地上での三つ巴の争いが白熱する一方で、今のところはその難を逃れている氷山では。
こそこそと移動する複数の小さな影。サクとボワボワたちは独自に行動を起こしていた。
ただ待っているだけなんて、などという言葉は、救助する側からは余計なことをせずに大人しくしていろと言われてしまうかもしれない。
しかし本件、実はボワボワの同意をほとんど得ていないのだ。難破船キャンプでの作戦会議にボワボワは居合わせていなかったからある意味当然なのだが。
彼らの救助が本題であるとはいえ、サクがボワボワたちに対して強く出れない理由はそこにあった。
たとえそこに大義名分があったとしても、好戦的なボワボワをずっと大人しくさせておくなんて、下手な竜を相手取るより難しい。というより人ひとりでは無理だ。
これはボワボワが愚かなのではなく、そうやって積極的に行動することで彼らはこの凍て地を生き抜いてきたので、一概に間違っているとも言えないのだ。
なんて、誰に言っているのか。自分に言い聞かせているのかもしれないとサクは思った。
そんな経緯で、サクとボワボワは氷山の頂上付近へと歩を進めていた。
彼らは小さく身軽なので、人には使えない段差などを駆使して仲間同士で連携しながらどんどん登って行ってしまう。
対してサクにはかなり難儀な道のりだった。かつてここを訪れた団員による最低限の舗装によりなんとか登っていくことができている、という具合か。
今や近寄れない地上が眼下に広がる、そんな谷を恐る恐る越えていき、崖や氷壁を手掴みで這い上がり、強く風が吹き抜ける洞窟を通り抜ければ、一気に空が開けてくる。
思わず駆け出したくなるのは自然なことだ。しかし、サクはそこでぴたりと足を止めた。先行していたボワボワも、何かを察して声を抑えて岩陰に隠れる。
隠れる前にちらりと見えた、崖の縁に立っているのはレイギエナだ。どうやら地上の縄張り争いの様子を見ているらしい。
最近はかのベリオロスの影響か姿をあまり見せないが、この辺は群れのレイギエナがよく飛び回っている。彼らは今地上にいる特殊個体とは違い、やや黒ずんでいるのが特徴だ。
もともとは各々が広範囲に縄張りを持つはずのレイギエナだが、陸珊瑚の台地からこの凍て地への渡りによって生態に大きな変化があったらしい。
個性を埋め、摂食量を減らし、より集団生活に合わせた生き方へ。社会性なども伺わせているようで、目下、学者たちの観察対象となっている。
陸珊瑚の台地の個体とは違いそこまで好戦的ではないという話も聞くが、さすがに無視はできない。
だからと言って、この辺りに平地はほとんどなく飛竜を相手取るには不利だ。加えて凍て刺す方を呼ばれてしまったら目も当てられないことになる。
どうする、と小声で声を交わすボワボワに、サクが小さく声をかけた。
『僕が何とかしてみる。少しじっとしていて』
『ム、了解した!』
彼らの返答に合わせ、サクはすっと息を潜めて気配を抑える。こんなとき、狩人の経験が役に立つ。
できる限り音を立てないようにそっとスリンガーを引き、こやし弾を装填した。やっていることは不測の事態への対処として典型的なものだ。当然、訓練もこなしている。
やや難しいのは相手がこちらを視認する前に事を終わらせなければならないということだけ。飛竜種は基本的に目がいい。ちらりとでも視界に入れば見つかってしまう。
しかし、このレイギエナはサクたちに対して背を向けている。本来はもっと周囲に気を配っているはずだが、余程地上の様子が気になっているのか。
難しいことはない。そう自分に言い聞かせて、岩陰から這い出るようにして、雪が衣服に当たることすら気を遣い、じっくりと時間をかけて照準を合わせて。
ぱしゅっ、と。レイギエナがはっと振り返るよりも早く、その背中の辺りにこやし弾が着弾した。
突然のことに何度か羽ばたいたレイギエナは、痛みがほとんど無いことを訝しみ、その後に訪れた強烈な刺激臭に驚いて空へと飛び立つ。
臭い、というよりも、彼らが本能的に嫌がるもの。宿敵であるアンジャナフ亜種やオドガロンのフンで調合された特製のこやし弾だ。
突然、何の脈略もなく苦手な竜の匂いを浴びることになっては混乱もするだろう。
恐らく人慣れした個体ではなく、こんな目に遭うのは初めてのはずだ。しかもその匂いの発生源は自身であるため、いくら飛び回ってもなかなか振り解けない。
鳴きながらレイギエナが飛び去っていく。サクはなんだか自分が悪いことをしたような気持ちになったが、これも自分たちの目論みを達成させるため。非情にならなければならない。
念のため数分ほど周囲を警戒し、レイギエナが戻って来なさそうなことを確かめてからサクとボワボワは先ほどレイギエナがいた場所へと向かう。
そこは、氷山の頂上の一歩手前。三角錐の先端だけが小さく尖っていることでできたような地形だった。
崖の縁に立てば、空だけでなく広く凍て地の景色を見渡すことができる。眼前に広がった光景に、サクは思わず感嘆の息を吐いた。
自分たちが一歩一歩と歩いていた道、採取をしたり竜とやり合ったりしていた大地が小さく見えるというのは、やはり感じ入るものがある。主観と客観の違いというものだろうか。
と、山特有の笛のような風の音に混じって、小さいながらも地響きや咆哮の音が聞こえてきた。
サクは反射的に身を竦める。間違いなく、ヒアシたちとベリオロス、凍て刺すレイギエナが交戦している音だ。
かなり激しい攻防になっているのか、ここからでも小刻みな振動が伝ってくるように感じられる。あのレイギエナもこの僅かな余波を感じ取っていたのかもしれない。
こちらから直接に見て取れるわけではないが、何か不測の事態に陥れば煙痕弾が発射される手筈のため、まだ何とかなっている、と思いたい。となれば、こちらはこちらのすべきことをしなければ。
ボワボワは背中の簑から携帯型のかまどのようなものを取り出し、種火石で火を入れて煙を立ち昇らせる。
本来、それは彼らの調教を受けたウルグや付近にいる仲間を呼び集めるために使われる道具だ。このような山の上でそれを用いても意味はない。
しかし、今回はそこにサクが一枚噛んでいた。立ち上るのは緑色の煙。モドリ玉の材料となるドキドキノコを混ぜ合わせている。
自然界における煙というのは白色または黒色が主で、緑色の煙はまず見られない。モドリ玉はそれを利用し、メルノスに煙の色を覚えさせて駆け付けてもらうことで緊急撤退の手段としている。
今回、空からの移動はあまりに危険なため、サクもヒアシもメルノスをキャンプに待機させている。だから、ふつうにモドリ玉を使っても彼らは駆け付けてくれない。
対して、ボワボワの使う狼煙は空高くまで煙を立ち昇らせる。さらに高所で視界の開けているここからなら、多少の地形差を無視して広く視認できるはずだ。それこそ、ここから遠く離れたキャンプ地からでも。
もちろん、他の竜の興味も引きやすい諸刃の剣だ。そう長時間は粘れない。むしろ狼煙を焚いたら即撤退したいくらいだが、それではメルノスが駆け付けても合流できない。
一か八か、来てくれるか……と半ば祈るような気持ちで待ち続け、狼煙の燃料が切れかかったその時、きゅおーという聞き慣れた鳴き声がサクの頭上から届いた。
「来た……!」
思わずぐっと拳を握る。ボワボワもやや興奮気味に飛び跳ねていた。自分たちの道具で翼竜を呼び寄せられるとは思ってもなかったのだろう。
降り立ったのは二頭。ヒアシとサクを凍て地まで連れてきたメルノスが両方駆け付けてくれた。
彼らも調査団と共にいくつもの難所を飛び回ってきた玄人だ。いくつもの飛竜の目が光る今の凍て地をうまく隠れながらこの狼煙を目指して飛んでくれたらしい。
メルノスたちを褒め讃えたいところだが、その余裕は残念ながらなかった。
ボワボワに指示を出して急いで狼煙を消してもらう。さらにサクは事前に打ち合わせていたボワボワを両手で持ち上げ、メルノスの背中に乗せた。
メルノスを呼んだのは、何も自分がこの場から離脱するためではない。人を乗せたメルノスは飛竜たちの格好の的にされてしまうからだ。
だからボワボワを背に乗せてもらう。これならそこまで飛行の負担にはならない。多少強引な飛び方だってできるはずだ。
獣人族の言葉を勉強していてよかった、とサクは思った。こんなかたちで役に立つとは思いもしていなかったが、おかげで単純に力を合わせる以上の細かな作戦を立てることができた。
翼竜に乗るのは初めてだろう。最初は戸惑っていた様子のボワボワだったが、持ち前の胆力で覚悟を決めたらしい。しっかりと鞍の端を握った。
『操縦は僕が教えたとおりに。慌てなければ落ちることはないから。頑張って!』
サクが脚にスリンガーを引っ掛けてこないことを少し不思議がったメルノスたちだったが、サクが口笛を吹くと素直に空へと飛び立った。
サクと共に地上に残るボワボワたちが歓声を上げる。飛び立つ仲間を応援しているようだ。
メルノスに乗ったボワボワは、これから部族の本拠地のある山へと向かう予定だ。そこまで、このメルノスに運んでもらわなければならない。
あとはこの作戦がヒアシとヒオンの手助けになることを信じ、時折やってくるだろうレイギエナを追い払いながら息を潜める。
その、予定だったのだが。
『……これは!』
急に歓声をあげたボワボワに、何があったのかとサクは振り返る。と、彼らが見ている先にあるものを視認したと同時に、うわぁ、とサクの口からも感嘆の声が漏れた。
さっきまでは死角になっていて気付けていなかった、岩に切り込みを入れたような隙間にそれは鎮座していた。
生物の骨塚のように、肉体を失って空洞となったかたち。しかしながら、そこに骨らしきものは一切残されていない。そこにあるのは殻、抜け殻だ。
しかも、サクが今までに見てきた生物の抜け殻とは様相が全く異なる。ふつうであれば軽い力で崩れてしまうほどに脆いはずだが、目の前にあるのは皮のかたちをした金属板だった。軽くサクの手のひらほどの厚みがある。厚みが、だ。
金属板の表面は赤黒く、かなり錆が進行していることが分かる。しかし、錆が剥がれ落ちた断面は滑らかな光沢を放ち、素人目に見ても質の良い鋼であったことを感じさせた。
サクはこの抜け殻の主を知っている。あくまで文献で、ではあるが、こと調査団では正体を知る者も多いだろう。
「クシャルダオラの脱皮跡だ……!」
そう言えば、前にセリエナで冰龍でなく鋼龍の痕跡を見つけたって噂を聞いたっけ、とサクは思い返す。あれはこの脱皮跡のことを指していたのか。
現大陸での発見例は数件だけだった気がする。かなり貴重な痕跡だ。
『良いものを見つけた! これこそ、この山の踏破の証に相応しい代物だ!』
ボワボワが興奮気味に跳ねている。そしてそのままの勢いで抜け殻の破片を拾いに踏み入っていくのを見て、サクは思わずああっと声をあげてしまった。
『ム、どうした?』
「あ、いや……う、う──ん…………なんでもない……」
なんとも歯切れの悪い返事だが、その十秒ほどの間にサクは重大な葛藤を抱えていた。
調査団のみならず、サクのような研究職に馴染みのある人々は、このような貴重な痕跡に対しては自分の分野でない限り決して触れないことが半ば公然の了解となっている。
たかが一人くらい、と思うかもしれないが、もしかするとその痕跡は人が触れただけで崩れてしまうかもしれない。
そうでなくとも、人の手が入った時点でそれは自然のままの状態から変じることになる。それが痕跡にどのような影響を与えるかは、その道の専門家でない限り分からないのだ。
サクがやれることと言えば、この貴重な体験に感謝しつつスケッチを取ることくらい、なのだが。
ボワボワたちにその理念を押し付けるのは、あまりに野暮というものだろう。
幸い、ボワボワたちは背中の簑に入る大きさの鱗が手に入れば十分だったようで、痕跡が荒らされるということにはならなかった。
朽ちた龍麟は鈍色で光をかざすと淡く色彩を宿す。持ち主の圧倒的な存在感を今もうっすらと滲ませていて、土産や証とするには申し分ない。
内心ほっとしながらその様子を見守っていたサクは、数秒後にはっと我に返った。今は山腹に隠れてじっとしているべきで、こうやって採取や観察に勤しんでいる場合ではない。
サク自身も滅多に見られない古龍の痕跡に心を奪われてしまっていたようだ。油断していると出てくる自身の研究者気質に少しだけ赤面しつつ、ボワボワたちに話を付けてその場から離れる。
来た道を戻る最中に、サクはボワボワから興味深い話を聞いた。
彼らの話によれば、この凍て地では日常的に雪は降るものの吹雪になることはほとんどないらしい。だからこそ大木が森を成し、大型モンスターの来訪も多いのだろう。
しかしある日、経験したこともない程の猛烈な吹雪が凍て地を襲った。ボワボワたちでさえ外に出れずに集落に立てこもるしかなかった。
凍て地が雪に呑まれてしまうのでは、と恐れを抱いていた、その最中に。その吹雪は突然、ふっと掻き消えるように止んでしまった。
不思議に思ったボワボワたちが恐る恐る外へと出ると、遠い氷山の頂上付近で、純白の生物が雲の切れ間から覗いた日光を浴びて燦然と輝いていた。
その幻想的な光景は長くは続かなかった。やがて色合いを鈍色へと変じさせた生物が空へと飛び立つと辺りは再び吹雪に包まれ、丸一日が過ぎてようやく収まった。
ボワボワたちがこの山の頂上を目指していたのは、後世に語り継がれるだろうあの一日の正体を探るためでもあったのだ、と。
ボワボワたちの話にサクは適度に相槌を打ちつつも、これはどこかで三期団辺りの研究者と編纂者を連れてボワボワから話を聞くべきかもしれない、と真剣に考えていた。
彼らは古龍の来訪の一部始終を経験しつつ、ひょっとするとクシャルダオラの脱皮の瞬間に立ち会っているのかもしれない。
その道の研究者なら喉から手が出るほど欲しい情報だろう。サクもつい話し声が大きくなってしまいそうだった。
そんなやりとりを交わしつつ、サクは新大陸の獣人族の言葉を学んでいてよかった、としみじみと思った。
自分が前線に立てないもどかしさはある。しかし、きっとこの作戦は自分だからこそ実行できたし、ボワボワの登頂の証を巡っての貴重な話を得ることもできた。
だから、とサクは思う。あとはヒアシとヒオンが無事でいてくれさえすれば。
どうか二人に導きの青い星の加護がありますように。柄でもない祈りだとは思いつつも、サクはそっと瞑目した。
老騎士とレイギエナが正面からぶつかり合うのはこれで何度目になることだろう。
空中での取っ組み合いを経て、相手を地上に叩き落す。その度に雪が跳ねるほどの振動が響き渡り、崖からはぱらぱらと小石が落ちた。
少しでも相手に大きな傷を。ただ単に力任せの勝負をしているようで隙がない。
ベリオロスはその双牙をレイギエナの急所へと埋めようとし、対するレイギエナは全身から氷針を迸らせてベリオロスの腹を串刺しにしようとする。
あまりにも、物理的に大きな衝突だ。そこに人が介入する余地などどこにもないように思える。
自分が巻き込まれないために最低限の警戒はしつつも、事の成り行きを呆然と見送るしかない。
そんな、他を寄せ付けない嵐のようなもつれ合いに、突如、真っ赤な火柱が投げ込まれた。
彼らは反射的に互いを蹴り飛ばし、間一髪でその火炎を避ける。
いや、避け切れてはいないか。竜ひとつ分程度の広さにばらまかれたそれは彼らの翼や尻尾の一部に掠り、肉を焼き焦がしていた。
凄まじい火力、ガンランスの竜撃砲にも匹敵するかもしれない。地面に敷かれた氷や雪が蒸発し、本来の地面が露わになった代わりに立ち込めた水蒸気。レイギエナとベリオロスが睨む、その影が晴れる。
「いや、今の避けられるのかよ……反応速度おかしいだろ。反射で戦ってんのかこいつら」
剣の先端に装着されていた盾が、蒸気を吹きながら剣の根元へと滑り落ちて分離する。機構部から空になった瓶が弾き出され、即座に替えの瓶が装填される。
超高出力属性解放斬りは盾斧使いの切り札とも呼べる一撃だ。瓶に充填され武器の内部を巡り満たす薬剤を外へとぶちまけてしまうため、とても燃費が悪いと聞く。しかしその威力は見ての通りだ。
火竜の盾斧となれば、それはオリジナルが口から吐く炎に匹敵するだろう。火に弱い彼らに直撃させれば一撃で大火傷を負わせることもできるはずだ。
だからこそ、それが外れてしまったことを心の底から残念がっている。
「この瓶は慎重に扱わな、って、まあっ、だよなあ!」
ヒオンが呟き終わるより先に、ベリオロスが襲いかかる。とっさの防御は何とか間に合ったようだ。あんなに喋っていると舌を噛みそうだが、ヒオンは闘志を口に出していく性格らしい。
このベリオロスの攻撃は、チャージアックスの盾で受けるには少々重すぎる。ヒオンはそのことをよく分かっていて、踏ん張ることをせずに弾いて大きく後退った。
そこへ、極低温の風が吹き付ける。
狙い澄ましたかのようなレイギエナの攻撃。ベリオロスと連携しているようにさえ感じられたが、あれは単に双方を巻き込みたかっただけだろう。現に追撃を仕掛けようとしていたベリオロスは大きく飛び退いている。
対してそこまでの機動力を持っていないヒオンは迎撃を選ぶしかない。盾があるだけ他の武器よりましかもしれないが、やはりチャージアックスの盾では全身を守り通すことはできない。
ヒオンもそれは重々承知のはずだ。多少の氷が突き刺さるだろうことは覚悟の上で、向かってくる白銀の風に向けて構えた。
その目前に、ヒアシが滑り込む。ざざっと粉雪が舞う。
ヒオンを半ば強引に抱え込み、自身とその盾の後方へ仕舞い込んだ。背後は隙だらけだが、ベリオロスは襲ってこない。自らあの暴力的な風に飛び込んだりはしないだろう。
直後、盾に風圧がかかる。今度は受け流すようなことをせず、どっしりと構える。直接攻撃ほど重くはないし、下手に逸らせばこの風は盾を回り込んでくる。
吹雪のように吹き抜ける風。数拍置いて、ぴしぴしと音を立てて氷の針が急速成長し、そのあまりの不安定さによって間を置かず砕け散っていく。
まるで一時の幻のように風に溶けていくそれは、全て、ヒアシの盾と周囲の地面にのみ展開された。
ヒオンとヒアシは、無傷だ。
「……すげー!! ありがとな!」
ヒオンは手短にそう言ってヒアシの肩を叩くと、背後にいるベリオロスに向けて向き直る。
ヒアシは軽く応答するだけに留めた。流石に一言以上は話していられない。けれど、ヒオンにはしっかり伝わったようだ。
槍というランスの攻撃の要を持たないからこその機動力。かつて鍛えていた突進の速度よりもなお早く、味方の窮地へ駆けつける。そんな立ち回りを実現すべく、あえて重量のある防具を選ばないでいる。
今のは刺さると思っていたのだろう。空を飛ぶレイギエナは苛立たしげに唸り声を上げていた。そんな彼に怯まず向き合う。おまえの風は効かないと態度で示すように。
上等だ、とでもいう風に、レイギエナははっきりとヒアシの挑発に乗った。
結局、そうやって対象を迷わずに一点集中されるのが一番やりづらい。それが盾使いの役割であるとはいえ、だ。
このレイギエナは狩人を狩るセンスがある。あの風を防ぎ切ったからと驕るな、とヒアシは自分に言い聞かせた。自身をこの狩りに役立たせたいなら、あの立ち回りを継続してこそだ。
レイギエナはもはやヒアシたちをその辺の小さな存在とは見ていない。しっかりとヒアシを睨み、そのまま突進するように思わせて、力強く翼を羽ばたかせた。
一息で高空へ。一陣の風となって目の前から姿を消す。ヒアシは思わず空を見上げ、先のベリオロスがこれを避けられなかった理由を察した。
きらりと光る陽光。舞い散る雪。レイギエナがどこから襲いかかってくるか全く分からない。
だが、直撃を受ければ無事では済まないどころか致命傷になりかねない。ヒアシは迎撃でなく回避を選ぶ。
直上から舞い戻ってきたその鋭利な爪を、ヒアシは辛うじて避け切った。それに伴う突風に吹き飛ばされ、ごろごろと地面を転がる。
争いの場はいつしか氷原から温泉地帯へと移っていた。地面は冷たくはないが、代わりに独特のぬめりと匂いがある。そこへ転がされたヒアシは何度か咳き込んだ。
加えて、この大技を経てもレイギエナは止まらない。
起き上がった先でヒアシが構えた盾を、その細いが大きな脚の爪がむんずと掴んだ。
ぞっとするが、手遅れだ。あの脚は大型竜ですら掴み上げることができる。ヒアシを空へ連れ去ることくらい造作もないだろう。かつて、ヒオンにそうしていたように。
浮遊感などとは程遠い。力強く腕を引かれ、ヒアシはいともあっさりと地に足が付く感覚を失った。急激な上下動に目が回りそうになる。
ヒオンは耐寒と滑空の装衣でなんとか凌いでいたが、生憎とヒアシはそのどちらも持ち合わせていない。踏ん張りの利かない空中で盾を頼るのは、あまりに無謀だ。
崖上が見える程の高さまで飛翔したレイギエナは、そこで身を翻しながらヒアシを掴んでいた足を放した。
ふっと重力が途絶える感覚。放物線を描いて浮かび上がる数秒間。今度こそとレイギエナは氷の滲んだ翼を広げた。
そして、自らとヒアシを繋ぐ一本の線の存在に気付く。獲物であるはずのそれは、狩る者の目をしていた。
来るな、と。そんな拒絶を込めた風が放たれる。それと同時に、ヒアシも自らの義手に装着したスリンガーの巻取機構を作動させた。
ぐいっとヒアシの腕が引かれる。緩やかに落下しつつも、ヒアシはワイヤーが巻き取られていく先へと飛び込んでいく。
盾を持つ方の手を前面へ押し出した。ごうっと吹く風は触れた部分を瞬く間に白く染め上げる程に冷たく、無茶な体勢を取るヒアシを端から削っていく。
耐える。最低限、目や口、スリンガーが凍り付いてしまわなければいい。強烈な向かい風にスリンガーと腕が悲鳴を上げている。数秒が異様なまでに長く感じるが、もう、抜けるはずだ。
レイギエナの首筋に掴まらせていたスリンガーの爪がその力を失う直前、ヒアシは凍て刺す突風を突き抜けて、レイギエナの眼前に迫った。
頭や耳、足先から氷が生えて血が滴る。決して軽い傷ではなかったが、その対価を今、レイギエナへと見舞う。
ばちん、という平手打ちを何十倍にも大きくしたような音は、ヒアシの盾がレイギエナの頭部を強かに打ち据えたことを示していた。
ヒアシも相応の反動を受けて腕が痺れるが、目元を思いきりはたかれたレイギエナは空中でぐらりとふらついた。頭部への強い衝撃は、一瞬だけだがその意識を強制的に落とす。
その隙に、ヒアシはレイギエナへと組み付く。義手の方の腕が自由に動かせない分、両足も駆使してその頭部へとしがみついた。
文字通りの目と鼻の先。当然、意識を取り戻したレイギエナは激しく抵抗する。ただでさえ低温に晒されてうまく動かせない身体では何秒と持たないだろう。だから即座に行動に移す。
スリンガーに装填されていたワイヤーを収納し、代わりに装填されたのは可燃石だ。種火石よりも火力が高く、強い衝撃で爆発する。
温泉の湧き出る壁伝いに手に入れたそれは、調合された火薬には劣るものの、天然物としては十分な質を有している。かしゃんと小気味良く装填されたそれを、ヒアシは容赦なくレイギエナの顔に突きつけた。
反射的にレイギエナが目を瞑るが、失明までは狙っていないので気にしない。迷わずスリンガーの引き金を引く。弦に擦過され火花を散らす可燃石は、そのままレイギエナに直撃した。
ぼんっ、と爆発音が響き、レイギエナの悲鳴が続く。もはや滞空を維持できず、力を失った蝶のようにふらふらと地面へと落ちていく。
ヒアシもまた、スリンガーの爆発に弾き出される形でレイギエナから離れて地面に着地した。
危うく肩から落ちるところだったが、何とか立て直して転がるかたちで受け身を取り、軽く呻く程度で済んだ。ベニカガチの装備の体術の取りやすさに助けられてばかりだった。
レイギエナは温泉地帯に落ちたようだ。あそこは今にも溢れ出しそうな源泉がいくつも埋まっている。湯加減なんて生温い、今にも沸騰しそうな熱湯だ。
レイギエナが翼をばたつかせているのを見るに、それらがいくつか踏み抜かれたのだろう。
身体に氷を纏わせるかの竜にとっては、それらが融けるだけでも大変な消耗を強いられるはずだ。まして、あの表皮では熱湯による火傷にはきっと弱い。
やっと自身の手で有効打らしきものを与えられたかもしれないとヒアシは思う。あとはこれを相手が根負けするまで続けるだけだ。
決死の覚悟とそこそこの痛手、体格差から来る理不尽さに思わず苦笑いを浮かべた。それが自分たちの日常だったな、と、着地の衝撃でじんわりと痺れる身体を叱咤する。
ヒオンとベリオロスの剣戟も耳に届く。いつベリオロスが乱入してきてもおかしくないと思っていたが、ヒオンがそれを許さなかった。
あの老騎士を前に背中を預けられている現状は、なかなか現実離れしているように思えた。ヒアシに見ている余裕はなかったが、一体どんな攻防を繰り広げているのか。
ざぱ、と、体から湯気を立ち昇らせながらレイギエナが立ち上がった。その目は爛々として、冷たい怒りに燃えている。
地上に落とされ、翼に大きな火傷を負っても、未だその飛行能力は衰えない。それこそ、その大部分をもがれでもしない限り、レイギエナは空を舞い続けられるのだろう。
レイギエナの目にはヒアシの他に、その背後で大立ち回りを演じるヒオンとベリオロスも映ったはずだ。
目の前にいる全てが彼の邪魔者だ。縄張りを広げる彼の前に立ち塞がり、挙句は踏み込んでくる不届者たち。
その全てを力でねじ伏せるつもりだったのだろう。それができるだけの実力もある。
ただ、それでもレイギエナは愚かではない。今この場で最も押されているのは自分だという、あまりにも信じ難いだろう事実を、その瞳は見据えている。
それはきっと、彼自身のプライドに問いかけただろう数秒間だった。
レイギエナはおもむろに空を見上げると、ブレスなど持たないだろうに、大きく息を吸ってその喉を震わせた。
「……ッ」
これまでにあまり聞き覚えのないその音に、ヒアシは僅かに身を竦ませた。怖いというより、不快が近いか。あまり人には慣れない鳴き声だ。
異質とも言えるその声に、ヒアシの背後で繰り広げられていたぶつかり合いの音も止まった。ヒオンとベリオロスも互いに距離を取り、レイギエナを注視しているようだ。
何かの攻撃や形態変化への予兆ではないらしい。どちらかと言えば、広い範囲に響き渡らせることを目的としているようだった。
実際、それはかの竜の咆哮よりも声量が大きく、氷山の上で待機しているサクの耳にも届いたかもしれない。何の竜の声だと、彼はきっと首を傾げることだろう。それくらい普段の鳴き声とは質が違う。
そう。それは、遠くにいる何者かに独特の合図を出そうとしているかのような。
はっとして、ヒアシは周囲の空を見た。その空にふっと影が浮かぶまで、そう時間はかからなかった。
もはや見慣れてしまったシルエット。羽ばたくというより、立ち泳ぎをしているような飛び方。吹き下ろす風は、凍て刺す程ではなくとも、はっきり冷たいと分かる。
「二体目……!」
厳密に言えば、種族名が違うので新手と言うべきではあるが。意味は十分に伝わるだろう。
凍て刺すレイギエナがあの声で呼び出したと見てほぼ間違いない。馳せ参じるようにして、新たなレイギエナがこの乱戦の場に降り立った。
それは、あり得るかもしれない窮地のひとつとして三人の間で挙げられていたことのひとつだった。
レイギエナの特殊個体が見つかるのはこれが初めてではない。新大陸に謎の歌が響き渡っていた頃、青い星がその調査と狩猟を行っていた。
そのときの調査記録には、凍て刺すレイギエナは他のレイギエナたちを統率する立ち位置にいるようだと書かれていた。彼らに共闘され、大きな苦戦を強いられた、と。
今相手にしているレイギエナは導きの地から渡ってきた個体でほぼ間違いない。凍て地に着いてからまだ日も浅いだろうから、他の竜を付き従えるとまではいかないのでは、という思惑があった。
これは、その見方を悪い意味で裏切られたことになる。既にこのレイギエナは凍て地の同族に対する根回しを済ませていたのだ。
乱入してきたレイギエナは凍て刺すレイギエナよりも一回り小さい。どうやら戦い慣れてはいないようで、しきりにベリオロスやヒアシたちを見回している。
ヒオンとヒアシは密かに視線を交わした。言葉で提案するまでもない。撤退だ。
狩猟においてハンターが負荷を抱えきれなくなったときの状況は、溢れて零れるというよりも、決壊する、という表現が近い。
今まで大きな怪我もなく凌げていたものが、突然致命傷を受けて命を落とすといったような、結果が両極端になりがちだ。だからこそ、その見極めが生命線となる。
ハンターの負荷も様々だ。単体のモンスターの強さ、暑さや寒さなどの環境条件、回復薬や砥石といった道具の消耗具合など。どれひとつとして見過ごせるものではない。
今回は単純に物量が多すぎる。ウルグなどの群れへの対処ならともかく、大型モンスターを相手取ってこの理由を挙げることになろうとは。
凍て刺すレイギエナはともかく、通常のレイギエナであれば油断さえしなければヒアシとヒオンで十分に対処できるだろう。ただ、この状況下ではそれすら許容できない。
身軽な飛竜とは言えど、その重さは人を簡単にはねのける。このような乱戦ではその場にいるだけで大変な脅威になることは明白だ。一対一で相手をしている小さな存在をちょっとでもつつけば、均衡を崩せるのだから。
やや怖気づいている新手のレイギエナを鼓舞するように、凍て刺すレイギエナが大きく咆哮しその傍へと駆け寄る。融けかかっていた体の冷気や霜は既に再装填されていた。
ひょっとすると、彼らは主従というよりかは番になりたてのような関係なのかもしれない。そんなことを頭の隅で考えながら、ヒアシは密かにスリンガー閃光弾を装填する。
凍て刺すレイギエナはこれを見たら目を瞑るという学習を既に済ませているだろう。長年雪の照り返しの中で生きてきただろう老騎士にも有効だとは言い難いものがある。
それでも、一瞬怯ませることくらいはできるはずだ。その隙に全力で離脱を図る。そうしてもボワボワやサクが脱出できない状況は変わらないので、厳しい長期戦になることを覚悟しなければならない。
二人でこれだけの存在感を演出しただけでもある程度の成果とは言えるか。命を落とさないことが何よりの最優先。どちらか一人でもサクの元へと辿り着ければいいが。
あまり切りたくはない手札だった、セリエナへの追加の救難信号も視野に入れて、じり、と踵を僅かに動かした。
そのとき、だった。
ヒアシとヒオンは、文字通りの新大陸の白き風を。
誰もが睨み合って緊迫していた場を滑らかに切り裂いていく、氷刃佩く狩人を見た。
きっと、レイギエナたちの目にもそのように映ったことだろう。
幸運なことに、ベリオロスの標的はヒオンやヒアシではなかった。本当に、幸運なことに。
狙われたのは新手のレイギエナだ。彼、または彼女は、襲いかかる氷牙に反応すらできなかった。凍て刺すレイギエナが咄嗟に庇おうとしたが、それらは全て遅かった。
白き風に攫われた新手のレイギエナは、そのまま地面に組み敷かれる。空へ逃げようと何度も翼をばたつかせようとするが、ベリオロスの両翼がそれをしっかりと地面に縫い留め、スパイクとして機能する棘が翼膜を切り裂いていく。
そして、レイギエナの細い首めがけて、その首の径ほどもある真白な双牙が突き立てられた。慄くレイギエナに対して、容赦など欠片も感じさせなかった。
きっとまだ若い個体だったのだろう。その外皮はいともあっさりと牙の進入を受け入れた。
動脈を突き破ることなど造作もなかった。真っ赤な鮮血が噴き出して、そして、すぐに止まった。
「氷刃の狩りだな」
ヒオンが呟く。
「だから、あの牙は琥珀色にならないんだ」
ベリオロスの狩りは基本、獲物を失血死させるものだ。他の竜との争いにおいても、ベリオロスが絡むと明らかに周辺の血の量が増える。
かの竜の牙はそのために発達した。厚い肉をも貫いて、その内にある太い血管を切り裂く。生涯をかけてその狩りを続けていくベリオロスの牙には血が染み込み、結果として琥珀色になる。そんな説が人々の間では囁かれている。
では、この老騎士の白い牙は。まさにそれこそ、他に類を見ない例外と言えた。
惨い傷を与えるよりも、その切れ味を追及する。大量出血よりも、血の流れそのものを凍らせてしまうことを選ぶ。ひたすらに冷たく、鋭利に。
狩りにおいてはむしろ非効率な在り方を淡々と貫いたかの竜の牙は、決して血の色には染まらない。いつしかその殺傷力は、他の追随を許さない域にまで至っていた。
まさに気の遠くなるような時をかけて研ぎ澄まされた刃だ。若手のレイギエナに阻めるはずもない。
呆然としていた、いや、そこまで愚かではないだろう。仲間が折り重なっていたことで手を出しあぐねていた凍て刺すレイギエナが今度こそ怒り狂うような雄叫びを上げた。
必ず報いを受けさせる。そんな意志を滾らせながら空へと飛び立ち、今もなお仲間へと牙を埋めるベリオロスへ向けて猛然と突進を仕掛ける。
愚直だが、かつてない力強さだ。まともに受ければかの老騎士とて無事では済まないだろう。だからその牙を解いて回避行動を取ると、そう、思われたが。
ベリオロスは新手のレイギエナへと食らいついたまま、ぐいと上体を起こした。もはや抵抗する力もないのか、獲物はぐったりとされるがままになっている。
そして彼は全身を弓として引き絞るように大きく力を溜めて。────咥えていたレイギエナを、凍て刺すレイギエナへと向けて投げ飛ばしたのだ。
これに驚いたのは凍て刺すレイギエナの方だ。
まさか助けようとしていた相手がこちらへ向けて放り投げられるなんて思いもしない。しかもこのままでは互いに正面衝突してしまう。それはあまりに惨い追い打ちだ。
折り畳んでいた翼を一気に広げる。急制動、空気圧を全身に受けて翼膜がぶわっと広がる。その直後、新手のレイギエナがその懐へとめり込んだ。
再び地面への激突音と悲鳴が響き、雪と土煙が舞う。放り投げられた方にとっては緩衝材の役割を果たしただろうが、それを受け止めた凍て刺すレイギエナは、何本か骨が折れていてもおかしくない。
ベリオロスはその気になればブレスで追撃を仕掛けられただろうが、そうはせずにじっと成り行きを見ていた。ヒオンとヒアシもそれに倣う。
もつれあうように転がった先で、それでも凍て刺すレイギエナは立ち上がる。
流石に消耗している様子でも、怒りがそれを上回っているようだ。感情が高ぶるほどに膨れ上がる冷気がかの竜を象徴している。
今度こそ、攻めあぐねるような障害はない。たとえ自らの命が断たれようとも、という意地すら感じさせる形相で前に立とうとした、間際に。
力無く倒れ伏すレイギエナの口から、小さな声が漏れ出た。
危うく踏み止まって振り返る。あの傷では既に事切れていてもおかしくはなかったが、瀕死ではあれどかろうじて呼吸はできているらしい。
僅かだが自らの力で立ち上がろうとすらしている。それを見た凍て刺すレイギエナはベリオロス、そしてヒオンたちからも視線を外さず、一歩二歩と後退する。
そして、瀕死の仲間を守るようにそっと翼で覆い隠した。
悔しいだろう。今にも踊りかからんとする眼光を向けながらも、それを行動に移すわけにはいかなくなった。
レイギエナはもともとプライドが高い竜だ。その群れのリーダー格ともなれば、命よりも勝敗にこだわるだろうことは容易に想像できる。
自らの不利を悟り、その矜持を曲げてでも勝つために呼び出した増援は、この乱戦で考え得る限り最大の悪手だった。ハンターに例えれば、人手が足りないからとこの場に新人を呼ぶようなものだ。
新手のレイギエナがこの場に降り立ってから、未だ数分も経過していない。それだけで情勢はここまで傾いた。きっと彼自身が一番信じ難い思いでいるはずだ。
凍て刺すレイギエナは文句なしに強い。恐らくまだ若いだろうに、あの身体能力と戦いの勘は驚異的と言っていい。今までも何度も強敵と渡り合い、己の力でそれを制してきただろうことが窺える。
だからこそ、己以外の力を借りるという手段については疎かった。その相手が歴戦の老騎士であったことがさらに追い打ちをかけた。学びと言うには、あまりにも痛い。
凍て刺すレイギエナの翼が大きく広げられる。ヒオンとヒアシは僅かに身構えたが、そこにはもう闘志や敵意は込められていなかった。
その脚が瀕死の仲間をそっと掴む。やや不器用ながら、これまでになく慎重に。彼の声に応えて怖気づきながらも駆け付けたレイギエナがまたか細く鳴いた。
そのまま飛び立つ。大型の竜を運ぶのは流石の彼でも大変だろうが、四の五の言ってはいられない。初めて、凍て刺すレイギエナはヒオンたちとベリオロスに向けてはっきりと背中を向けた。
追い打ちを仕掛ける者はいない。既に縄張り争いの勝敗は決した。ここで下手に手を出すのは、それこそ命に関わる愚策となるだろう。
自身の怪我も響いているのか、やや足を引きずるようにして凍て刺すレイギエナが飛び去っていく。
彼らが戻ってくる気配がなくなるまでその姿を見送っていたヒアシとヒオンは、その場に残ったもうひとつの視線が自分たちへと向けられていることに気が付いた。
「お後がよろしいようで。冷酷なんだか礼儀正しいんだか分かんなくなってきたな、こいつ」
「あえて待っていたのだとしたら……確かに怖いですね。それだけの余裕があるということだ」
ヒオンとヒアシの見解は一致しているようだ。ここまでのことを前座と呼ぶにはあまりにも激しい争いだったが、こちらが勘弁してくれと言いたくなるような気迫を目の前のベリオロスは静かに漂わせている。
「本命、こっちだったのかなあ。そりゃ光栄なことだ」
「……ヒオンさん、本当に調査中に手を出したりしてないですよね……?」
一応、こちらにも軽口を交わす余裕があることを確かめて。各々で武器を構える。
氷刃佩くベリオロスは律義に咆哮を返した。「次はお前たちを試す」とわざわざ宣言しているかのようだ。
何やら楽しそうにしているヒオンに対して、なんだかんだでこの騒ぎの中心にいるのはベリオロスではなくヒオンだということに気付いてしまったヒアシは、若干の疑いの目を向ける。
ヒオンは何やら弁明しようとしていたが、その前にベリオロスが動いた。余分な猶予は与えてはくれないようだ。
延長戦か、あるいは後半戦か。まだ序の口ということだけはあってほしくないと思いつつ、ヒアシは再び剣戟の中へと身を投じていった。