「う~ん……」
小さなオフィス内。自分にあてがわれたデスクで、武装の手入れなどしていると、そこに少年のうなる声が聞こえてきた。
ちら、と視線だけ動かしてみる。事務仕事に追われている様子のルーファンくんは、自分の机上に向かって、少し険しい表情をしていた、
アルバイトを始めてから、すなわちオレがアズールになってから、もう一週間は経っただろうか。
仕事にも慣れてきて、社長に期待されたぶんの活躍は出来ているかなと思う。彼の表情は、最初の日よりも明るく上機嫌な様子に見えるからだ。まあ、隙を見て逆セクハラをしてやると、この子は顔を赤くして困ってしまうのだが。
ともかく、初週の手ごたえとしては、うまくやれている。
と、思っていたが。
やはり経営者にしかわからない面倒事があるのだろう。さっきからどうも、事務仕事の進みが滞っているようだ。
オレは自分の仕事が終わったらさっさと退勤する人間であるが。まあここはひとつ、まだ中学生の年齢なのに、あれやこれやの仕事をしないといけない少年を、この身体を使って応援してあげる・ねぎらってあげるくらいのことは必要だろう。
しかたない、脱ぐか……。
一肌……。
「社長。お疲れ様です」
知らんふりしてここに持ち込んでいた、お茶菓子と紅茶(自分用)を、そっとお出ししながら声をかける。
社長の顔が、きょとんとしたものから、徐々にほんのりうれしそうなものに変化していくのを見て、おっとしまったな、と思う。アズールの姿でこれは女子力が高すぎた……今すぐ告白されるかもしれない、どう断ろうかな。
いや、この場で押し倒されてめちゃくちゃにされてもおかしくない、なにせ15歳という盛りだからな……。出会って一週間目なのに心を弄んじゃったな……。
やばいなんか、身体がムラム……むんむんしてきた。今日は少年の邪な純情をこのカラダで受け入れるのもやぶさかでは。
「ありがとうございます、アズールさん」
ルーファンは幼く見える顔をほころばせ、落ち着いた様子で3時のおやつにお礼を言った。
はい。
「経理のお仕事ですか」
「ああ、いえ、これはですね……。お役所への報告書を作っていたんです」
「報告書」
「ええ。迷宮に異常があったときに送る、報告書」
うん?
迷宮に“異常”。何やらシナリオが動き出している気配だ。
こっちはまだ正常な状態も把握しきれていないのに、もうそんな事件っぽいこと起きてるのか。
ずっと社長と一緒に迷宮を歩いていたはずだが、心当たりはない。ルーファンは、オレにはわからなかった何に、気付いたというのだろう。
「最初にアズールさんが出勤したときのこと、覚えていますか。第7層で、魔物の群れを一蹴しましたね。かっこよかったです」
「ありがとうございます。……そこに、何か問題が?」
「“魔物の質”が問題でした。あのとき、一度に4体が襲い掛かってきて、そのうえもう1体が背後から不意打ちを狙ってきた」
ああ。
吹けば飛ぶような木っ端ものの魔物たちとはいえ、4体並ばれると、たしかにそこそこの威圧感があった。この上ルーファンの後ろからもう1体来たときには、さすがに心臓に冷たいものが刺さった。
でも、魔物は人間への試練なんだから、それくらいのことはするだろう。
「これはおかしいんです。居住域から2階分降りただけの浅層では、魔物が徒党を組んで、人間の裏をかく――なんてこと、起こらないはずなんです。だから、気になってしまって」
ふうん。ゲームみたいに、ちゃんと敵のレベルに決まりがあるってことか。
ダンジョン初心者からしてみれば、ルーファンの話は神経質なものにも思えたが、その表情は真剣で、確信に近いものを持っているように見える。
まあ、自分たちの命を守っていくには、こういう気付きは大事だな。彼はえらい。
話しながらルーファンくんは、デスクに置かれた紅茶とオレの顔を、目をきょろきょろとさせて見比べている。飲んでいいよ、もちろん。
「アズールさんの活躍でしっかり生き残れたので、ささいな違和感にも思えましたが、やっぱり報告したほうがいいかな、と。事実を書けばいいだけなので、簡単な作業です」
「手が止まったり、唸ったりしていたようですが」
「あっ、見られてたんだ。恥ずかしいな。それはその……勝手に原因を想像したりして、余計な文章をしたためて、それを全部消したりしてました。あはは……」
はあん。作りなれてない文書だとそういうことあるよね。
「わ、この紅茶おいしいですね。ありがとうございます、へへへ」
女の子っぽいくらいの童顔で少年らしく笑い、ルーファンくんは素直に喜んでみせた。世の上司がみんなこの系統の顔と性格なら部下も気を遣う甲斐があるんだけどな。
いやはや、しかし……こうやって仕事現場のことをよく見ている社長くんと違い、オレはまだゲームプレイヤー気分が抜けていない。油断しているとやっぱり死んだりするかな。するよね。
なるべく気をつけよう。
胸の下で腕を組む。持ち上げるようにすると肩が楽。
社長を斜め後ろから見下ろす。彼は小さい口で、今度は安物のお菓子をもそもそと食んでいる。
かわいいな。小動物みたいで。
いじめたさがある。
▼
本日の勤務開始時間がやってきた。
今日も社長の護衛役として、武器を両手に迷宮を進んでいく。
現在、地下第16階層。
戦闘員として雇われたオレにとって、日々の業務内容は単純だ。よりよい稼ぎを得るため、そして、自分たちの実力で安全に仕事ができる階層はどこまでなのかを計るために、とにかく先へ先へと潜っていく……ということを、社長と一緒にしている。
この一週間で、新たにわかったことを反芻してみよう。
現在我々は16層をうろついているが、勤務開始からこの短時間で、会社のある第5層から10階分も駆け降りてきたわけじゃない。今日は、“15階からスタート”したのだ。
5階層ごとに
あと、これは今思いついた結構どうでもいい話だが。もしかすると、地下第5層、第10層、第15層…と、五階ごとにしかない転移門がないという不便さから、ややアクセスしづらい12、13、17、18層なんかは、同業者の少ない穴場になっていたりするかもしれない。
そうだ、同業者たち。
探索中は、ときたま同じ探索者とすれ違い、あいさつをする、なんて場面もある。
さっきも15層で、引き上げていく途中のチームとすれ違った。人数は我々の倍以上。本当はあれくらいが適当な人員なんだろう。
ルーファン君も向こうのリーダーも、愛想よく挨拶を交わしあっていた。互いに同じ街、同じ職種の人間である以上、横のつながりは大事だ。
……しかし、同業他社はやはり、ビジネスの面では資源を取りあうライバルである。すれ違ってあいさつすることになる、というのは、その階層の商品は持って行かれてしまったということ。鉢合わせになる、イコール、儲けは減っている。
これを避けるためには、やはり進み続けること。活躍の場を、より下へ、下へ。魔物が強くなっていくから、そのぶん探索者も減る。収入は増える。
まとめ。
同業者を追い抜き、もっと深い層に到達し、質の良い資源を商材とすることが、ルーファンくんがこの会社を守っていくためには必要だ。
そして深くまで潜るためには、強くならねばならない。
ということで。
当面のオレの目標はやはり、稼ぎのために強さを追い求めていくこと。あとルーファンの性癖ぶっ壊し。
歩き進み、少年と信頼関係を育み、魔物を倒していく道中。
地面に転がる魔物の遺骸、そしてオリンピック選手もかくや、という運動をこなす自分の身体を見下ろして、ふと思う。
……そういえば。
この世界。『レベル』とか『ステータス』とかって、ないのだろうか……?
「――っと。社長、下がって」
例によって、魔物だ。向こうの通路から足音、そして魔力の気配がある。
銃口をそちらへ向ける。気を引き締めよう、とは思いつつ、まだ少し気分に余裕がある。悪くいえば油断がある。
この一週間余り、何回か魔物との戦闘をこなしたが、全然苦労しなかった。アズールは戦闘に自信があるからこのバイトを始めたわけで、実際、実力をしっかり発揮できている。おそらく30層までは簡単にいけそうだ、とオレは予想している。
しかしもっと下層へ、となると、やはりさらなるケンカの強さと、それか、正直、もっと人員が要るだろう。
背後では、ルーファンが探索道具の荷物を下ろし、古めかしい剣を引き抜いている。
せめてこの子がもう少し魔物の相手をできたら、おそらく潜れる限界はだいぶ違ってくる。主人公らしく覚醒イベントとかないのかね。
などと考えてから、罪悪感。本人だってもちろん、そうありたいだろうな。
まあ、気長に気長に。アズールもルーファンもまだ10代のみそら。これからこれから。
「ん。人型――」
「えっ? まさか、そんなはず」
あちら側からぬっと現れた魔物は、剣を携えた西洋騎士の姿をしていた。ともすれば人間と間違えそうだが、鎧の節々から奇妙な光が漏れていて、なにより、ところどころ割れている面の下は、何もない空洞だった。
当然、眼の動きなどわからないが、足取りからして既にこちらを認識しているはず。
光剣はオフに。両手で保持した銃は、魔力を吐き出す準備をすでに終えている。狙いは胴体につけている。
初見の魔物だ、できることならしっかり様子を見て、どんな行動をしてくるのか勉強してから対応したいところだが。
「『アインヘリヤル・ドール』!? な、なんで!」
ルーファンの声には、大きな動揺が含まれている。それがこちらに伝播してくる。
なんだ? あの魔物に、なにか、おかしいところでも。
「アズールさん! そいつは、そいつはっ! “100層より下”の魔物ですッ!!」
「え――」
鎧騎士が、右腕の剣を振り上げた。
即座に引き金を引く。どん。そして、ぎん、という異音。
魔力で形成された弾丸は、しかし、鎧を貫通していない。あのボロ鎧に見えた敵の体表は想定より硬く、弾かれてしまったのだ。
「ッ……!」
心臓から冷たいものが、背中、うなじ、頭のつむじへと駆けあがってくる。離れた場所にいる敵の、その剣が、振り下ろされていく。そのさまが、とてもゆっくりに、見えている気がする。
あの位置で武器を振り回されても大したことはない。でも……刀身、いや、右腕が発光している。
やばいやつかもしれん。
そうして、スローな世界を抜けた。
激しい音、衝撃がやってくる。
咄嗟に眼前を遮った
破壊された土くれの向こう。剣を振り下ろした姿勢のそいつ。面の下には何もないカラの騎士から、あるはずのない視線を感じた。
「社長、もっと後ろへ」
予兆も何もない、いきなりすぎる登場だが、あれはなんというか、“ボス”だ。
ここまで倒してきたやつらと全然違う。緊張感で耳鳴りがする。頭皮が引きつる。
100層より下の魔物、か。なぜこんなところに? どうすればいい。
いろいろ疑問はあるけど、でも、わかることもある。それは――、
光剣を抜き出して、両手に武器を持ついつものスタイルになる。
腕に魔力を走らせ、
――あれを倒せば、もっと下でも通用するってことだ。
▽
キンキンキンキンキン!
という激しい戦いの末、負けた。
「ぐ、う……」
迷宮の壁に叩きつけられた。そこから立ち上がろうと力を入れると、さすがに全身が痛い。
バリアのおかげで後に残りそうな傷はないけど、衝撃は殺しきれていない。まずい、性能が追いついてない。
あいつ、強すぎるぞ。序盤に後半の雑魚敵が出て来たらおしまいだという、当たり前のことを、自分の身体で思い知ることになるとは。
敵の武器を見る。肉厚で重そうなロングソードだが、こっちは銃をメインにしてリーチの外から攻めることができるはず。なのに劣勢になっているのは、あれのせいだ――。
さっきから向こうがやってくる、宙を飛ぶ斬撃。地面を伝う衝撃波。
……
あいつ、魔物のくせに、
人間が敵と渡り合うための技術を、その敵が使ってくる。冗談じゃない。相手は身体の硬さであるとか、膂力であるとか、そういう部分がそもそも人間と違うだろう。卑怯だ。
そして、浅層の魔物とも違う。いつもの銃や剣の出力じゃ、攻撃が通じない。そりゃそうだ、この武器は迷宮の浅い層までの魔物を想定して、威力と燃費を調整されている。ルール無視の高レベルエネミーに来られたらどうしようもない。
どうする。どうする。
なんとか立ち上がり。相手に向き直る。
ふらふらのオレを見た敵は、また剣を上段に構え、凄まじい勢いで突撃してきた。もう技を使うまでもないということか。
速い。自動車が目の前から突っ込んでくるような恐ろしさ。
はっ、はっ、と、呼吸の感覚が短くなっていく。
わたしは、今は役に立たない両手の武器を、手放した。
今。
両手で構え、引き金に指をかけると、小さかった銃身が、太く長く、伸長した。
この鎧は、スペックは高いけど、攻撃してくるときはものすごい大振りだ。だからこの瞬間、当たり前だけど、腹はがら空きになってる。
加速した世界の中で、バレルを鎧に密着しそうなくらいに近づける。
体内の魔力を銃とつなげて、トリガーを引いた。
まるで砲弾のような巨大な魔力弾が撃ち出され、鎧を吹き飛ばす。
そのまま突き当りの壁に到達すると、ぎんぎんに光った弾が炸裂。爆発した。
「あぐっ! う……はぁ、は、あ、はぁ……」
地面にへたりこむ。膝は自然と内側に折れて、女の子へたりになった。
とんでもない反動で、肩が、肘が、手首が……とにかく、右腕がイカれてる。ずきずきと痛い。
泣くほどではないので、たぶん大怪我とまではいってない。が、今日はもうこっちの腕は使えなさそうだ。
加えてドラグーンとかいう銃の、弾丸の燃費。残っていた魔力、すなわち体力をごっそりもっていかれた。腕どころか、もう、身体が動かせないし、あたまもくらくらする。
さっさと上に戻って休みたい――、
「あ、アズールさん、まだ!」
その声を聞いて、すぐに身体をかばったけれど。
あんまりな衝撃で、全身、ばらばらになったかと思った。
かすれ声でうめく。上半身を、何とか、何とか起こす。
いまのは、敵の
吹き飛んだ土煙の向こうから、あちこちヒビが入りつつも機能を損なっていない鎧騎士が、再度現れる。仕留め切れていなかったのだ。胴に穴空いてるくせに、動きやがるなよ。
こちらの状態は。
胴に穴が、なんてケガはないけれど、着ている服が無残に破れてしまっている。攻撃がついに、バリアを完全に破ってきたんだ。ジェネレーターからエネルギー切れのアラームが鳴っている。
まだ五体満足だけど、次同じのを喰らったら……!
「う、く……!」
もう動けない。まさかそれをわかっているのだろうか、敵はガシャ、ガシャ、とゆっくり、絶望を煽るように歩いてくる。
やがて、すぐ、目の前にまで。
なんとか首だけ動かして、見上げる。
やはり面の下には、なにも、なかった。
なんてことだ。オレはまだ、まだ楽しめてない。冗談じゃない。
わたしはまだ、死にたくない。こんなところで。いやだ。
鎧が剣を振りかぶる。見せつけるように、高く。
「……あ、うそ、待って、待って待って待って、まって――」
実に情けない声が、女の子のかわいい音で喉から出た。
剣が振り下ろされる。
ああ、なんか。ファンタジーの魔物に殺されるって、非現実的過ぎて、実感が。
がん。
鋼のぶつかりあう音で、つい閉じてしまったらしい目を開ける。
そこには。
わたしを守るために立ちはだかり、敵の剣を受け止めている少年の背中があった。
…………思わず、口元を手で覆った。
笑いが漏れたからだ。これではまるで、
「ぐ、くそ……!」
「しゃ、社長」
だが、それもすぐに危機感と心配に置き換わる。大上段からの剣を、彼は自分の剣の腹で受け止め、支えているが……、ルーファンの実力では、あれは倒せない。
逃げるのも――オレを置いていけばできるかもしれないが、彼はそれをするだろうか。
「きみだけなら、逃げられるのに」
ぼそ、と口から言葉が漏れる。この子に声をかけた、というよりは、単なる独り言だった。
この状況、どうする。もう一度なけなしの魔力で攻撃するか? いやもうドラグーンは無理だ。まずいまずい。考えないと。
敵はこの状況を楽しんでいるのだろうか。剣にさらに重みを加えてきて……ルーファンの脚が、折れる。膝をついて、それでも剣を健気に支えている。
鎧に攻撃をするなら今しかない。オレは――、
「……るものか」
「え?」
「逃げるものか! ふたりで、ここから帰るんだ! うああああーッ!!」
ここで、異常が起きた。
ぶわ、と。少年の肌に、なにか、文字列でできた幾何学模様が広がっていく。
それは全身に張り巡らされていき、そして、強烈に光り始めた。
……これ、もしかして、一般のものと体系が違うけど、
まさか。ついに、きたのか。このお誂え向きのタイミングで。
主人公の覚醒イベント――!
魔物の刃を防いでいたルーファンの剣が、刻印と同じ色の光を放ち始める。いや、よく見ると、身体の刻印が、剣にも広がっていた。
これは……いったい、どういう?
息を呑んで推移を見守る。すると、どこからともなく、全く知らない、男の声が響いてきた。
『ようやく目覚めたか、我が主よ。さあ、俺に命令を下せ!』
「この声は……!?」
声の発生源は、ルーファンの手の中。
剣? あの古い骨董品の、いま目の前で光っている剣が、しゃべっているのか?
「この状況を打開する術を!」
『ようし、わかった――うおおおおっ!!
剣の刀身が、目を開けていられないぐらいに、さらに眩く輝きだす。
おお、これは。
すさまじい魔力があの剣から感じられる。魔物もひるんでいる。オレこれ知ってる、すごい光るビームで敵を焼き尽くす技に違いないぞ! すごい! いけルーファンくん!
『……おい。おい! 何やってんの主! あと胸の大きい少女! 今のうちに逃げるぞ!』
「え? あれをやっつけてしまえるんじゃ……」
『ちがうよ、単なる目くらまし技だよ。さあ早く!』
がっかりすぎる。
もうだめそう。
「……ダメだ! アズールさんはまだ動けない……! 彼女を背負って、ここから逃げられるかどうか」
『ほお、あくまで従者を守るかね。……わかった、本当の最終手段を出す。少女の手を取れ!』
「アズールさんっ!!」
剣の光を魔物に向けつつ、少年は座り込んだままのわたしの手を、奪い取るように掴みとった。
痛いくらいに力強く握りしめられる。すごく、必死な目だった。自分の、というより、こちらの生存を願うような。
『
さらに眩い光が、視界を埋めつくし――、
そして、次の瞬間、空気が変わった。
「こ、これは? ううん、ここは……」
少年の声を聞き、自分もまた周りを見渡してみる。
鎧がいない……というか、景色が微妙に違っている。まるで場所を変えたかのような。
背後を頑張って見てみる。そこには、ひとつ上の層へと続く、迷宮の大階段があった。
『ハァハァ……第16階層の……ハァ……入り口まで、っ、ハァ、ハァ……ジャンプした……さあ、早く地上へ……ハァ、戻ると、いい』
めっちゃ疲れとる。
ちょっとの距離を逃げただけじゃんかよ。いやまあ、転移門でもないのに二人分テレポートさせてるのは、すごいかもしれんけど。
「あの、あなたは……父さんの、剣、ですよね。いったい……」
『話はあとにしよう……ちょっと……ハァ……休憩させてほしい……。あと、早くこの階から……フウゥ……出た方が、良い……』
ぜいぜいうるさい剣を、少年は鞘にしまった。
「荷物は……そうか、諦めるしかないか……。アズールさん、ここを出ましょう、肩を貸します――ちょわぁッ!?」
ルーファンがこちらをみて、素っ頓狂な声をあげて、自分の目を腕で隠した。
なんだ。
自分の身体を見下ろす。
あー。
服が破かれたせいで、たわわたゆんぼろんが現世に顕れ出でてしまっている。それだけマジな戦いだったということだ。
くそ、服代弁償しろ、あの魔物。アズールのかわいい学制服風戦闘服が……。
裸差分の裏では、少女の衣装代が犠牲になっているのだ。
「うわああ、これっ、これ着てください」
ルーファンが上着を投げよこしてきた。ありがとう。
袖を通そうとすると腕が痛い、と言って、とりあえず肩の上から羽織るだけした。生乳隠しきれてないスタイル。
つーか、下着までズタボロにしやがって……。あれがないと重いしけっこう痛い。外を何時間も歩いてられないっての。わざと着けないで少年を誘惑するのは、ホームの中でだけでいい。
「すみません社長。あの、脚、動かなくて……」
魔力が本当に底をつくと、歩くのも大変な状態になるらしい。迷宮では致命的だな。
「お願いします」
と、がんばって両手を持ち上げて、ひとこと言う。
おんぶせえ、ちゅう意味。
ルーファンは、顔を赤くして、背中をこちらに向けてくるのだった。
時間をかけ、なんとか小さな背中にしがみついた。今回ばかりは本当に要介護状態なので、中途半端なおんぶでは困る。
「! あう……」
「ごめんなさい、重いですか」
「い、いえ、全然……」
ズタボロにされたせいで、形を保つのに大事な支えを失い、まるで壁にへばりついたものの重力に負けてこぼれ落ちかけている伸び伸びの餅みたいになってしまったアレ×2を、少年の背中に押し付ける。さぞ柔らかいことだろうと思う。
むっやばい。さすがに薄布一枚だと、あれが……ルーファンの背中に……。
あと、なんか心臓の鼓動が、向こうのが伝わってきて、感染してくる。互いの体温も……。
なんか恥ずかしくなってきた。
「あの、社長」
「は、はい」
「助けて頂き、ありがとうございます」
と、これだけは言っておく。
わたしもさすがに、今はちょっと本調子じゃない。いいシチュエーションだけど、エロいことをするのは、このぐらいにしておこうか。
▽
殲滅対象である現地生命体――ヒトを見失い、空洞の騎士は動きを止めた。
しかしそれも一瞬のこと。すぐに架空の感覚器官が、同階層内にヒトの存在を察知する。未だ戦闘状態にある騎士は、ボロボロと破片をこぼしながらも驚異的な速度で通路を駆け、彼らのいる場所へ迫っていく。
これは命令。このメイキュウとやらの秩序に刃を向け、それを崩壊させること。それが騎士に、ほんの少し前、新しく追加されたプログラム。
2体のヒトを完全に捕捉する。ルートは直進、右折、直進、左折。すぐにこの
「―――おい。人んちで好き勝手に暴れるなよ、お客様」
そこで、騎士は機能を停止した。
破壊前に届いたデータによると、突如眼前に出現した1体のヒト/
これをやったのは、
▽
つとめて、何も考えないようにする。
アズールさんの……脚を、両脇に抱えて、転移門を目指す。
「ごめんなさい、重いですか」
アズールさんの落ち着いた声が、あつい息と一緒に耳にかかる。こんなに近くから声をかけられるなんて、ヘンだ。おかしい。頭に声が染み込んできて、ぼうっとして、熱が出たみたいになる。
「い、いえ、全然……」
重いか重くないかでいえば、その。軽くはない。
でもいつも背負ってる荷物だって結構重いし、アズールさんはあんな持ち歩くのも面倒な道具なんかより、心地いい重みというか、あったかいというかやわらかいというかふかふかしているというか。それに、いい匂いがする。女のひとの匂い。
………。
背中に、僕が知っている物体のなかで、いちばんやわらかいものがあたってる。考えないようにしていたのに、歩けば歩くほど、そこからの感触がある。
意識してしまったらもうだめだ。心臓が爆発しそうになる。アズールさんの息遣い、体温、それに鼓動。ぜんぶがはっきり伝わってくる。だめだこんなこと。この感覚に集中したらだめだ。アズールさんへの裏切りだ。
………。
アズールさん、すごく、ドキドキしてるみたいだ……。
鼓動が速い。どうして。まさか。いや。僕、どうしたら……。
………たぶん、まだ迷宮の中で、安心できないからかな。それにさっき、あんなに激しい戦いをしていたんだ。落ち着かないのは当然のこと。
ああ、そうだ。
僕は、アズールさんがボロボロになっていくのを、ただ見ているだけだった。
弱くてもできることはあるんだって、彼女は教えてくれたけど、いくらなんでも今日は最悪だった。
もっと、もっと、何か、なかったのか。やれることは。
「あの、社長」
落ち着いた、大人みたいな声がかかる。
それで、背中の温かさをまた、思い出してしまった。
「は、はい」
「助けて頂き、ありがとうございます」
―――――。
それは、こっちの言うべきことだ。アズールさんは、限界まで、自分の役割を果たそうとしてくれていた。それこそ、彼女一人なら、逃げることはすんなりできていたはずだ。それをしなかった。
まだ、知り合ってから、2週間も経ってないけど。
アズールさんは、すごく……すごく、信頼できるひとだ。
僕は、彼女に出会えて――。
父さんの剣。
これで、できることは増えるだろうか。
あの魔物はなんだったのだろうか。
わからないことだらけだけど、僕は、もっと、頑張らないと。
「社長。……ルーファンくん」
「あっ、は、はい?」
すごく近いところから声。アズールさんの頭が、右肩に重みを預けている。口元が、僕の耳に向けられているのが、吐息の感じでわかってしまった。
肩にかけられていた両腕が動き、ぎゅっと繋ぎ合わさって、僕の首元をゆるく締め付けた。
名前……。くん、って。
「ルーファンくんはあのとき、逃げませんでしたね。わたし、そういうの、好きですよ」
「………」
「聞いてますか? わたし、好きです、きみのこと」
「……! あ、う……」
どきどきしすぎて、何も返事できなかった。
変な意味じゃない、好ましい、って言ってくれたんだ、アズールさんは。
とにかく、早く帰ろうと思った。
「……ふふ」
小さく笑う声が耳に入った。
前から思っていたけど、アズールさんはたぶん、僕をからかってる。そんな人だ。
勘違いしないように、気をつけないと……。
こっちの鼓動が伝わらないようにと祈りながら、迷宮内を歩いていく。
幸せだけどつらい、という状態がこの世にはあることが、今日はわかった。
いろいろあったけど、アズールさんの熱さと柔らかさと重さと声と匂い以外、何も覚えていない……。