小野川温泉━━━
晴景は湯治のために綾御前と小野川温泉を訪れていた。開湯のきっかけはかの平安美人、小野小町が見つけたからだと言われる。
出羽国に位置し、地場の者しかほとんど知らない。それゆえに人が少なく、晴景が訪れるにはうってつけだった。
「綾、あちらから温泉が湧き出ているというぞ。ちょうど良く背を預けられそうだ、行ってみよう」
「はい、兄上」
温泉の奥へと進み、手頃な場所に落ち着く。晴景は持ち込んでいた酒壺を湯に浮かべ、杯で一口ずつ口に含んでいった。
「兄上、あまり多くは……」
「なあに、酒は百薬の長だ。それにこれほどの良い湯なのだ、少しばかり羽目を外してもよかろうよ」
「兄上は景虎の政務を助けるでもなく、連日連歌会やらをしているではありませんか」
「景虎が私に助けてくれと言うのであればやるが、私から関わろうとすると噂の一つは立つであろう。家督を取り戻そうとしているだの、景虎の隙を伺っているだのとな。であれば、初めから何もせぬ方がよい」
「そうですか……」
「流石に人望が無さすぎたわ。隠居した後は諸芸を広め和を説こうと思うていたが、もはや私の話を聞くのは里の者どもくらいよ。さらには相模のうつけ殿が相撲を奨励しておるらしいではないか。これでは蹴鞠らも流行らぬわ」
相模を治める北条家、その当主は早雲の孫の北条氏康。彼は相模のうつけと呼ばれ、周囲の国から侮られていた。しかし、今や両上杉氏を退け関東に強い勢力を展開している。
景虎も上杉憲政殿を助けるために、たびたび関東に出兵し氏康と争っていた。
そんな氏康が相撲を推奨したことで、蹴鞠などの運動を伴った諸芸をする者が少なくなった。
「しかし諦めぬぞ。いつかは雅の技を広め、人の和の尊さを天下に……そう、言うなれば天下布雅!」
「兄上、素晴らしい夢ですが現実を見ましょう」
「ぬ…それはわかっておる。もはや私に力は無い…しかし、やはり諦めきれぬものよな…」
酒を呷り一息。義を用いた穏健な策は、皆にとってはぬるま湯。乱世の熱湯につかる武士らにとって、晴景のぬるま湯では物足りなかったのだ。
ゆえに心をつかめず、こちらを慕い付く家臣はほとんどない。戦にて活躍する景虎に従うのは自明の理。何事も力なくしては守れず、成すこともできない。それが乱世の鉄則なのだ。
「兄上、今はこの湯を楽しみましょう。せっかくの温泉なのです、そんなに思い詰めず…羽目を外すと言ったのは兄上ですよ」
「……ああ、そうだな」
身体を伸ばし、大きく息をつく。綾御前は自分の杯に酒を注ぎ、一息に飲み干した。
「……綾、お前それほどの量飲むものだったか?」
「はぁ……景虎を信奉する者が多く、扱いに困っているのです。飲まねばやってられません」
「まったく……定実殿といい、うろたえた者の多いことよ」
「そういえば、景虎は誘わずにいてよかったのでしょうか?」
「景虎を…?はっはっは、あやつの頭は戦のことばかりよ。関東出兵もたびたびしておるし、温泉を楽しむなどあの戦馬鹿は考えぬだろうよ。ましてや、この知る者ぞ知る美人湯など」
笑いながら晴景は酒を自分の杯へ注ごうとする。が、何故か酒壺の中身は全て無くなっていた。
「む?綾、まさか全部飲んだのか。その速さで飲めば身体を壊すぞ。私よりも先に死ぬのは許さぬからな」
「はい?まだ酒は一杯しかいただいておりませんよ」
「ええ、姉上は飲んでおりませぬ。私がすべていただきましたゆえ」
空気が凍る。暖かいはずの湯は雪解け水のように感じ、酒と湯で火照っていた身体は芯まで冷えた。
音も無く、気配も無く。綾御前とは反対側の、晴景の隣に景虎が浸かっていた。
「か、景虎…?お前、なぜここに……」
「少しばかり休息をと思い、兄上のもとへ伺ったところおりませんでしたので。小姓の者に聞き馬で一駆けしてきました」
景虎の杯には波々と酒がつがれており、その全てを景虎は一息に飲み干した。
「ふぅ……それで?誰が温泉を楽しむことすら考えぬ戦馬鹿でしたか」
「な、そ…それは……」
「あはははは!兄上、むこう傷というのは武士の誉れらしいですよ。一つ、その顔に付けて差し上げましょう!」
「うおおおああああっ!?綾、た、助けよー!?」
晴景に飛びかかる景虎。幸いにして客は晴景らしかおらず、他の者に迷惑をかけてはいなかった。温泉は静かに入るものなのに…と嘆息するも、どこか楽しげな笑みを浮かべる綾御前なのであった。
「あはははは!兄上、お覚悟!」
「ま、待て!ぎゃあああっ!!」
なんとか傷を付けられはしなかったものの、晴景は景虎を誘わず温泉に行くことは無くなったという。
昔は現代ほど、男湯女湯という区別はそこまで重視されていません。なので混浴なのはそこまで珍しくはありません。なんの問題もないのです。いいね?
小野川温泉は、綾御前や上杉家を支えた直江兼続が好んだとか。(戦国無双)
また、伊達政宗が湯治に用いた温泉であるようです。(ウィキより)
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