Absolute One   作:宇宮 祐樹

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4月ちょっと忙しくて更新できなくてマジすんません
いちおうある程度落ち着いてきたからまたボチボチ投稿していけたらいいな~


18 Blackout Endline / 行く末、ブラックアウト

 

 額に張り付いた前髪を、トウカイテイオーが乱暴に搔き上げる。

 足を踏み入れたゲートでは、乱暴に叩きつけられる雫がくぐもった雨音を奏でていた。季節は梅雨。降りしきる雨粒は、皐月賞のそれよりも少しだけ重たいように感じられた。じっとりと肩にのしかかるような空気感と、かすかな息苦しさは、しかしトウカイテイオーに適度な緊張を与えてくれた。

 ただ、その何よりも気になったのは。

 

「……寒くね?」

 

 ぼそりとしたトーセンジョーダンの呟きに、トウカイテイオーが息を吐く。

 

「ジョーダンセンパイの勝負服が薄着だからだよ」

「いや、それにしたってじゃん。皐月賞は、こんなことなかったのに」

「……まあ、確かにそうだけどさ」

 

 かすかに震える指先を、トウカイテイオーは強く握りしめた。

 

「あ、手袋いいなー。このレースだけ貸してよ」

「ヤだ」

「いいじゃん、片方でいいから」

 

 ほらほら、と仕切りの向こうから手を伸ばすトーセンジョーダンに、トウカイテイオーが眉を顰める。そこで初めて、トウカイテイオーは彼女の呟きに答えた自分を呪った。強いことと礼儀正しいことは違うんだな、という嫌な納得も得ていた。

 

「……もうすぐ始まるから、時間ないよ」

「大丈夫だって、すぐ着けっし」

「だから、そういう問題じゃなくて……」

「いい加減に黙れよ、オマエら」

 

 苛立ちと共に口を挟んだのは、トーセンジョーダンと逆のゲートに立つエアシャカールだった。

 

「あ……ごめん、シャカールセンパイ」

「ったく……ダービー走るって前にそんなくだらねェこと話してるヤツ、初めて見たかもなァ」

「えー、でも実際寒くない? シャカールもめっちゃ薄着だし、実はそこそこ寒いっしょ?」

「走ッてるうちにンなもん関係なくなるっての。つーか、ンなことしたら勝負服の登録違反で失格になるから止めとけよ。オマエだって、コイツ(テイオー)に皐月賞のリベンジしたいんじゃねーのか?」

「手袋一つくらいバレんくない?」

「筋金入りだな、オマエ」

 

 呆れたように吐き捨てると、エアシャカールは視線をターフに向けたまま、続けて口を開いて、

 

「一つ、お前らに教えとくけどよ」

「……なに?」

「今日の気温は、そこまで低くねェ。むしろ、皐月賞の時より高ェくらいだ」

「じゃあ、なんでこんなに寒いん?」

 

 首を傾げるトーセンジョーダンに、エアシャカールは口角を上げて、

 

「誰かがお前らに()()()()のかもなァ」

 

 ぞわり、と。

 トウカイテイオーは今一度、首筋をなぞられるような強い寒気を感じた。

 

『――さあ、各ウマ娘ゲートに入って体勢整いました』

 

 実況の声が耳に入ってくると同時に、トウカイテイオーが姿勢を正す。

 見据える先はコーナーよりもずっと向こう、曇天の続く先。左脚をぐっと引いて、地面にしっかりと足をつける。意識をすっと集中させると、観客席から聞こえる歓声や、くぐもった雨音が全て、思考の外へと遠のいていった。

 冷え切った空気が、肺の中を満たしていく。脈を打つ心臓の鼓動の一つ一つが、鮮明に全身を駆け巡っていく。

 そして。

 

「はッ……!?」

 

 ゲートが開いた、その瞬間。

 

「どぉぉぉおおおおおん!!」

 

 トウカイテイオーは、そんな張り裂けるような叫び声を聞いた。

 

 

 ▽_ Blackout Endline / 行く末、ブラックアウト

 

 

 元より、彼女の走りを何度か見たことはあった。

 初めて見たのは、マンハッタンカフェのデビュー戦だった。気持ちのいい逃げウマだな、というのが第一印象だった。何せ彼女は、レースが始まってからずっと先頭を維持し続け、そのままゴールしていくのだ。ともすれば、誰よりも逃げウマらしい逃げウマかもしれない。それが、トウカイテイオーの認識だった。

 次に彼女の姿を見たのは、弥生賞の中継映像だった。惨敗だった。息が上がったのか、あるいはペース配分を間違えたのか、十六着という結果だった。振るわなかった、と言えばそうかもしれないが、それにしては散々すぎるな、というのがトウカイテイオーの認識だった。

 そして先日の青葉賞、彼女の着順は――マンハッタンカフェに四身差をつけて、一着。

 この時点でトウカイテイオーは、その異常さに気づいていた。

 

「博打が服を着て走っているような娘ですよ」

 

 彼女について話していた時の、マンハッタンカフェの言葉だった。

 

「勝つときは圧勝、負けるときは惨敗。あの娘には、そのどちらかしかありません」

「……『セレスティア』のメンバーって、そんなのしかいないの?」

「チームのトレーナーが、あの調子ですから」

 

 呆れたように呟いてから、マンハッタンカフェがカップに口をつけた。

 それに合わせるように、トウカイテイオーもコーヒーを喉に流す。

 

「とにかく、あの娘にマトモな作戦は通用しません」

「ジョーダンセンパイみたいな感じ?」

「作戦が意味を為さない、という意味では間違いではありませんが」

「……じゃあ、どうやって対策するのさ」

「近くにある神社へ、手あたり次第お参りにでも行きましょうか」

 

 首を傾げるトウカイテイオーに、マンハッタンカフェは。

 

「日本ダービーは、最も運のあるウマ娘が勝つと言われていますから」

 

 そして。

 

 

(なんっ……!?)

 

 ゲートが開き、全員が一斉にスタートを切った、その瞬間。

 叩きつけるような強風が、レース場に吹き荒れた。

 

「ッ!」

 

 左からだった。体幹が崩れ、全身が右へと傾いていく。何とかバランスを崩さないように体勢を立て直すが、雨で泥濘(ぬかる)んだ足元では、それも上手くいかない。大きな出遅れは、確実だった。

 そしてそれは、トウカイテイオー以外のウマ娘も同じであった。突然の強風により、バ群全体がやや右へと傾いてく。だが、それでも転倒した者がいないというのは、流石ダービーという大舞台に出走するだけはあるか。

 しかし、まともにスタートを切った者はやはり、誰一人としていなかった。トウカイテイオーも含め、レースに出走する全員が、その突然の強風に苦悶だったり、苛立ちの表情を浮かべていた。

 ――ただ一人、ツインターボを除いては。

 

「っ、この、ターボめ……!」

 

 ツインターボというウマ娘について、トウカイテイオーは一つだけ理解していた。

 きっと彼女は、スタートダッシュに全力を賭けていた。あのちぐはぐな戦績も、大博打のようなレース運びも、後先を考えない大逃げすらも、全てはスタートダッシュが上手くいったかどうかの結果に過ぎなかった。

 そして今回の彼女のスタートダッシュは、誰が見ても明らかなほどの大成功だった。

 タイミングが完璧に噛み合ったとか、踏み込みの調子がよかったとか、そういう次元ではない。

 ただ、スタートダッシュに賭けていたから。他の誰よりも前に出ることだけを、考えていたから。

 飛び出した彼女は突風の影響を受けることなく、一人だけ完璧な走り出しを見せていた。

 

「アイツ、運良すぎっしょ……!」

 

 隣を走るトーセンジョーダンが、滲むような呟きを放つ。

 ――日本ダービーは、最も運のいいウマ娘が勝つ。

 そんな根も葉もない、しかし長く伝わるジンクスがトウカイテイオーの脳裏を過ぎった。

 

「クソ……!」

 

 口に入った雨粒と同時に言葉を吐き捨てて、トウカイテイオーが泥を蹴る。

 上手く力を入れられないもどかしさに耐えながら、トウカイテイオーはツインターボの背中を追って第一コーナーへと突入した。後方ではトーセンジョーダンとメジロマックイーンが競り合っており、微かに見える後方ではマンハッタンカフェとエアシャカールが並んで足を暖めているのが分かった。

 全体のレース運びはツインターボが先頭、それを負うようにバ群がずるずると連なっている。ともすれば、出走する17人が全員、ツインターボを追っているような形でもあった。

 

「は、ァ……っ!」

 

 気づけば第二コーナーを抜けて、向こう正面の直線へ。

 マトモにやり合うなら、ここはいったん脚を溜めておいてツインターボのスタミナが尽きた瞬間に差しきるのが正解だろう。だが、あの風が吹いた時点でこのレースがマトモでないことを、トウカイテイオーは理解していた。

 ツインターボの速度は落ちない。むしろ、加速している錯覚すら覚える。

 ……違う。決して、錯覚などではない。

 後ろから吹き抜ける強い風を受けて、はじめてトウカイテイオーは理解した。

 

「追い風、とか……!」

 

 ふざけるな、という言葉を噛み締めて、トウカイテイオーが駆ける。

 蹴り上げた泥が、白いブーツを穢していく。降りしきる雨が、袖を濡らしていく。

 けれど、トウカイテイオーは走るしかなかった。どれだけ運がくだらない手法で彼女の味方をしようと、今のトウカイテイオーにはただ走ることしかできなかった。

 もう隣にいない、ただ一人のために。

 

「ッ……!」

 

 頬に伝う雨粒を振り切り、トウカイテイオーは前へと踏み出した。

 第三コーナーに突入したところで、背後からトーセンジョーダンとメジロマックイーンが競り合ってくるのが分かる。しかし、それを気に掛ける余裕などなかった。ツインターボの位置は、未だに二身ほど前。先の青葉賞で見たような位置取り。このまま彼女の独走を許すわけにはいかなかった。

 

「追いつかないと……!」

 

 意識を集中させて、感覚を研ぎ澄ませる。湧き上がる歓声がどこか遠くに聞こえはじめ、大地を踏みしめる感覚がより一層強く伝わってくる。後方から聞こえる足音は全て無視し、前を走る彼女の姿だけを、視界に捉えた。

 普段のそれより早いぺースで加速をはじめ、ツインターボの背後を追う。ともすればその判断は失敗だったしれないが、かといって足を溜め続けても逃げきられるだけだとトウカイテイオーは割り切った。

 

「はー……っ、く、ふッ……!」

 

 息が詰まる。呼吸が上手くいかなくて、肺がじわじわと湿っていくような感覚。

 ただ、それでも前へ、前へ――と、意気込んだとことで、ふと。

 どうして今日はこんなにも息苦しいのだろう、という疑問が脳裏を過ぎった。

 ダービーという大舞台だからか。それとも、レース開始時に吹いたあの風のせいか。

 あるいは、運というつまらない勝利の女神が、彼女だけ微笑んでいる焦りからか。

 その答えは、前をゆくツインターボの背中にあった。

 

「ぜ、ッ! はぁ……ッ! ん、ぐ……ッ!」

 

 はじめに聞こえてきたのは、そんな途切れ途切れの呼吸音で。

 元より彼女がスタートダッシュに全力を賭けていることは知っている。では、その後――主に、レースを走り切るためのスタミナ面の問題をどう解決するか。

 正直、根性でなんとかしているのでは、というどうしようもない回答しかトウカイテイオーは思いつかなかったが、今になってその答えを理解した。

 呼吸である。

 彼女はレース中、他のウマ娘より多くの酸素を肺に取り込むことでスタミナを保っていた。

 

「……は、は」

 

 眩む視界の中で、トウカイテイオーが口元に笑みを浮かべる。

 なるほど確かに、博打というのは言い得て妙なのかもしれない。彼女のレースは上手くスタートダッシュを切れるか、というのもそうだが、それよりも遙かに、肺に酸素をどれだけ送り込めるかの勝負なのだ。

 無論、レース中の呼吸法については万全の策を取っているだろう。もしかすると、肺の筋肉の強化や心拍数の調整まで念入りにしているのかもしれない。

 ただ、その勝負において何よりも重要なのは――レース当日の天候に他ならない。

 そして。

 

「悪かった、ね……ボク、とびっきりの雨女、みたいでさ……!」

 

 たとえ、勝利の女神が彼女に微笑んでいたとしても

 降りしきる雨だけは、トウカイテイオーのことを見守ってくれていた。

 

「は、ぁぁあああ……ッ!」

 

 雨による空気の鈍化、それによるツインターボのスタミナ切れ。

 おそらくその事実に気づいていたのは、このレースの中トウカイテイオーだけであった。

 泥を蹴り上げて、スパートをかける。そのトウカイテイオーの加速でようやく、後方に位置していたトーセンジョーダンとメジロマックイーンの二人も、ツインターボのスタミナが切れる寸前だということを察した。

 しかしながら、トウカイテイオーの位置は既にツインターボの隣にあって。

 

「っ、これで……!」

 

 第四コーナーを抜け、レースは最後の直線へと差し掛かる。

 横目だけでも後方を確認しようとしたところで、ふと。

 

「……あは、は」

 

 苦悶の表情に染まっていると、思い込んでいたツインターボの顔が。

 どこか、満足げに笑っているのが、見えた。

 

「まっ、てたぞ……ずっと、ずー、っと……!」

 

 息も絶え絶えになり、スタミナの切れたツインターボがずるずる減速していく。

 勝てるはずがない。ここから加速することなど、ありえるはずがない。

 既に彼女は、トーセンジョーダンとメジロマックイーンにも抜かれたのだ。

 ここからの勝ちなどありえない。そのはずなのに。

 この寒気は、いったい何なのだろう。

 ゴールまでは残り四〇〇メートルを切った。あとは、このまま走り切るだけ。

 そのはずなのに、なぜか――()()()()()()()()()、と。

 未だに、背筋がぞわりと冷えるのは、どう、して――――

 

「――――つかまえた」

 

 声が、聞こえる。

 その主は遙か後方に位置していたはずなのに。

 まるで、耳元で囁かれるような、そんな。

 

「ッ……!?」

 

 息を詰まらせたトウカイテイオーが、思わず振り返る。

 愚行だった。最終直線でのスパート直前に振り返って後方を確認するなど、それこそ、初めてレースに出るようなウマ娘が興奮してやってしまうような、稚拙な行為だった。

 ただ、それでもトウカイテイオーは振り向くことしかできなかった。全身を駆け巡る悪寒の正体を、この目で暴かなければならなかった。そうしなければこのレースに負けると、理性ではなく本能で理解していた。

 連なるバ群と降りしきる雨の、その向こう側に彼女は佇んでいて。

 月の光を閉じ込めたような瞳には――トウカイテイオーの姿が、はっきりと映っていた。

 

「カフェ、センパイ……!」

 

 思えば、彼女とレースを走るのは初めてだった。

 もちろん、普段のトレーニングでは互いに飽きるくらい併走をしているし、模擬レースで何度も勝ったり負けたりを繰り返していた。だからこそ、だろうか。心のどこかに、油断があったのかもしれない。

 自分の方が強いと思っていた。実際、模擬レースでの戦績はトウカイテイオーの方が上だった。だからといって、彼女のことを卑下することなどあるはずもないが、それはトウカイテイオーの心底にある認識だった。

 そしてトウカイテイオーはこの時、改めて理解した。

 そんな認識など、何の意味もないということに。

 

「ふッ……!」

 

 第四コーナーを抜け、直線に差し掛かったところで、マンハッタンカフェが大地を蹴る。

 その瞬間――彼女の身体がまるで押し出されるように、大きく弾けた。

 

「な……はぁ!? 何ソレ!?」

「っ、そんな……!」

 

 トーセンジョーダンとメジロマックイーンの驚愕した声を受けながら、マンハッタンカフェが二人の間をまるで煙のようにすり抜けてゆく。そのままツインターボの隣へと並んだかと思うと、彼女は今一度、大地を踏みしめて更にスピードを上げた。

 ストライド走法。脚の回転を遅くする分、一回の歩幅(ストライド)を大きくすることで、距離を稼ぐ走法である。もちろん、マンハッタンカフェがその走法を使っていることは知っていた。

 しかしながら、今の彼女は、そうやって走っているというよりも。

 

「跳ん、で……!」

 

 彼我の距離は六身ほど。だが、このまま離せば勝てる、という思考は既に捨てていた。だって、背中に走る悪寒は、未だに強くなっているのだから。

 足音が聞こえる。ひたひたと、他の誰よりも静かで、それでいて間隔の大きなものが。

 ゴールまではあと二〇〇メートルを切ったところ。逃げ切るのなら、ここしか――

 

「逃がしませんよ」

 

 今度は幻聴などではなかった。真隣にぴったりと並んだ、彼女の囁きだった。

 状況は頭一つ分のわずかな差で、なんとかこちらが有利だった。しかし、その差もじきに覆されるだろう。だが、それでもトウカイテイオーが脚を止めることなど、あるはずがなかった。それはウマ娘の本能としてもそうだし、それ以上に――この雨の中で敗北を喫するわけには、いかなかったから。

 泥に塗れたターフを踏みしめて、雨粒を掻き分けるように前へと進んでいく。

 残り一〇〇メートル。

 

「……ボク、だ」

 

 掠れた声で呟いた言葉は、雨音に紛れ――

 

「絶対、は――ボクだ!」

 

 張り裂けるような叫びと共に、トウカイテイオーが一歩を踏み出した。

 脚の感覚は、ほとんど消えていた。膝から先が、枯れた木の棒になっているようにすら思えた。乾上がった肺は先程からひりひりと染みるような痛みを放っているし、視界も映りの悪いテレビのように眩んでいる。

 けれど、トウカイテイオーは走り続けた。このレースが終わったら無事ではいられないことなど、分かり切っていた。だが、もしもそれで二度とレースを走れなくなったとしても、ここで諦めることよりは遥かにマシだと思えた。

 残り五〇メートル。

 

「あぁああッ!!」

 

 獣のように咆哮を上げて、トウカイテイオーが駆ける。

 何かが焼き切れるような音が聞こえたけど、それを気に掛ける余裕などあるはずもなかった。

 ただ、前へ、前へ。それだけしか、今のトウカイテイオーにはできなかったから。

 そして。

 

『――トウカイテイオー! 一着はトウカイテイオー! 皐月賞に続いて日本ダービーを制し、ついに三冠に王手をかけました! 二着はアタマの差でマンハッタンカフェ! 三着はメジロマックイーン……』

 

 次に気づいたときには、既に自分の体がターフに寝転がっていて。

 横たわった視界から見える電光掲示板には、自分の番号が映し出されているのが見えた。

 

「……勝っ、た」

 

 消え入りそうな呟きに返ってきたのは、静かな足音で。

 

「お疲れさま、です」

「カフェ、センパイ……」

 

 濡れた前髪を掻き上げてから、マンハッタンカフェがトウカイテイオーの傍にとさり、と座り込んだ。

 

「その、立てますか?」

「ううん、もうダメ……一歩も、動けないや……」

「……私も、限界です」

「あはは……」

 

 力のない笑みに、けれどマンハッタンカフェは優しい微笑みを返してくれた。

 

「正直、あのままなら勝てると思っていたのですが」

「ボクもだよ……あと一〇〇メートル……ううん、五〇メートルあったら、負けてた」

 

 未だに高鳴る心臓の鼓動を感じながら、漏らした呟きは。

 

「運が、よかった……」

 

 日本ダービーは、最も運のいいウマ娘が勝つ。

 乾いた笑いと共に、トウカイテイオーはそんな言葉を思い出した。

 

「……そろそろ、行きましょう。皆が待ってます」

「うん、そうだね……」

 

 そうやって、差し出されたマンハッタンカフェの手を取ろうとした、その瞬間。

 

「あ、れ――」

 

 ぷつり、と。

 トウカイテイオーの視界が、黒く染まった。

 

 

 はじめに感じたのは、曖昧な温もりだった。

 暖かみは確かにあるが、どこかよそよそしく新鮮な、慣れないもの。そんな窮屈な感覚に鬱陶しさを感じたトウカイテイオーが、ゆっくりと目蓋を開く。そうして視界に見えたのは真っ白な天井と蛍光灯で、そこで初めてトウカイテイオーは、自分が病院のベッドで寝ていることに気が付いた。

 

「ボク、は……」

 

 最後に覚えているのは、こちらに手を伸ばすマンハッタンカフェの姿だった。どうやら、あそこからずっと意識を失っていたらしい。その期間がどれくらいかは分からないが、窓から差し込んでくる朝陽を見る限り、その日はずっと眠っていたみたいだった。

 

「……勝ったんだっけ」

 

 朧げな記憶を頼りに、そう呟く。だが、返ってくる言葉は何もなかった。

 とにかく、起きたのなら誰かに伝えなければ。皆も心配しているだろうし、これ以上の迷惑もかけられない。

 そう思い立って、体を起こそうと手を伸ばした、その時。

 

「あれ?」

 

 トウカイテイオーは、自らの腕から細長いチューブが伸びていることに気が付いた。

 その直後、ノックの音と共に病室の扉が開いて。

 

「……おい、マジかよ」

 

 果たしてそこに立っていたのは、驚いたような、気まずいような顔をした槻谷だった。

 それから彼は、少しだけばつの悪そうな表情に戻ってから、改めて口を開いた。

 

「あー……その、何だ。おはようさん」

「おはよ」

「……今、起きたのか?」

「うん。ほんと、さっき気が付いて……あれ? みんなは?」

「ガッコー。今日は普通に平日だからな」

「そっか」

 

 短い答えの後に、沈黙が続く。

 次に言葉を渡したのは、トウカイテイオーからだった。

 

「あの後、ボクはどうなったの?」

「……俺の口からでいいのか? もっと、シノちゃんとか、チームメンバーからの方が……」

「別にいいよ」

 

 頷くと、彼はすぐに話を始めてくれた。

 

「レースが終わった後、お前はぶっ倒れてすぐに病院に運ばれたんだ。当然、ライブもインタビューも中止。まあ、一着のお前がいないんじゃ、そんなことやっても意味ないしな。あとは、そうだな。カフェちゃんもウチのターボも、お前のこと心配して……」

「そういうことを、聞いてるんじゃなくて」

 

 言葉を遮ったトウカイテイオーが、管の繋がれた自らの腕を彼の方に向ける。

 

「あの後、ボクはどうなったの?」

「…………」

 

 やがて、観念したように息をつくと、槻谷はトウカイテイオーから目を逸らしながら、

 

「折れてる、ってよ」

「……どっちが?」

「どっちも」

 

 告げられたその言葉に、しかし驚きや悔しさなどは湧かなかった。

 心の内にあるのは、ただの納得だけ。その事実に悲観するような気も、境遇に怒り散らす気も、何もなかった。それなりの覚悟をしていたから動じていない、というわけではない。ただ、ここで喚いたり叫んだりしても、この両脚がたちまち治ることなどないと、トウカイテイオーは淡々と理解していた。

 こくこくと小さな頷きをいくつかしてから、トウカイテイオーが再び口を開く。

 

「いつ、治るの?」

「菊花賞まで、って考えると難しいかもしれないってよ。きちんと安静にしてりゃ、あるいはって感じだな。……こういうのは本人の気の持ちよう、っても言われたよ。俺が聴いたのは、そんなところか」

 

 ぽつぽつと話しながら、槻谷は一度、扉の向こうに姿を消して。

 果たして彼が引いてきたのは、どこにでもあるような車椅子だった。

 

「あと……しばらくは、コレだそうだ」

「そう、分かったよ。ありがとう」

 

 言葉を返すと、トウカイテイオーは傍らにある机の上に、自分の携帯が置かれているのを見つけた。いつも使っているイヤホンも繋げられたままで、電源を入れると篠崎やマンハッタンカフェ、ゴールドシップから何件かのメッセージが届いている通知が目に映った。

 それらの全てを無視して、トウカイテイオーがミュージックアプリを起動させる。

 槻谷の言葉が聞こえてきたのは、イヤホンを耳に嵌める直前のことだった。

 

「なあ……もっと他にないのか? お前の脚、両方とも折れてるんだぞ? それなのにお前、顔色一つ変えずに……他人事じゃないだろ。少しはさ、悲しんだり、後悔したりとか……ないのか?」

 

 渡された問いかけに、トウカイテイオーはくすりと笑ってから、

 

「疲れちゃったのかもね」

「……何にだ?」

「悲しむとか、後悔するとか、そういうのに」

 

 自らの両脚が折れたのに、涙のひと粒も流れていないのが、その証拠だった。

 

「そりゃ、菊花賞には出たいよ。三冠も取ってみたい。ううん、取るんだ。トレーナーとそういう約束、したんだし。でもさ、ここで悲しんだり後悔したとしても、ボクの脚が治るわけじゃないじゃん。だから、もういいんだ」

「もういいって、お前……」

「……ボク、ちゃんと二冠は取れたんだよ? 皐月賞とダービーを連覇した、二冠ウマ娘なんだ。普通のウマ娘じゃなれない、すごいウマ娘になったんだ。だから……トレーナーもきっと、喜んでくれる。そうだよね?」

「それ、は……」

「いいよ、無理して答えなくても」

 

 イヤホンを耳に嵌めて、トウカイテイオーがベッドに横になる。

 

「……もう少し、寝るよ。一人にさせて」

「あ、あ……そうか。その、シノちゃんとかにも連絡しとくわ」

「うん、ありがと」

 

 足音が遠ざかっていくのを聴きながら、トウカイテイオーがプレイリストを再生する。

 目蓋を閉じた暗闇の中で、ギターのメロディーだけが流れ始めた。

 

 

 車椅子の操作に慣れたころには、既に梅雨が開けていた。

 リハビリの毎日だった。普段のトレーニングとは違う新鮮さは、一週間もしないうちに消え去っていた。ただ、脚の痛みもそれと同じように消えていってくれた。けれど、何の苦しさもないリハビリというのは、無為なことにしか感じられないものだった。それでもトウカイテイオーが続けられたのは、担当医にリハビリ中、イヤホンで音楽を聴くことを許可されたからだった。

 ゴールドシップやマンハッタンカフェは、毎日とは言えないが、トレーニングの合間を縫って、たびたび病院へ来てくれた。特にマンハッタンカフェは一人でもトウカイテイオーの元へと訪れてくれたし、時にはツインターボやナイスネイチャを連れて来てくれたこともあった。

 また、篠崎は病院へ顔を出すことはあまりなかったが、メッセージや電話を毎日してくれた。トレーナーという役職である以上、仕方のないことではあった。ある日、『忙しいなら無理しなくて大丈夫だよ』と送ると、『私はチームのトレーナーだし、テイオーちゃんはその一員だもん!』とすぐに返信してくれた。

 そんな日々を過ごしていた、ある日。

 

「菊花賞への出走が決定しました」

「アタシもな。いやー、久しぶりのレース楽しみだぜ」

 

 いつものように病院へ来てくれたマンハッタンカフェとゴールドシップから、そんな言葉を聞いたトウカイテイオーは。

 

「そっか、がんばってね」

 

 片耳にイヤホンをつけたまま、そう答えた。

 

「テイオーはどうするんだよ?」

「どう、だろうね。この脚が治るまでは、何とも言えないよ」

「……リハビリの経過はどうなっているんですか?」

「普通かな。菊花賞は少し難しいかもだって」

「そう、ですか」

 

 続けて口を開いたのは、ゴールドシップだった。

 

「お前、出たくないのかよ?」

「出られたら嬉しいとは思うよ。でも、実際そうはいかないじゃん」

「……諦めてるように聞こえるのはアタシだけか?」

「諦めてなんかないよ。現に、リハビリもちゃんと毎日してるし……」

「じゃあお前、その脚が治ったら次は何のレースに出るつもりなんだよ」

 

 渡された言葉に、トウカイテイオーはすぐに答えられなかった。

 

「……もしかして、考えてないんですか?」

「うーん、と……その、今はリハビリに集中するときかな、って思ったから」

「それ、逆だろ。このレースに出たいってのがあるから、リハビリ頑張るんじゃねーのか?」

「あはは……うっかりしてたよ。ごめんごめん」

 

 後ろ手で頭を掻きながら、トウカイテイオーが笑う。

 

「それで? 次はどのレースに出るんだよ。パッと考えてみたらいいじゃねえか」

「んー……そうだなあ……」

 

 そうしてしばらく考えてから、やっぱり、と切り出して、

 

「有記念、とか? ほら、ボクって一応、二冠ウマ娘だしさ」

 

 ゴールドシップがトウカイテイオーの胸ぐらをつかみ上げたのは、その直後だった。

 

「テイオー、お前…………!」

「うわっ!? 何すんのゴルシ!」

「ちょっと……」

「何が二冠ウマ娘だよ! 何が有記念だよこの野郎!」

「な……べ、別にいいじゃん! それがいちばん現実的な目標でしょ!?」

「ゴールドシップさん、お願いですから落ち着いて……」

「だからって……テイオー! お前は……お前、は……それで!」

「ッ、やめなさい! ゴールドシップ!」

 

 続けようとした言葉は、マンハッタンカフェが彼女の肩を引くことによって遮られた。

 

「ここは病院で、テイオーさんは病人です。どう考えても、咎められるべきはアナタでしょう」

「……今のテイオーが言ったこと、お前は許せるのかよ」

「それが彼女の選んだことなら、私は構いません」

「ああ、そうかよ」

 

 そうしてしばらく睨み合うと、先に動いたのはゴールドシップで。

 

「悪いな、テイオー。もう来ねえわ」

 

 最後にそんな言葉を呟いて、病室を後にした。

 一連の彼女の行動に困惑していると、残ったマンハッタンカフェはゆっくりと振り返って、

 

「どうしてゴルシさんが怒っていたか、今のあなたに分かりますか?」

「……カフェセンパイは、分かるの?」

「ええ」

 

 返事はそれだけだった。その理由を話してくれることは、決してなかった。

 

「……私も、そろそろ行きますね」

「うん。ありがとう」

「また来ます。リハビリ、頑張ってください」

 

 ぺこりと頭を下げて、マンハッタンカフェが病室を去ろうとしたところで、ふと。

 

「以前も、お伝えしたたと思いますが」

「……うん?」

「チーム『モナークス』は、この三人で走らなければ意味がないんです」

 

 だから、とマンハッタンカフェがゆっくり振り返って、

 

「あなただけが抜け駆けなんて、絶対に許しませんからね」

 

 今度こそ、病室を後にした。

 

 

 それから、数日後。

 

「テイオー?」

 

 イヤホンの向こうから聞こえたその声に、トウカイテイオーが起き上がる。

 視線の先に立っていたのは、予想通りシンボリルドルフだった。

 

「カイチョー! 来てくれたんだ!」

「ああ。ようやく時間が空いて……来れなくて、すまなかった」

「ううん! お見舞いに来てくれるだけで嬉しいよ!」

 

 裏表のない、本心からの言葉だった。

 

「経過はどうだ?」

「今のところは順調だって。そろそろ、学園にも戻れそう!」

「なら、よかった。テイオーがいないと、どうにも寂しく思ってしまうよ」

「またまた、そんなこと言って」

 

 にしし、なんて笑いながら、トウカイテイオーが答える。

 思えばこうして彼女と話すのは、かなり久しぶりのことだった。トウカイテイオーがレースに出ることになってから機会がめっきり減ってしまったし、それ以上にトウカイテイオーの身の回りで様々なことが起こり過ぎたから。

 こうやって言葉を交わすことに懐かしさを感じていると、シンボリルドルフが言葉を渡してくる。

 

「脚が治ったら、次はどのレースに出るつもりなんだ?」

「え」

 

 何気ない問いかけだというのは分かっている。

 それが普通の問いかけだと言うことも、全くの他意がないということも。

 ただ、トウカイテイオーはすぐにその質問に答えることができなくて。

 どこか血の気が引くような、そんな感覚を覚えていた。

 

「テイオー?」

「……あのさ、それ、ゴルシにも聴かれたんだけど」

「彼女に?」

「うん。それで、怒られちゃった。よく分かんないけど、なんか、急に」

「……テイオーは、どう答えたんだ?」

「有記念。ほら、ボクって一応、二冠ウマ娘だからさ。ファンからの人気もそこそこあるって思ってるんだ。だから、投票もちゃんと集まるかなー、って。カイチョーもそう思うでしょ?」

 

 そうやって言葉を並べたところで、トウカイテイオーは自分がどこか縋るような、何か言い訳じみたことを口にしていることに気が付いた。それが誰に向けたものか、どうして必死になってしまっているのかまでは分からなかったが、ただ、そうやって有を目標に据えている自分が、ひどく惨めに感じられた。

 声が詰まって、上手く言葉を繋げられない。口の中が、ひりひりと乾いていくような感覚。

 

「テイオー」

 

 シンボリルドルフの呼びかけて、トウカイテイオーがふと我に返る。

 そうして向き直った彼女の表情は、どこか悲しそうで。

 

「君は、二冠ウマ娘なのか?」

「……何言ってるのさ、カイチョー。ボク、皐月賞もダービーも勝ったんだよ?」

「ああ……そうだな。確かに、そうだ。素晴らしいことだと思っているよ」

 

 浮かべていた笑顔は、無理やり作ったような、脆いものだった。

 

「じゃあ、質問を変えよう。テイオー、君は……二冠ウマ娘になりたかったのか?」

「それ、は……」

 

 頷くべきだと思った。何度も彼女に話したことだったから。

 ただ。

 どうしてかトウカイテイオーは、その首を縦に振ることができなかった。

 

「もしかして、今の目標は違うのか?」

「そうじゃない、けど……」

「けど?」

「…………」

 

 それ以上、言葉を繋ぐことはできなかった。

 やがてしばらくの沈黙が流れたあと、シンボリルドルフがひとつ息をついてから、

 

「無論、今は脚の治療に専念するべきだ。経過を見ながら、慎重に決断しなければならない。時間のかかる選択だとは、思う。ただ、だからこそ私は……最後まで足掻くべきだとも、思う」

「……足掻くって?」

「言葉どおりの意味さ。たとえ苦しむことになっても、諦めず必死に努力すること」

「なんだか……青臭いね」

「だが、私の知っているトウカイテイオーは、そんな言葉が似合うウマ娘だった気がするな」

 

 告げられた言葉には、それ以上の意味がある気がした。

 

「……もう、私は行くよ。あまり時間が取れなくて、すまない」

「うん。来てくれてありがとね、カイチョー」

 

 最後に小さく手を振ると、シンボリルドルフが部屋を後にする。

 イヤホンからは、再び懐かしさを感じさせるロックが流れ始めた。

 

 

 それからしばらくの時間が経って、六月も終わりに差し掛かったころ。

 

「おかえりなさい、テイオーちゃん!」

 

 久しぶりに訪れたチームルームでの、篠崎からの言葉だった。

 テーブルの上には、小さなカップケーキがそれぞれ四つ置かれている。退院祝い、ということで篠崎が買ってきたものらしくて、空になった箱には五人分のフォークが入っている。ふと窓際にある彼の写真へ目を向けると、ちょうどコーヒーとカップケーキをその傍に置いているゴールドシップと、目が合った。そこで一瞬、何か言葉を交わそうとトウカイテイオーが口を開きかけたが、それはコーヒーを運んできたマンハッタンカフェによって遮られた。

 

「思ったより早く退院できて、よかったです……」

「うん。もうしばらくは車椅子だけどね」

「トレーニングへの復帰は、まだかかりそうですか?」

「もうちょっとね。でも、経過次第では八月くらいからもしかしたら、って感じ」

「そう、ですか」

 

 ほっと胸を撫で下ろすマンハッタンカフェに対し、ゴールドシップは未だどこか何か言いたげな、曖昧な表情を浮かべていた。それに気づいたトウカイテイオーが何か言葉をかけようとしたところで、篠崎が再び口を開く。

 

「とにかく、テイオーちゃんも戻ってきたことだし、またこの三人で頑張ろうね!」

「うん。トレーニングには参加できないけど……みんなの手伝いとか、色々やってみるよ」

「意気込むのもありがたいですが、無理だけはしないでくださいね」

「大丈夫だって。リハビリもちゃんと毎日してるからさ」

 

 軽く自分の膝を叩きながら、トウカイテイオーが答える。

 

「それでね、テイオーちゃんも戻ってきたし、これからのことを考えなくちゃいけないんだけど……」

「……私とゴールドシップさんは、菊花賞に向けた調整ですよね?」

「うん。この夏は二人とも、長距離強化月間! いつもより厳しくいくから、覚悟してね!」

「お手柔らかに、お願いします……」

「それで……えっ、と」

 

 ちらり、と、どこかぎこちない、ばつの悪そうな様子で言葉を並べていく。

 そうしてカップに一度口をつけると、改めて篠崎はトウカイテイオーの方に向き直って、

 

「テイオーちゃんは、これからどうしたい?」

「ボク?」

「二人からは、有を目標に据えてる、って聞いたんだけど……」

「………………」

 

 口を閉ざしたまま、トウカイテイオーはゴールドシップへと視線を投げて。

 

「……あー、クソ! もういい、ここハッキリさせようぜ、テイオー!」

 

 返ってきたのは、そんな振り切ったような叫びだった。

 

「ゴルシ……」

「アタシは謝るつもりなんて一切ないし、お前に謝ってほしいなんてこれっぽっちも思ってもない。アタシが欲しいのは……今の、お前の気持ちだ。たっぷり時間はやったつもりだ。会長サマともきちんとお話しただろ? その上でお前が今、どうしたいのか。それが分かれば、アタシはそれでいい」

「……うん。ゴルシが知りたいなら、答えるよ」

「ならもう一度聞くぞ、テイオー。お前、次はどのレースに出るつもりなんだ?」

 

 再び渡された問いかけに、トウカイテイオーは、はっきりと。

 

「菊花賞。三冠め、取りに行くよ」

 

 はじめに返ってきたのは、篠崎の驚いたような声だった。

 

「て、テイオーちゃん? 菊花賞って……本気で言ってるの?」

「……ホントはさ、嫌だよ。菊花賞を目標にするなんて。だって、今のボクじゃ出られない方の確率が高いもん。そうなったら絶対、後悔すると思う。悲しみもする。それが分かってるから、菊花賞を目指すことなんてしたくなかった。仕方ないことだって、納得してた。無理やり、自分に言い聞かせてたんだ」

 

 でも、と伏せていた顔を上げてから、トウカイテイオーは。

 

「もう少しだけ、足掻いてみるよ。それで後悔することになっても、このまま自分のことを騙し続けるよりはマシだって、思ったから。それに……きっとトレーナーも、そういうボクの方が好きだって、言ってくれるから」

 

 どれだけ惨めで情けない姿を見せても、彼はそんなトウカイテイオーのことを見守ってくれていた。

 ならば、彼の見守ってくれたその姿で走り続けることが、彼への報いになると。 

 そう、思ったから。

 

「……決まりですね」

「うん」

「次の菊花賞は、チーム『モナークス』のメンバー全員で挑みます」

「ちょっと、カフェちゃん……?」

 

 困惑する篠崎をよそ眼に、マンハッタンカフェは静かにカップを傾けていた。

 そうして今一度、トウカイテイオーはゴールドシップの方に向き直って。

 

「これが、今のボクがやりたいことだよ」

「……ああ、そーかよ」

「満足してる?」

「そりゃあ、なあ? だって、ようやくこの三人で走れるんだからよ」

 

 にやりと笑いながら、ゴールドシップはそう答えた。

 それからマンハッタンカフェは、空になったカップを受け皿に置くと、

 

「では、テイオーさんの予定も決まりましたし、さっそく準備をしましょうか」

「そーだな。全く、あのままだったらアタシの計画がパーになるところだったぜ」

「……準備? え? 私、何も聞いてないよ。もしかして二人とも、また私に内緒で……」

「ゴルシさん、槻谷さんとマックイーンさんに連絡は?」

「もう回したよ。アタシらの車も当日の朝に手配してくれるみたいだぜ?」

「では、それでいきましょう。学園への手続き書類は既に作成済みですので」

「ちょっと、あなたたち何を勝手に……もう!」

 

 たびたび仲違いをするくせに、どうしてこういう時だけ息が合うのだろうか。もう一年半の付き合いになろうというのに、トウカイテイオーは未だにそれが不思議でたまらなかった。ただ、どうして彼女たちがこれまで同じチームでいられたのかは、何となく理解できた。

 なんてことを考えながら、トウカイテイオーが慌てる篠崎の代わりに問いかける。

 

「えっと……二人とも、準備って何の話?」

「何の話、って……これから、夏なんですよ?」

「だったら、一つしかねえに決まってんだろ」

「……あ、もしかして!」

 

 互いの顔を見合わせると、三人が同時に口を開いて、

 

『合宿!』

 

 

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