、驚く。
ぱっと振り向いたところにあったのは、薄い服を盛り上げるおおきいなにか。もっと見上げると、そこには、アズールさんがいた。
「あ、アズ、さん」
アズールさんは、いつもの目つきを崩さず、口で小さく笑みを作った。
仕事中には見られない、ラフな服装。髪がいつもより艶やかで、肌がほんのり赤い……気がする。
たぶん、お風呂に、入ってたから。
「同じページのまま5分くらい行き詰ってましたね。どれどれ」
「あっ……」
「ああ。ここはたしか、なんとかの定理……なんだったかな。教科書、ちょっと見せてください」
アズールさんは、ぐっ、とこちらに顔を寄せて、テキストを覗き込んできた。そのまま、左の耳に髪をかけるしぐさを見て、心臓がスキップを始める。
お風呂上りの彼女は、いつもより体があったかくて、いつもより髪がしっとりしていて、いつもよりいい匂いがする……。
汗か、お風呂の水滴か、どっちなのかわからないしずくがひとつ、アズールさんの白い首を滑落していく。
それが落ちていく先……アズールさんの薄着を持ち上げるふくらみ、を目で追いそうになって、いけない、と思って、目線の高度を上げる。
青い瞳と、目が合う。きれいな淡い色の左目と、長い前髪の奥にある右目、両方がこっちを見ていた。僕を見て、アズさんの目が、きゅっと細くなる。これは、彼女が
「……どうしたんですか? ちゃんと問題見てくれないと、教えられないでしょ。ふふ」
「!! ご、ごめんなさい……」
すぐに机に向きなおる。
集中集中……。
………だめだ、無理だ。ぽかぽかのアズールさんに、こんなに近くにいられたら、全然なにもわからない……。
「ふんふんなるほど。ルーファンくん、ここの解法はですね、教科書のここにあるヘイムダルの定理で……なんだヘイムダルの定理って。これ数学?」
うううう……!
なんかアズールさんの声色の情報は入ってくるんだけど、言葉の情報が入ってこない。顔が、頭が、ゆでだこみたいになる……。
どうしてこんなにアズールさんに気が行ってしまうんだ。僕、僕やっぱり、この人のこと……!?
▽
「……ふー」
ぎし、と、腰かけたベッドが古びた音を鳴らす。
………。
やばいな。
楽しすぎる……。脱衣所で遭遇するのも、薄着で家の中うろつくのも、干してるドエロ、いや、どえらい洗濯物を見られるのも。
朝寝ぼけてそこらへんを徘徊していたら、気が付くとルーファンをほんのりエロい目に遭わせていたのは、我ながら驚いたが。あれは普通に事故だ。朝弱いこの身体が悪い。
夏休み、無理やり同棲生活。
このおそるべき計画を思いついたときは、オレは常識人なので、赤の他人に居付かれるルーファン側の迷惑も、ちょっと考えた。
そして、「いや、しかしね、こんな全身うつくしかわいい若干年上の女と四六時中共同生活を送れるんだ、向こうも嬉しいに決まっている、むしろ金を払ってほしい。」
という結論に至ったのだった。
しかしグランメイズ、というかダンジョンで労働するにあたって、この迷宮都市に住むのは本当に、通勤から何から楽である。それがこの数日でわかった。もしもこの先、バイトから昇格してここで長く使ってもらえるなら、今みたいに住み込みでやらせてもらいたいかも。
……“永住”……。
あ、いま、強力な二文字が頭をよぎった。
けっこう、アリなのでは。この仕事も楽しくなってきたし、高校卒業と同時に雇ってもらうっていうのは、大いにありな選択肢だな。
ううん、ちょっと突飛すぎるか。まあ、あいつのところに永久就職っていう案は、さすがにオレも男を捨てたつもりはないので、今は置いといて。
……いや……。
このままルーファンくんを、わたしに夢中にさせていくことがうまくいけば、どうなるだろう。
その、行きつくところは?
遠い未来のことは今は置いておくとしても、少なくとも、この共同生活を続けていった一か月で、どうなるかな。
性欲旺盛な思春期の男の子の、劣情を煽る行動をとり続けたら……。
例えば。例えば、ルーファンみたいな線の細い受け身っぽい少年が、辛抱できなくなって
もしそれが実現したら……、
……とてもいい、のでは。
今世紀最高のショーでは?
一生懸命こちらを求めてくる姿を想像すると、アズールの身体はぞくぞくと震えて、芯がじんと熱くなる。
そこにある姿見を覗くと、薄明りだけを点けた部屋にいるのに、アズールが顔を赤らめて、にへらと笑っているのが、はっきりわかる。まあ、自分の顔だから。
「ふー……。……ふー、ふーっ」
ルーファン。ルーファンくん。この薄い壁をいくつか隔てた、すぐそこにいるはず。
そろそろ寝ているかな……。安心しきって、気持ち良く。
自分の他に誰も入ってこないと思っている安全圏に、夜、誰かが入って来たら、どう思うかな。
「……………」
いや、それはもっと後の手段にしよう。こっちにも変なプライドがある。できれば向こうからこっちに来させたい。今は我慢だ……。
さて、明日はどんなことを仕掛けようかな。
そうだ、精のつく料理を食べさせよっと。
▽
『あっごめーん、もうレベルアップ打ち止めだわ』
からん、からからから。
両手いっぱいの魔石のかけらを、思わずぜんぶ落としてしまった。
「ば、ばかな……こんなことが……」
「あ、アズールさん、大丈夫ですか」
そうか……ほとんどのレベル制ゲームには、上限というものがある。この日が来ることは必然だったのだ……。
ルーファンの目指すエンディングへ、アズールひとりの戦力で辿り着くには、この身体の力量ではまだまだ足りない。もう、他の美少女が加入するのを認めるしかないのか……。
『そんなにショックかね? どうしてもこれ以上強くなりたいんだったら、“上限解放”っていうものがあるけど……』
やった!!! ソシャゲ特有のシステムだ!!!!