「おじゃましま……た、ただいま~、っと」
自分の喉から出た高い声は、少し上ずって震えていた。
記憶を読み込んでたどり着いたアパートの一室は、かばんから取り出した鍵で、ほんとうにちゃんと開いた。
緊張でどくどくする胸を手でおさえつけて、あっやわらかっ、ドアを開く。
……どきどきしたけれど、大丈夫だ、中には誰もいやしない。いまオレが動かしているこの身体……アズールという少女は、どうやら天涯孤独の身の上だ。
玄関で靴を脱ぐ。学生服とセットのかわいらしいローファー。そこから、生地のいいソックスに包まれた小さな足が、するりと抜ける。
狭い廊下をひたひたと歩く。靴下が蒸れていたみたいで、踏み足からじめっとした感触を受け取る。
リビングのドアに手をかける。緊張で、小さな口の中に唾液が出てきて、それを細い喉でごくりと飲み込んだ。
ドアを開ける。
「おぉ……」
綺麗に片付いている。元の自分の部屋とそこまで変わるものじゃない。ぱっと見の印象はそんなところだ。
けれど……、視線をそこら中に這わせていくと。
ベッドの脇に飾られた小さなぬいぐるみとか。机の上にある、友達との写真だとか。身だしなみを整えるための大きな姿見、机上の小さな鏡だとか。
それと、におい。甘い香りがする。この部屋と、あと、意識してみると、自分の髪からも……。
「うう。うぁ……」
――年頃の女の子の部屋なんて、はじめて入る。いい匂いがして、あたまがくらくらする。
――いつもの自分の部屋だ。何も特別な部分はない。ここは退屈な場所。
ふたつの記憶からくるふたつの感想は、まったく違うもの。そのちぐはぐさ、そして前者の自分が受け取っている情報量の多さで、脳みそがくわんくわんと揺らされる。思わず、その場にへたり込んだ。
「あ。うわ、やば……」
少し間をおいて気が付く。無意識に、自然に、いわゆる女の子座りになっていた。
なんだか恥ずかしくなり、いつもの、あぐらをかく座り方に直す。
「………」
こっちのほうが、どちらかというとやばい。
なんか……スースーする。だって、スカートだ。それで、その下には……、そうだ、今は誰にも邪魔されない。
ここにいるのはアズールちゃんだけで。そのアズールは、表情、出す声、頭のてっぺんからつま先まで、やることなすこと全部、今はオレの言いなりなんだ……。
………。
おお。
すごい。
タダで見ていいのかなこんなもん。
今の自分を、さらに観察したくなって、姿見の前に立つ。この鏡だって、いつもはアズールが服装を確認するために役立っているんだろうけど、今日はそういう使われ方はされない。たぶん、もっと、下卑たことに使われる……。
全身を映してみる。
短めの制服スカートからのぞく太もも、パツパツに張って窮屈そうなスクールシャツ、あのイラストからそのまま飛び出してきたような、最高にかわいいつくりの顔。
やばい、本当にあのキャラだ。何回もイラストをみた。あれがこうして現実になっていて、触れられる。三次元になった二次元の少女の肉体は、息をのむような迫力が……魅力があった。
そうだ、と思って、オレは、表情をきりっと引き締めてみる。
亜麻色の髪から覗く青い目は、力強くこちらを見返している。冷たい印象を受ける、細く絞られた吊り目と、きゅっと結ばれた唇から、このキャラクターの性格がなんとなくわかる。実際に、記憶から読み取ったアズールは、口数が少なくクールに振る舞う少女だ。
「……ふ、ふひ、えひひ」
表情が崩れてしまった。
クール少女はだらしなく口元をゆるめ、バカっぽく笑ってしまっている。
中身がオレだからだ。
身体を勝手に使って、こんなキャラ崩壊させて……うおお、申し訳ない。
「えへ」
でもでもでも、やばい、やめられん。
鏡の中のアズールは、膝に両手を置いて前かがみになり、これでもかと胸を強調しながら、上目遣いの媚び笑顔でこちらを見ている。
なんでも言うこと聞くじゃん……。なんでもさせられる……。
もし自分がこんなポーズをとれば気持ち悪いことこの上ないはずだが、なにせこれは自分ではない。そう思うともう、思いつくことをなんでも……。
……。
………。
それから、何時間くらい経ったか。
「鼻血でそう」
ちょっと休憩したほうがいい。
ベッドに腰掛け、そのまま身体を倒す。やわらかい布団に受け止められ、少しの間天井を見つめていると、なんと、しっかり眠くなってきた。もしかしてこの身体、疲れてる?
いや、そうか。いつの間にか、もう夜もいいところ。こんなに遊んじゃってたのか。
たぶん、いつものアズールが眠る時間なんだ。身体がルーティンを辿ろうとしているのだろう。
………。
このまま寝たら、元に戻るかもしれないな。
それならまあ、一夜の良い夢ということで、話は終わりだ。無事身体を返されてアズールも幸せ。エロい夢を見れてオレも幸せ。いいじゃない。決して残念じゃあないぞ。
……まだまだやってみたいことが、けっこうあったりするのだけど。
よし。
目を閉じてみる。
そうすれば、視覚情報を断てば、なんだ、いつもの自分となんら変わりないじゃないか。このまま安眠できる。
ほら、頭がぼうっとしてきた。鼻と口から、寝息が出てくるのもすぐだ。
「……すぅ。……すぅ」
………。
……なんだ、この可愛い寝息。
女の子の寝息が、自分の内側から響いてる。なにこれ。全然寝られない、こんなの。
寝息が止まる。あ、それは惜しい。もっと聴きたい。
結果として、顔を火照らせて熱心に狸寝入りに取り組む男……ではなく少女、というものが出来上がる。
「……すぅ。……すー、ふーっ。……ふんん、んぅ」
目を閉じたせいで、他の感覚が鋭敏になっているかも。
この、このベッド。良い匂いがする。女の子の髪の匂いだ。部屋全体より、それが濃い。
胸。上下しているそれ。息を吸って、吐くたびに、なんだか重くて苦しい。重しだ、これは。
カッ。
目を開けた。
全然眠れんぞ。
だったら、もう、あれだ。
開き直ってしまう。もっと、たちまち深く眠れてしまうくらい、この身体を疲れさせる。
「……ん。んっ。はっ、あ……」
枕のにおいをかぎながら、自分の、やわらかい少女の身体を抱きしめる。
寝かせてくれないこの身体。悪い女の子だ。
……だったら、もう少し、オレが遊んでも、いいよな。
アズールが、悪いんだから。
▼
起きた!
昼である!
身体は元には戻っていなかった!!
残念だなあ!!!
ベッドから降りて姿見の前に立つ。そこにいたのは、寝ぼけまなこで、髪に寝癖をつけたいつもの自分。
いつものオレ……ううん。
いつものわたし……アズール・ブルーナイツだ。
すぐに、自分の身体に目が行く。そう、胸が大きすぎるのが嫌で、脚にもお肉がつきすぎてる……あんまり綺麗な女の子とはいえない、わたし。体重も……ちょっと……かなり……重いし。
――いやいやいや。それは違う。今がベスト。わたし、こんなにいいカラダしてるのに。そうだよ、学校の男の子だって、よくこっちを見てる。その視線は今まで、嫌だったけど、でも……わたし、学校ではまず間違いなく一番人気の美少女なんだし……おっぱいもクラスで一番大きいし。もっと、もっと、いろいろして……あいつらを勘違いさせてやっても、楽しいかも……。
あれ。
なんか、ちょっとおかしいな。オレとわたしが、少し曖昧だ。
……どうやら、アズールの記憶を、昨日より詳細に読めるようになっている。人の脳は寝ている間に記憶を整理する、なんて話を聞いたことがあるが、そのせいかな。
それで、オレとこの子の記憶が、思考が、一緒くたになってきているみたいだ。さっきは寝ぼけてか、自分がアズールだと思ってたみたいだけど、本物はあんなにスケベ女じゃないはずだ。
これって、良くないよな。
だって、今なら、なりすませてしまう。この少女の、普段の小さな仕草から言動まで。きっとアズールの友達にだって、中身がオレだなんてわからない。何故だかそんな、根拠のない自信まである。
少し真面目に考えたけれど、それは、人生をすっかり奪い取ってしまうということだ。昨日まで自分らしく生きていた女の子の、これまでと、これからを、横から掠め取る。
……悪魔のような所業。邪悪だ。まともな人間でいたいなら、身体を本物のアズールに返す努力をするべきだ。
姿見に映るアズールは不安そうだ。きっと、自分の身体を取られて、悲しんでいる。何の罪もない善良な女の子にとって、これほどのむごい仕打ちがあるだろうか。
そっと、鏡面に触れる。
「………あは。あはは、えへへへ」
アズールが、うれしそうに笑い出す。
……ああ、正直、喜んでしまった。
罪悪感は、そりゃ、たしかにある。でも……こんな美少女になれたんだ。最高だ。愉快で仕方がない。
罪悪感をしっかり大事にして、ずっと申し訳なさそうに、殊勝な態度でいる――なんてこと。だめだ、できない。オレは、そんな善良な人間ではいられないらしい。
「ふへへ……」
にやけてしまう。アズールの冷淡そうな顔を、みっともなく紅くして、喜悦に歪めてしまう。理屈の上で、自分の卑しさ悪辣さをわかっていても、胸が勝手に躍ってしまう。
このデカいお胸の奥の心臓が、熱く、どっくんどっくんって言ってる。なんだ、アズールも喜んでるじゃないか。……なんて。
そうだ、身体を取られたっていうのに、鏡の中の少女は心底嬉しそうだ。それはどうにも倒錯していて、なんだか、顔が、身体が、ぽかぽかと火照ってくる。それで、もっと頬が、肌が赤くなる。
ごめん、アズールさん。
せめて君の身体は、これからの人生は、オレが大事にするとも。
もしかしたらほら、いつか突然、元に戻るかもしれないし。
「はいっ。それまで、わたしのカラダ……あなたの自由に使ってくださいね。……いひひ……」
本人から許可を得た。
さすがに、下賤すぎる行為だったので、誰も見ていないというのに、気恥ずかしさ、罪悪感、自己嫌悪なんかがほんの少しわいてくる。
でも、やっぱり。
首筋のぞくぞくと、お腹の下の甘い痺れが、勝ってしまった。
「……ん?」
ひとしきり鏡を見て満足すると、気付く。
肩を顔に近づけて、すんすんと嗅いでみる。
………。香りが、なんか、つよいかも。
そうか、お風呂……昨日は、入ってないんだ。制服も洗ってない。
………。
風呂………………入るか。
そうと決まったら、引き出しから着替えを、両腕いっぱいに取り出して。
脱衣所へ向かう。気がはやりすぎて、否、重量が前方に傾きすぎて、すっ転ぶ。カラフルなあれこれが散乱する。
「いたた」
記憶を読み込んでアズールの動きを再現できるはずだけど、オレの欲望が前に出過ぎるとこういうこともあるっぽい。
気を取り直し、つい鼻をふんふんと鳴らしながら、女子の布を拾い集める。
そうして、狭い廊下の、小さなドアをばん、と開けた。
「……はー。はー」
「ん、ん……どうやって外すんだこれ。あっそうか」
「うお……でっっ……」
▼
風呂!!
入った!!
気持ちよかった!!!
時刻は午後2時ごろ。超・昼である。一日を始める支度がようやく整ってきた……わけだが、いささか遅すぎる。
しかし問題はない。アズールの今日の予定は、午後4時にアルバイトが控えているというだけ。朝から登校すべき学校の方は、今年取得するべき単位のほとんどを既にクリアしていて、週に何度も顔を出す必要がもうないらしい。この17歳の春からアルバイトでお金を稼ぐために、今日まで計画的に生活していたようだ。懸命に生きてきたのにオレに乗っ取られてかわいそう。
……なんか、学校のシステムが、オレの常識にあるものと違うな。まあ、別に不思議じゃない。ここはあのゲームの世界なんだから。
そう。それで、このアルバイトというのが、『ダンジョンロード/Retry』の舞台のひとつである、地下大迷宮でのバトルやら何やらだ。
雇い主は、昨日オレがおっぱいで頭部を圧壊せしめたあの少年。彼、どうやらなんと、ゲームの主人公=プレイヤーの分身、であるらしい。
少し、考えた。
アズールは苦学生だが、アルバイトに、何も命の危険があるものを選択しなくてもいい。他にお金を稼ぐ手段はいろいろある。こんな高スペック美少女になれたんだ、人生勝ち組に決まってる。
殴り合いのケンカもほとんどしたことないオレが、腕っぷしに自信があるらしいアズールの身体でとはいえ、ゲームのモンスターどもと戦う。それはちょっと不安だ。
だから、このままダンジョンロードの舞台に飛び込んでいくべきか。
それを少し考えた。
そして暫定的な答えはこうだ。
「面白そうだから、まずはやってみる。」
リスクと興味を天秤にかけて、後者をとった。たぶん、アズールになりかわってから、溢れる万能感で判断がおかしくなっている。とは思う。
だって、アズールの記憶を読んでみた感じ、
……そういうわけだから。外行きの格好に着替えたら、これから行くつもりだ。
バイト先の、あの“迷宮都市”へ。
「おし」
昨日今日と酷使した、部屋の姿見。そこにいま映るのは、またしても制服姿のアズールである。もちろん洗濯済みのやつ。
なやんだ。とても。この身体に何を着せるか。
しかし悩み過ぎて……飲食店では、いつものと同じやつを注文する。オレはそういうタイプの客である。
女子の制服姿はかわいいね、という話でもある。
とはいえ、昨日とはプチ変化が欲しいとは思った。それでアズールの記憶をたどると、1年前くらいによく、肌寒い日に羽織っていたパーカーがヒットした。
クローゼットから掘り出し、いそいそと鏡の前へ。学生服の上に着込むように、袖を通していく。
ファスナーをじっと閉める。
「うおっ……、し、しまらん!!」
そこで、最近このパーカーを着ていない理由を“思い出した”。
育ち過ぎたものにひっかかって、チャックが上がりきらないのである。いやさ、無理やり閉めることはできそうだが、多分そうすると、もうキツくて……パツパツで、“みっともない”。
アズールの顔が熱くなってきて、ほんのり紅くなる。太って着られなくなったのが恥ずかしい、みっともない、という感情を思い出してしまった。
……だが。
いい。とてもいい。
ぜんぜんエッ……かわいいと思う。アズールはもっと自信満々に、胸を張って往来を歩いていいと思うよ。
というわけで、この格好で決まり。
さあ、荷物を持って、ここを出よう。
「ふひゅ~」
コーディネートの出来上がりに満足し、口笛を鳴らそうとした。
しかし口の内側のかたちが元と違うのか、どうにもうまく吹けなかった。
鏡に映る、くちびるを小さくとがらせているアズールは、少し恥ずかしそうだった。
▼
××県内、国立第八迷宮都市。
市街から交通機関を利用して訪れることができるここは、表層から地下第5層までは、市民が生活している“都市”である。
その、最下第5層。上層に遮られて日が届きにくい、そして“魔物”の出現域に最も近い、たぶん安値の土地。
その一角に、小さな企業体である『グランメイズ』という店舗がある。どんなお店なのかというと、まあ、“迷宮何でも屋”だ。
……その、入り口の扉の奥。小さな小さなオフィス。
「
「ルーファン・グランドーダです。迷惑だなんてとんでもない、それより、体調は平気ですか?」
「はい。おかげさまで」
「よかった。……えっと。こんな小さな会社に足を運んで頂いて、ほんとうにありがとうございます、アズールさん」
おお、できた子だな。
ルーファンくん……社長は、まだ15歳の身の上で一国一城の主になってしまったらしい。前社長のときにいたわずかな社員たちも散り散りになり、人手不足の極みに陥り、店を畳むか悩んでいたのだと言う。
アズールが募集の中からここを選んだのは、そう特別な理由は無く、なんとなく、気が付くと要項を手に取っていた、といった程度のもののようだが。彼からは、奇特な救世主のように見えているかもしれない。
………しかし、まあ。
このガキ。さっきから、オレの目を直視できていない。視線をあっちにこっちにと揺らしていて。
でも、わかるんだよな。本当はどこを見ているのか。
……パーカーで強調したおっぱいに、ときどき目が行ってる。
それが、とても不快――、
では、ない。
「改めまして、アズール・ブルーナイツです。……これから、よろしくお願いします、ルーファンさん」
礼儀正しく、手を身体の前で組む……ふりをして。昨日、鏡の前で遊んだみたいに、両腕で胸を寄せて、うやうやしく頭を下げる。少年がいちばん気になっているだろう部分を、存分にアピールする。
顔を上げる。
ルーファンくんは、今日一番の赤面を披露していた。
「……? どうかしましたか?」
「いっ、いえ!」
やば。愉しい。
くせになる。こいつ、このままいけばアズールの虜になる。
それって、すごく……なんか、いい。
もうひと攻め、してみる。
人に対して笑顔を作って向ける、というのは、あまりやった試しがない。自分のことを、相手に好印象を与えられる顔つきの人間だとは、あまり思えなかったからだ。
でも今は。自分の顔が、最高にかわいいことがわかっているので、それができる。
オレは、目の前の少年に向かって、ふっと微笑みかけた。
「……!」
やはりこちらを直視できなくなり、視線を泳がせる少年を見て。
わたしは、自分の柔らかい唇を、小さく舐めた。