なんとか元の調子に戻していかなければなりません。
………
かつて火の無い灰が、一人の聖女に読み聞かせられたものでありそしてその内容を聖女が読み聞かせを通して理解していったことの裏返し。
すなわち灰が点字聖書を読み聞かせ、ドルミゥがそれを聞いて思い描きまた読み直して理解していくという試みが始まっている。
とはいえ灰の信仰はそこまで高くない。彼の教えられる奇跡は初歩的なものと、実用性という点でなんとか覚えたものに限られる。
狭いベッドに二人並んで座る。灰が聖書の紙面を指でなぞって読み聞かせ、それを軽く着心地の良い白のドレスを着たドルミゥは灰の肩に頭を乗せ体を任せて神話を聞き入る。この時間は常に夜、寝る前だからだ。
「ふっ、くぅ…。」
ふと灰の肩に任せたドルミゥがくぐもった小さな声を上げる。欠伸をかみ殺したのだ。
「む…ドルミゥ?」
「ぁすいません…。」
灰がドルミゥを優しく抱えて顔色を見るとやはり疲れ切った顔をしていた。
「疲れただろう?今日はこれまでにしようか。探窟家の教練にも参加しているのだから、無理はできないだろう。」
「そう…ですね。ごめんなさい、灰の方。私…。」
探窟家の教練は灰について行かんとするドルミゥのためである。灰は既に知識試験において、ボンドルドによってやや強引ながら白笛の直弟子という立ち位置で月笛を持つに至ったのもあり、ドルミゥは焦っているのだろう。とはいえ本来は五層の立ち入りに当たって黒笛が必要条件であり、これを満たすための応用教導は灰が止めている。ドルミゥを待つためだ。
「無理をする必要はない、ぼくを気遣うのも同様に。……寝ようかドルミゥ。」
「でもっ……!……はい…。」
灰は点字聖書を書棚に戻し、白い肖像の彫りこまれた指輪を外して仕舞いこむ。そして白と紫の着流し、古めかしい平服を着た。
これは灰が戦闘に用いる気のない服から、煌びやかな装飾と簡易的に防具としての体を成していた革の装具を取り外したものである。胸元に灰の透けるような白い肌と鎖骨がのぞいていて、肩より上の高さで短くそろえられた白い髪に女性的なうなじが垣間見える。
「…ドルミゥ?」
「なんでも……。」
灰が着替え終えてから机上を整えて部屋を照らす灯りを消した。
思わず灰に背を向けて横になったドルミゥは灰の布のこすれる音が近づいて来るのを感じ取りながらなかなか収まらない胸の鳴りを抑えつける。
元より一人の部屋であったために、部屋に置かれているベッドは小さい。手前側に横になったドルミゥを跨いで灰が奥の壁際に横になった。お互いの顔は目と鼻の先で、寝返りを打つのは難しい。
「…灰の方。」
「む。」
燃え滓のような瞳が白みがかった日の入りのような碧い瞳を見つめている。
「……今度、点字の読み方を教えてほしいな。」
「ふむそうだな… 遅かれ早かれやらなければならないが…。元になった言語が異なる分、大変だからやり方については考えておくよ。」
「そう…わかった。…あとさ、月笛になったって聞いたよ。」
「卿からか?慌てないでいいからな。」
「聞いたのはギャリケーさんからなんだけど…慌ててるわけじゃないの、安心して。…ただ灰の方に探窟を教えて欲しいなって。」
「むぅ。卿とそのギャリケーとやらでは不足か?」
「そうじゃないけど…オースなら月笛は師範なんでしょ?」
「そうらしいが…僕は正規じゃないからな。方法を知っているのとやったことがあるのとでは大違いだぞ。」
「えへ……そっか…。」
一頻り話したあとモゾモゾと動いてドルミゥが灰に少し身を寄せる。
「灰の方。」
「…む。」
「…もっと一緒にゆっくり過ごせたらいいな。」
「……そう…か。」
灰の手がドルミゥの頬に触れる。燃え残りのような微かなぬくもりがドルミゥを包み込んで眠気を誘っている。それがドルミゥには心地良いので灰に甘えてしばらくそうしているうちに瞼が重くなっていた。
「おやすみ、ドルミゥ。」
「…おやすみなさい。」
碧い瞳が閉じ切ってしまうのを見送ってから灰もまた目を閉じたのだった。
———
——
—
「…灰の方?」
ドルミゥが目を覚ますと、目の前には壁があった。驚いて飛び起きた彼女は部屋を見回すもどこにも灰の姿はない。
「えっ…と。」
普段ならば灰はドルミゥが目を覚ますまで部屋にいて待っているか、時間が遅いようであればドルミゥを起こすのであるが。
ドルミゥのなかで嫌な心持ちがしてきている。灰に追いつこうと、或いは何か役に立てればそれで良いという思いで探窟家の教練を受け始めてからはなかった、火の無い灰の遺体を抱き寄せていた時のその血の重さと匂いを瞬く間に想起させた。
「ひっ。」
茫然としていたドルミゥの脳は突如として静かな部屋に鳴り響いた異音と更には急に明るくなったことで覚醒し、驚いた彼女は小さく声をあげた。
しかしそれらの正体はすぐにわかった。昼時間に入ったことで自動的に日中用の白い室内灯が点灯したのだ。
言いようのない不安が渦を巻き始める。
「っう…ぐ…」
一度
一方でその頃、灰とボンドルドはイドフロント内部の一室にあった。
「灰の方、以前お話しした件についてですが」
カタカタと銀色の兜が鳴り、小さく唸るような声がくぐもって聞こえる。黎明卿は感慨深げに続けた。
「階段室で行った
周囲に配置された機械がほのかに照らす他には明かりもなく暗い部屋の中、各々が作業をしていた祈手達が不意に皆灰の方を振り向き歪に光る記号が闇にゆらと浮かび上がる。
「ソウルの業と、灰の方は仰っていましたね。我々は貴方の手引きで持ってそのソウルの業の一端に触れた以降、灰の方とは『岩と魂の二元論』における二者の関係性——特に魂の独立性という点で議論を行ってきました。」
灰は何の反応も示さず先を急かすように視線を向けるばかりだ。
「そして呪いは岩と魂どちらの側にあるのか。この点について灰の方は『岩ではないか』とお答えされました。これは確かに、死体や『生命体ではないとみなされたもの』は上昇負荷を受けないことから説明がつきます。」
祈手達が一斉に一歩前へ踏み出す。しかし灰は微動だにしなかった。
「灰の方、貴方が手ずから認めた文献によればあなた方のような
祈手が一歩また一歩と、狭い歩幅でわずかずつながらも一つの未知へと歩みを進める。
「灰の方、貴方のような在り方は大変に貴重で且つ興味深いものです。」
「…と言うのも、我々が貴方より前に観測した不死の存在とは在りようがいくらか異なっているためです。」
ボンドルドは一つ指を立てる。
「一つは、彼らが獣相に似た形質を以て現れたことです。獣相について灰の方へお話ししたことは——」
黎明卿がそのセリフを言い切るより先に、灰が静かな口を開いた。こつこつと水のせせらぐような口調である。
「アビスの呪いを受ける母から産まれた者をそう呼ぶのだったか」
「おや、灰の方。物の覚えが良いようで助かりますね。…その獣相ですが彼らは、その身に呪いを受けつつ同時に他者によって
ボンドルドはやや興奮気味であったが一息吐いてから2本目の指を立てる。そして落ち着き払った様子でこう言った。
「肝要なのは二点目です。しかし実際にはこれは一つ目に通じているのですが彼ら——成れ果てという形での不死は上昇負荷を受けることがありません。なぜなら『生命体』とアビスに見做されていない為です。」
黎明卿は特徴的なフルフェイスの紫の光をやや強めながら立てた指を折りつつ、灰へ視線を合わせるようにかがみ込む。その光の翳りに、亀裂から緑色の瞳を覗かせながら。
「しかし貴方は、灰の方はそうではない。」
一瞬の間も違わず周囲の祈手がボンドルドと同じ言葉を発する。それは複雑に絡み合いやや高い和音となって空間に響き火の無い灰の耳に届くのである。
「あなたは、我々に劣らない知性と『理力』でもってして不死でありながらもアビスの呪いを受け得る生命体として存在しているのです。灰の方。そして一度受けた呪いを、死亡し生き返ることで完全に取り除きそれでもなお『生命体』と見なされ続けています。」
「…我々は、灰の方。貴方のおっしゃる二元論の実在を、ないしその限界を先に挙げた論点において疑っているのです。——特に、
言葉を切ったボンドルドはすっと立ち上がり背筋を正した。そしてそれと同時に祈手たちもまた立ち様を直して再び背後の機械へと向き直るのである。何事もなかったかにように。
そうしてからボンドルドが独り言る。
「とはいえ我々の実験にばかり付き合って頂いてばかりではあなたがた——特にドルミゥの願いを叶えてさしあげるまで、大変に時間がかかってしまいますね。」
その言葉の真意を探る視線を、灰は向ける。
それに対し黎明卿は静かにそして丁寧に応えるのであった。
「灰の方。あなたの半身として共にありたいと願う以上、あなたももちろんのことではありますがドルミゥ自身にとってもアビスの呪いを克服する術を探さねばなりません。」
「そしてその答えの一つ——最初の祝福——はまさに此処で産み落とされたのですよ、灰の方。」
ボンドルドは言い終えると火の無い灰へ向けていた視線と体を改めて正面へ広がる一室へ向ける。灰もまたそれに伴った。
伽藍堂の、暗く天井が見えない広い部屋。左右にはこの部屋の機能を支える計器が並びそれへ向かって黙々と作業を遂行する祈手の姿も、機械のぼんやりとした灯りによって描き出されている。
中央には、眩く照らされた二機一対の昇降機が据えられていた。
………
リハビリのために4000文字書く人間性がいるそうですよ。