『今年も流行 市内感染広がる』
なんていう題字が目の前の新聞の上を踊っているが、今日はどうにも読む気にならない。
レベルアップのお預けが始まってから数日。
そろそろ限界が来ていた。ただ席に着きデスクに向かっているだけでも、しばらくすると、頭は熱く、息遣いのリズムは乱調で、太腿をもぞもぞと擦りあわせている自分に気付く。
はやく上限解放というのをしてほしい。それでまた、ルーファンのあの手に触れられたい。世の中の気持ちいいことには依存性があるわけで、このレベルアップの魔法もそう。なにせ、自分が男だったときのナニかしらより、得られるアレはよっぽど上なのだ。一度覚えてしまうと、オレのように自制心に欠ける人間だと、そう簡単に断つことはできない。
オフィスの自分の席、そのデスクの上に広げた新聞。書かれた文字はやがてダンスを始めてしまい、どれも頭の中に入ってこない。
だめだ。じっと大人しくしていられない。
なんかいらいらする。
というか、暑い。
思えば地上の季節は夏。夜は冷える迷宮都市だが、昼は……今日の昼は、妙に暑い。
もう少し涼しくなれば、気分も変わるだろうか。
学生のフォーマルウェアにして通勤服である、学校制服のシャツ――今は半袖の夏服。そのボタンをひとつ、いやふたつ外し、襟元をゆるめる。
「ん、んーっ……」
胸をそらし、両腕をぴんと天井に向け、伸びをする……ふりをして、ちょっと換気。脇を。
そのあと、服の前をひっぱって、むわっとした空気をシャツから追い出すのにつとめた。
少し涼んだ気もする。アズールの身体、けっこう熱くなるし、代謝がいい方なのかもしれない。それにこの胸なんかは、とくに熱がこもってひどい。蒸れるし、今も汗をかいている。
ここまで来たら、もっと快適を追及する。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、床を素足でぺたりと踏むと、少しひんやりしていて気持ちがいい。
そして次は、髪。顔を隠すくらいボリュームのある髪は、排熱性能が悪い。美少女になってデメリットを感じている部分だ。
デスクの引き出しからヘアゴムとピンを取り、後ろ髪を上の方でまとめて、うなじを外気にさらす。もさもさとした前髪をかきわけ、両目がちゃんと出るようにしてピンでとめる。
だいぶ涼しくなった。
とどめに、少し脚を開いて、スカートをはしたなく、ぱたぱたとやる。
これはいい。男子のズボンとは違う。美少女になってメリットを感じている部分だ。あー、とおっさんみたいな声が出そうになったが、そこは我慢する。
――ここまでやって。
いつもの癖で、社長の席に目をやった。すると、
たしかに目が合った。そらされた。ここまで1秒未満のやりとり。
「………」
ん~。どこまで見られただろうか。たしかに、いまの一幕について振り返ると、いつものようにルーファンにとってのイベント発生を狙った気持ちはあったのだが、しかし、しっかり目が合うまでその視線は意識していなかった。今日は、本当に暑かったからだ。
ひとまず、ルーファンくんを、年上女子高生のしぐさをつぶさに観察するのが趣味の、むっつりドスケベエロガキであると仮定する。
下着。胸のそれと股間のそれは、互いの角度的に、見えたとしてもチラ見えってところだろう。残念だったな。
他には……、あ。
髪まとめてるとき、脇……見られてないかな。
アズールになってからは、きれいにしてあるとはいえ、なんか、どうにも恥ずかしい。ハプニングで全裸を見られるより、袖の下の空間だけを覗かれる方が、妙な気分になるらしい。ノースリーブなんか着てルーファンの前に出たら、ちょっとどうにかなってしまうかもしれない。
あと、汗……シャツの、脇汗のあと。
たぶん、みられた。みせてしまった。
見られると恥ずかしいのは男女共通だと思うのだが、恥ずかしさのニュアンスが違う気がする。男のときなら、相手に滑稽だと笑われないか、あるいは不快だと嫌厭されはしないか、なんていう気持ちになるはず。
でも、今思っていることは微妙に違う。ルーファンに、この身体が、変なところに汗をかいてるのを見られたかもしれないと思うと、なんだか。
どきどきする。少年が、理想を抱いているかもしれないこの身体……わたしの、生々しいところを知ったのだとしたら……いったい、どう思うのだろうか。そんな想像が、アズールの感じている恥ずかしさと一緒になって、この心臓をとくとくと動かしている。ルーファンを脇フェチに目覚めさせてしまったら、どうしよう。
……オレがわたしになってから、よく、相手から見た自分の姿というものを、意識してしまう。だから、ただちょっと涼しい格好をしてみただけなのに、こんなに気分が昂ってくるんだ――。
ルーファンに何か声をかけることは、しなかった。普通の女子にならって、脚を閉じる。
とりあえず、アズールを、夏のアズールに改造できた。体温はそのうちマシになるはず。
そう思ってしばらく大人しく机に向かっていると……、やはり、いつの間にか。
もぞもぞと、腿までの素足をこすり合わせている自分がいた。
結局、その話に戻る。
レベルアップをこれ以上、お預けされたら……。
「……すいません、社長。少し……えっと……冷たい飲み物、買ってきます。社長は何か飲まれますか」
少し外に出てみた方が良い。そう思って立ち上がった。
ルーファンは、さっきのことを咎められる、あるいはいじられるとでも思ったのか、肩をぴくりと上下させたのが見えた。こっちが用件を言うと、安心したようだった。
「あ、じゃあ、お茶で」
「わかりました」
財布や携帯端末を手に取って、部屋の出入り口に向かう。
そこに、無邪気な色の声をかけられる。
「アズールさん。小銭いっぱいあるので、これで買ってきてください」
社長のおごり、いや経費か。ありがたい。
ルーファンは、デスクのどこかから取り出したコインを握りしめ、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる。その様子は人懐っこい犬のようだと思った。
ところが。
『どうも、たまたまオフィスの床で腕立て伏せをしていたスケヴニングです』
「あでっ。うわ、わ」
――むっ。少年は不自然な位置に立てかけてあった剣に足をひっかけ、バランスを崩してしまった。ふつうの人ならこの程度のことで、すってんころりんと倒れるとまではいかないだろうし、実際目の前のルーファンもあと1歩分のディスタンスがこちらとの間にあれば、すぐに態勢を立て直すことだろう。だがこのラッキースケベイベントの予兆、みすみす逃すアズールではない。すすっと避けてしまうのは容易だが、ここは豊満な母性のクッションで少年を優しく受け止めてあげようじゃないか――。
この間0.1秒。
「う、うわあぁあっ!?」
変な怪我だけはしないように気を付けつつ、うまくルーファンを巻き込みながら床に倒れていく。景色の転換と衝撃に備えて、ぐっと目をつぶった。
すぐれたスケベイベントは、鍛えられた運動能力や冷静な思考があってこそ起こせるもの。そっと目を開けると、狙い通り、仰向けになった自分のすぐ真上に、ルーファンの顔があった。
「いた……くない。うあっ!! あ、アズールさ……! ごめ、ごめんなさ」
胸から吐息が、肩から手のひらが、それぞれ離れていく。しっかりクッションになれたようで、部下として何よりですよ。
目と鼻の先で慌てる少年。彼は慣れるということがないので、その点はある意味誠実で好きだ。もしもこいつが「やれやれ、またか」みたいな反応をする主人公だったなら、速攻で距離を置いている。
いつまでも新鮮なリアクションをしてくれるというのは、ヒロインポジションとしては好ましく……、
顔立ちも整っていて、けっこう好みだし……、
今みたいに、その顔を盛大にあたふたさせている有様なんて、かわいらしくて好きだし……、
…………。
あれ。
「――あの。アズールさん……いつもより、顔、赤いです。……これ、もしかして」
何かに違和感を覚え、瞬きをしているうちに、目の前の顔は、どうしてか真剣な表情になっていた。理由はわからない。そしてそれを見て、さっき彼を優しく受け止めた胸の、その奥が、なにかにぎゅっと掴まれたような感覚を訴える。
あれ。なんか今日、こいつ。ルーファン……くんの、顔を見ると、なんか。
なんか。なんか。なんかなんかなんか。
おかしい。居眠りしているのを突然たたき起こされたときみたいに、心臓から生まれたどくどくが喉元や頭に回ってきて、つらい。胃袋の下のあたりが、きゅうっとして、いたい。
なんだ、これ。
「呼吸も荒いかも。大丈夫ですか? あっ、いっ、いま、どきますから」
ぼうっとしてきた頭で、自分の変調の原因を考える。
…………もしかしたら。
あんまりにも、お預けをされたものだから。ルーファンの目に見られて、においをかいで、その手に触れられた、というだけで――、
このカラダはもう、スイッチが入るようになってしまっている?
でも、でも、だからってどうしようもない。レベルアップは打ち止めってことになってる。この欲求不満を解消することは、もう。
「……あっ、あれ。あの、アズさん? すいません、離れ……あの……!?」
起き上がろうとした彼の、腰に両腕を回す。離れないように押さえ付ける。
今、自分は何をしているんだろう。
……そうだ。なにも、あの魔法だけが、あの感覚を得る唯一の手段だとは、限らない。
「僕、もうどきますから、その……」
そうだ、もう、もういいんじゃないか。
ルーファンが悪い。ルーファンが、こんなに何回もレベルあげといて、いきなりやめるから。
従者と主。従業員と管理職。責任は、この子にある。
じゃあ、治して、もらわないと。なんでも、してもらわないと。
相手の身体を押さえつけていた両腕を、ゆっくり動かす。指がルーファンの背中をなぞり、這い上がっていく。
戸惑っていた少年の顔が、やがて、何かを決めたようなものになっていった。ブラウンの瞳が、こっちの目を真っ直ぐに覗き込んでいる。
「あ、アズールさん。僕は……」
その続きを聞くより先に、自分の口から、温度と湿度の高い息が、勝手に出た。
「ルーファンくん。あの、わたし、もう……」
――我慢できないんです。
そう言おうとして、
来客を告げる呼び鈴の音に、邪魔をされた。
▽
身につけたものを、一枚一枚、脱いでいく。
ラブコメのお約束――。
そう、先の場面はまさしくそれだった。冷静になると、邪魔をされて良かったなと強く思う。あと1秒でこちらから手を出すところだったので、冷や水をかけてくれたお客様には感謝しかない。
しかし、今日の自分はおかしい。本調子ではない。
仮にルーファンに対してオレが発情するときが来るとして、ちょっと唐突すぎる気がする。Love……というものは、もっと段階を踏んでから、ゆっくりと生まれ、育まれるものではないのでしょうか?
ルーファンに迫りかけた原因は……熱、かな。頭がくらくらして思考能力がおかしくなっている、のかもしれない。あと一働きしたら、休みをもらったほうがいいか。たまには。
なんてことを考えながらも、いよいよ着替え終わってしまった。ためしに、鏡に向かって胸を張ってみる。
そこに映っているのは、いつもの自分、ではなく。
……うん。すごい。とても。
……あまりにも目に毒な自分の格好を見て。オレの中のアズールが嫌がっているのか、じわじわと顔が赤くなるのが、視覚でも、頬の熱でもわかった。
いわゆる、ビキニタイプというやつ。トップスは、胸を包むカラフルなそれにフリルがついたもの。ボトムスは、あまりにも防御力の低い、もはや下着と何も変わらん、尻も隠せていないもの。
そして……大胆に露出したへその下あたりに、くっきり刻まれている魔法の刻印――というか、淫紋。
そう、今の格好は、水着。
今起きていることは、きっと――“水着イベント”、である。
あらすじはこうだ。
グランメイズにやってきた依頼人。どんな人かというと、地方自治体の人。某県某市にある、小迷宮『星砂の道』の、管理運営担当者だった。
『星砂の道』は臨海部にあるダンジョンで……というか、言ってしまえば、ビーチだ。ビーチ型ダンジョン。そこでは今、設定以上に強力な魔物が出現してしまっていて、観光客や市民を入れられない状況にあるという。……観光客が入れる迷宮とかあるんだ。
ここに来るまでに2回、別々の業者に駆除を依頼したものの、彼らは返り討ちにされ、ウチでは手に負えないということで、ここを紹介されたらしい。そこそこの難敵のようだ。
さあ。魔物を打ち倒し、秩序を取り戻し、公共の金から捻出するであろう気持ちいい額の報酬を頂こう。
ただし、ウチで貸す水着を着用して倒してくださいね。
以上がこれまでの経緯。
『ただし、ウチで貸す水着を着用して倒してくださいね。』←???? 意味不明である。
理由を聞くと、いかなる者も水着姿以外での立ち入りを認められない、とのこと。そういう“縛り”のかけられた迷宮らしい。バカの神が創ったっぽいな。
そうなったら、ベテランの魔物狩りでも装備を万全にできないわけだから、そりゃ手こずるはずだ。
「はあ……」
とはいえ、社長が引き受けたからにはこれも仕事だ。やらなければならない。
いつもの自分なら、この期間限定SSR水着アズールの姿を見てひっくり返るだろうルーファンの反応を、積極的に楽しみに行くところだが……。
うーん。
オレは、レンタル水着のラインナップから見つけたパーカーを上から羽織り、意を決して、脱衣所を出た。
陽射しが目に、肌に刺さる。
人気の無い砂浜には、夏の海水浴場のにぎやかな雰囲気はないものの、波の音や、太陽を反射する砂はたしかに、いつかの自分が海に泳ぎに行ったときのワクワクを思い出させた。
小迷宮『星砂の道』。
通常の海水浴場と異なるのは、海の上に、いくつも砂浜の通り道が浮いている、という景色だろうか。ビーチとして楽しむにはいささか不自然な光景だ。しかしこの、自然のものではない自然の光景が、観光地としてここを成立させているのかもしれない。
上空から見たら、あの。なんだっけ。ドバイの有名な。あれみたいになっているかも。
必要な武器などを入れたビーチバッグを肩にかけ直し、熱い砂浜に足を踏み入れる。日差しを手で遮り、ルーファンを探す。
「いた。社長――」
「あっ。よかった、アズール……さ……」
思わず息を呑む。
同じように水着を着用した、ルーファンの姿を見て。
……意外と、筋肉がついてるんだな、と思った。オレより身長も低いし、基本的には戦闘に参加しないし、性格が大人しいのもあって、服の下はひょろひょろの子どもみたいなものだろうと、勝手に思っていた。
でも、その。わりと、男性を見出せる体つきだった。例えばあの、思っていたよりガッチリした腕で、思い切り掴まれて、すがられてしまったり、押し倒されたりしたら。わたしはうまく逃げたり、撥ね退けたりできるだろうか?
そのまま、ルーファンに拘束されて……しかも今はお互い水着だし……素肌を、いいようにされて……
む。いやいやいや。なんかおかしいな。今日は妄想がはかどりすぎる。しかもなんか妄想の中での立ち位置が、受け側に回っている。
変な熱を頭から追い出し、あらためて、ルーファンの様子を見る。
向こうもぼうっとしている。つまり今、お互いに、おしゃべりもせず無言で見つめあう状態になってしまったわけだ。
ま、向こうがこちらに見惚れるのは当たり前だ。いつもは服を着て接している少女が、薄い布切れだけを身に着けて目の前に立っている。見方によっては全裸よりエッッと考えることもできる恰好で、そこにいる。なぁんて状況なのだ。
いつもならこれを利用してからかうところだが。
そう思い切り見られると、やっぱり……。
「……そんな目で見ないでください。セクハラですよ」
上から羽織っていたパーカーの前を、じじっと閉めた。淫紋とか見られたくない。
やはり今日は不調だ。ルーファンの顔を見ると、オレは、まるでアズールになってしまったかのようになる。いや、なってるんだけど。
「……はっ! ち、ちが……ちがあぁぁ……」
ちがわないので、そう苦しんでいるのだろう。
蹲るルーファンを一瞥し、行きますよ、と一言いう。内面の変調を悟られないよう、声の調子には気をつけた。
そんなやりとりを経て、今回の業務が始まるのだった。
白くやわらかい砂でできた道……きれいではあるが、悪路だ。それをふたりでお散歩しつつ、たまに現れる魔物を、銃でずがんと撃つ。
そんな感じで探索、というかもう観光を進めていく。
しかし、まあ。
ソシャゲのキャラは水着で戦いがちだが、実際に自分がそれになってみると……これは、ダメだ。とても戦えたもんじゃない。
装備を隠すスペースもないし、胸は揺れすぎるし、動きすぎてぽろりといってしまわないか心配で、あまりに心もとない。
あと、家の中で服を脱ぐのと、お天道様の下で肌をさらすのとでは全く違う。やはり海水浴ないしプール遊園地っていうのは、いわゆる陽キャラのやつらが行くところだ。清楚で奥ゆかしいオレには肌が合わない。ソシャゲの水着キャラは全員陽キャ。
「……ふぅ。……ふぅ」
あー、あつい。この上着は脱いでしまいたい。
しかしこれがないと日焼けアズールになってしまう。ソシャゲ的には悪堕ち差分。いや、それはそれで大変いいものではあるが……。日焼けバージョンを見せてあげたい気持ちもあるが……。
やはりだめだ。ルーファンの前でこれを脱ぎたくない。
なぜなら……
もう明確にしてしまおう。今日、ひとつ、わかったことがある。大事なことだ。
実は。
美少女の身体で水着を着てウロウロするのは……とても恥ずかしい!
アズールの身体を手に入れたオレに恥の感情が残っていたことは、自分でも驚きだ。
でも、しかし、だって、ほら。ロケーションは限定されるとはいえ、公共の場で許されている格好にしては、性的魅力をアピールしすぎている。こんな格好でいつもの絡みをルーファンにしたら、いよいよ仲が進展してしまうのは間違いない。そしてそれほどの服装で太陽の下を出歩いていると思うと、おかしくなりそうだ。
女性用の水着を身につけている、というのも、ひどく倒錯的な気分にさせられる。服装のことなんて今さらなはずだが、水着だと、自分の今の性別や容姿をより強く意識してしまう。
「……ふぅ、……はぁ」
陽射しのせいだろうか。水着のせいだろうか。
くらくらしてくる。はやく、仕事を終わらせてしまいたい。
「このあたりですね。アズさん、そろそろ、標的の魔物が現れるかもしれません。クライアントの情報では、凄まじい速度の横移動、捉えられると致命的な切断攻撃に気を付けるように、と」
「カニーーーッッ!!!」
「出ましたね」
▽
キンキンキンキンキン!!
海の魔物を倒した。
▽
ふわふわと浮遊している。
体調が悪いなとはずっと思っていたけれど、もしかすると、それは深刻なものだったのかもしれない。
夢遊病か何かにかかったみたいに、自分が何をしているのかよくわからない。ただ、身体が熱いことと、目に見える景色からして、まだ海水浴場にいることだけがわかっている。
えーと。
強敵相手に、砂浜で水着というハンデを背負いながら真面目に戦い抜いて、疲れた、のだろう。
そうだった。魔物退治を終え、あとはこの場を撤収するだけだ。
砂浜の迷路に別れを告げ、後ろを振り返る。
そこには、多くの海水浴場の例に漏れず、塩水を流すためのシャワーの個室が、いくつか並んでいた。
「…………」
そのうちのひとつには、誰かがもう入っている。それが誰なのかは、もちろん、わかっている。
さあ、自分も身体を綺麗にして、そして熱を冷まさないと。そう思って、個室に近づいていく。
並んでいるシャワールームの、そのうちのひとつを……選ぶ。これには1時間かかった気もしたし、1秒で決めた気もしていた。
扉は、ちゃんと鍵をかけられるタイプのやつ。それに、手をかける。
パーカーに隠した胸のあたりに、空いた方の手がいつのまにか当てられていた。どくどくという律動が返ってくる。心臓が動きすぎて、肺が押しつぶされているみたいに、息苦しい。
鍵は――、誰が勝手に扉を開くはずもない、と油断していたのだろうか。かかって、いなかった。
手を動かす。そうして、水音が、聴こえてきた。
「……ん? んえ!? アズールさん、なんで、なっ、なにしてるんです、あのっ……、なんでこっち!?」
ひとりで使うはずの狭いスペースに、侵入していく。彼の浴びていた水が、徐々に自分の髪も濡らしていく。扉が閉まった。
なに、って。自分でもわからない。
一生懸命考えて………
…………………、
…………………わかった。正解に辿り着いたような、晴れやかな気分。
あのときの、続きなんだ。オフィスで、ルーファンを受け止めたときの、そのあとの。
少年に近づくほど、身体が濡れていく。上着が、鬱陶しい。ファスナーに手をかけて、ゆっくり、ゆっくり、それを下ろしていく。
……う、わ。みてる。
前を開けて肌をさらすのを、ルーファンはまじまじと見ていた。きっと視線をどこにも逃がせないくらい、ふたり以外に何もない、極小の空間だったからだ。
視線がぶつかっている部分がやけどしそうだ。胸、脚、お腹、目、唇。順番に火が点いていく。今、目を閉じるでもしない限り、ルーファンに見える世界は、このカラダだけなんだ。それがわかった。
シャワーの水が互いの肌を滑り落ちている。
今まで、何度も密着することはあった。でも、こんなにお互いが素肌を見せた状態で、ここまで近付くのは、たぶん初めてだった。それに気が付くと、目の奥が沸騰してくる。あと数センチ、この水着を前に突き出せば、こんな顔をしておいて、暴れ狂った鼓動を胸に隠しているのが、向こうにばれてしまう。
「ルーファン、くん」
喉を通して出る女の声は、とても自分のものとは思えなかった。
その先を言え、言え、と、頭の中で何かが急かしてくる。
「いい、ですか。いい、ですよね」
何がいいのか、相手はもちろん、口にした側もわかっていない。わたしは、何かの合意を取りつけようとしていた。
熱い息を呑み込んで、おそるおそる、自分の手を持ち上げた。ルーファンの身体に触れる。わたしと違って、硬い身体だった。
戸惑う瞳の中を覗き込むように、距離を近づけていく。比例して、どきどきがドドドドぐらいに加速していって、送り出された血が頭にきて鼻血になって出るんじゃないかという限界の感覚がして――、
「ほげ……あう」
「えっ。あ、アズールさん? ……アズールさん!」
――あまりの熱に立っていられなくなり。たぶん、あと5秒後に白目剥いて気絶する。
4321……はい!
▽
「いやあ、治った治った」
なんかあんまり覚えてないけど、高熱で倒れてしまったらしい。季節の流行り病だったようだが、病名を聞きそびれていた。インフルエンザかな。
そして、おぼろげな記憶だが、治るまでずっと、ルーファンが手厚く看病してくれたみたい。同じ屋根の下に住んでいるということで、気にかけてくれたようだ。
迷惑をかけてしまったが、それにしても、なんて健気なやつなのか。ちょっと好きになっちゃうな。
……?
鏡に向かって体裁を整えていると、まだ少し頬が赤かった。顔を紅潮させたアズールは非常に可愛いのだが、まだ少し熱が残っているのかな。もう本調子のつもりで外出準備終わっちゃったけど。
さてと。
部屋を出て、グランメイズから出る……前に、社長のいるであろうオフィスに立ち寄る。
「おはようございます、社長。おかげさまで元気になりました」
「! お、おはようございます。アズールさん。快復されたのなら、なによりです」
「ちょっと内科に行ってきますね」
「はい。あ、今日はグランメイズはお休みにしますから、ゆっくりしてきてください」
と、もっとたっぷりお礼などしてあげたかったのだが、実際は少ないやりとりをして、会社を出てしまった。
なんか、気のせいかもしれないけど。ルーファンの態度がよそよそしかったような……?
熱うつらないように距離置かれてるのかな。くっ。今度から健康には気をつけよう。でないとルーファンくんをからかえないぜ。
経過をみてもらうため、迷宮都市の内科診療所に足を運ぶ。ところが、自分の番が来るまでに、けっこうな時間を待たされていた。
繁盛しているらしい。言い換えると、患者が多い。もしかしたら彼らも同じ流行病の患者だったのかもしれない。
やがて、アズールさーん、アズール・ブルーナイツさーん。という声がかかり、医師先生に元気な顔を見せるべく、待合室の椅子から腰を上げた。
「――ほんの軽い後遺症が残る可能性もわずかにありますが、ブルーナイツさんの普段の生活に支障はないでしょう。では、また何かあればどうぞ」
「ありがとうございました」
「いやはやまったく、毎年毎年、夏と冬。迷惑な流行病ですよ。人間にはどうしようもないですからね……では、お大事に」
先生の軽い愚痴で、診察はあっさりと終わった。
ここまで来て、知りそびれていた最も大事なことについて、先生に確認する。
「……ところで先生。この感染症は、なんという病名ですか。意識がもうろうとして、聞きそびれてしまって」
カルテに目をやることもなく、さらっと先生は答える。
「“身近な異性好き好き病”ですね。愛の神フレイヤが気まぐれに振り撒いている、ウイルス性疾患です」
身近な異性好き好き病!!!???