これは夢だ、と不思議に直感する。
夢の中でそれと自覚する夢。全てが淡い輪郭とあの夜の月明かりにぼやけた、水泡に溶け込むような景色。
そこで、俺は自分の姿と向き合っていた。
ただ立ち惚けている俺の前には、一人の女と揉みくちゃになっているうつ伏せの俺がいた。二人とも血塗れで、お互いの血が混じり合ってどちらの物かすら分からなくなっている。
あの爪と牙は薄紙を裂くように体を切り裂き、俺は肩を噛み砕かれた代わりに——敵の喉へ刃物を押し込んだ。
その瞬間の俺たちが、目の前の光景だった。
そう、分かってる。
俺は何も、あの場でオオカミ娘を殺すことはなかった。力で抑え込めていたのだから、余計な事をしなければ無傷でプロメスティンが来るまで時間を稼ぐことが出来ていた。
だけど、俺は
今でも感触が残っている。喉の肉をナイフがみちみちと押し分け、骨を抉る硬質な音。生暖かい血液が噴き、まさに腕の中で”命”が流れ出る感覚が。
後悔してない……と言うと嘘になる。
一度知れば元の自分には戻れない、ある種の訣別。でも、どうしても……やりたかった。
魔物を殺すっていうのが、どういうことなのかを知りたかった。
俺は多分、憎しみを利用したかったんだと思う。
もちろんあの状況ではっきりとそう考えて実行に移したんじゃないけれど、頭のどこかでは思っていた。
結局のところ、それはエゴでしかない。徹頭徹尾自分の為だけに、だからこそやる価値のある殺人。
手を染めてしまった。もう元の俺には戻れない。
この時、俺はタチの悪いことに——『救い』を求めてしまった。
幻影をぐるりと回り込み、しゃがみ込んで、喉にナイフを突き立てる俺自身の顔をまじまじと見る。
俺は、オオカミ娘の顔を必死に凝視していた。
どうしても……どうしても、死に目の顔を見たかった。こんな時に物語でありがちな「自分が奪った命」「責任を持って見送りたい」とか……そんな気持ちはさらさら無い。
俺はただ、後悔から逃げ出したかっただけだ。
俺が殺した奴はどの道死んだ方が良いような奴だったと、そんな身勝手な思い込みで自分を慰めたかった。
命乞いをしてくれる事さえを望んだ。「自分がやってきた事を忘れて生き足掻くな」……と、そう思わせて欲しかったのだ。
その思いこそ偽らざる俺自身の醜さだ。
しかし——この魔物は。
この魔物は、死に目に俺へと怒り狂うことさえしなかった。喉を潰された手前声は出ていなかったが、その時彼女が何を言っているのか、俺にははっきりと理解することができた。
俺にとっては都合の悪いことに、だ。
『逃げ、な さい』
殺しちゃいけない男を殺そうとしてまで食らい付いてきた理由。魔物は、最期に片割れを案じていた。
生まれついての悪性と矛盾しない、生まれついての気高さ。
人間である俺の苦悩、
その野に生きる”獣”の本質は——
思えば奴は完全に、俺を精神的に上回ってみせた。
苦し紛れの暴走に乗っかって人を殺そうとした俺とは根本から違う。最初から最後まで自分を曲げず、曲げる必要すら無いまま逝った。
こんな俺が、想ってもいい事じゃないけれど。
自分を殺した男に、お前が思ってほしいとも思わないけど。
光を失った瞼を
◼️◼️◼️
次の瞬間、俺は現実に目が覚めた。
「…………」
時分は明朝。日が昇る直前の青白い空が目の奥にじんわりと焼き付いた。
あの夜が明けてすぐの朝なのか、それとも眠ったまま一日二日と経っていたのかはわからないが——今重要なのは、そこじゃない。
「ぐっ……痛」
漠然とした違和感を体に感じて、そこを見る。
当たり前と言えばそうだが、酷い有り様だ。前に森で負ったものより数段深い傷があちこちで痛む。体の半分くらいが包帯でぐるぐる巻きにされていて——って、これは。
「手当て……プロメスティンか」
所々折れたりしたと思うんだが、今のところ動かせないというほどの部位は無い。砕かれた肩の方の腕も吊られてはいるが、骨は早くも繋がっているようだ。
また魔法も絡めて色々と治してくれたんだろう。受けた怪我を思えば具合はだいぶ良くなっている。
ゆっくりと立ち上がってみると、やや貧血気味なのかぐらりと頭の中が揺れ動くが、そのまま倒れ込むというような事もない。
「……?」
しばし忘我の間、辺りを見回していると——何やら見慣れない荷車がそこにあった。
縦に長い木製の二輪車。その中には随分と大きな布袋が積み込まれている。中身は詰まっているようだが、これは……?
何とは無しに切れ目から捲って中を覗くと——
「ん」
はらりと、黒い
直感的に、それが何を意味するのを察したが。それでも、俺はその元を辿るのを止められなかった。
褐色の皮膚。滑らかな首筋をなぞるように視線を上に向けると、赤黒い窪み。明らかに致命に至ると判る——俺が付けた傷。
生々しい重みを感じさせ、そこに力無く横たわる頭部。
改めて見直せばはっきりと
「おはようございます」
声が聞こえた。
荷車の陰に隠れてる上に体育座りしていて見えなかったが、覗き込めばそこにプロメスティンがいた。
「遺体は保存魔法を掛けた布で覆ってあるので腐乱する心配はありません。まさかここで解体する訳にもいかなかったので……錬金術で荷車を作るのに我々の荷物をいくらか使ったのですが、復路の補給は充分間に合うでしょう」
淡々と現状を説明するプロメスティンは何というか、様子がおかしかった。どうもこっちと目を合わせようとしてない気がする。
視線を寄越さないままぶつぶつと喋る彼女を怪訝に思いつつ、俺は気になった事を口にした。
「もう一匹はどうした?」
「え?」
「いや、中に二匹とも入ってるようには見えないんだが。もう一匹は?」
少しの間、沈黙が流れた。
何か言った方がいいのかと口を開きかけた時、プロメスティンは思い出したかのように言い足した。
「その、逃げられました。あの時は一刻を争う状況でしたし、貴方がああいう事になった以上は私がカバーに入らないといけなかったと言いますか……」
「そうか……」
やっぱり、逃げられてたか。
俺が余計に傷を負わなきゃそうはならなかったろう、そう考えると申し訳なくなる。解剖に予備なんて多いに越したことは無いと思うんだが、一人分でもどうにか事足りると願いたい。
「あの……」
「ん?」
「何というか、少し、変わりましたか?」
変わった……。
変わった、か。どうなんだろう。確かにさっき、自分で殺した魔物の遺体を見た時、自分でももう少し動揺するかと思ったが。
さっきからプロメスティンも俺に気を使うような態度でいたのはそういう事だったのかもしれない。ただ今は、なぜだか不思議と落ち着いた気分だ。
「なあ……」
「はい?」
「もう俺、碌な死に方はできねぇよな……」
がっくりと、岩場に座り込んで頭を抱える。
このままこういう事に慣れていったらいつか取り返しのつかない物まですり減らしてしまうかもしれない。それは、怖い。
落ち着いてはいるが、あまり良い気分でもない。そうやって項垂れる俺を見て、プロメスティンは少しだけ雰囲気を緩めてこう言った。
「そういう思考が先に来る辺りは、思ったより変わってないかもしれませんね」
「……流石に、いきなりお前みたいにはなれねーよ」
「いいんじゃないですか? 別に、貴方に私と全く同じになって欲しいとは思いませんよ」
「え……?」
あっさりと、言ってのけられた前提の崩壊。
思わず目を丸くしてそちらを見る。少女はすっくと立ち上がって、こちらへゆっくり歩いてくる。
「私の道は私だけの物です。貴方がどういう道を進むのかには興味はありますし、手助けもします。ですが、ただ私の後を追わせるつもりは毛頭ありません。だから……」
目の前まで来たプロメスティンは、腕を広げ——俺の頭を優しく抱きしめた。
「私には無い、貴方の”優しさ”の部分を信じていますよ」
その時、俺はどうしてか思った。
こいつは、
それはきっと今ではない。遠い遠い先の話になる筈だ。だけど……その時になれば。
きっとこいつは、ほの暗い破滅へと飛び込まずにはいられないだろう。
歯止めの効かない自分の性格をよく理解してるから。俺を通して別の景色を見たい、という思いもあるんだろうけど。
ただ、俺に同じ運命を辿って欲しくない……そういう気遣いも、確かに感じる。
「う……」
それは、だからこそ、その言葉は。
暖かく、そして、どうしようもなく悲しかった。
「ぐっ、うう……」
「…………」
この日、俺はこの旅に出てから初めて泣いた。
静かに嗚咽を鳴らす俺を、彼女はいつまでも抱きしめ続けた。
ちょっと人殺しには慣れちゃったけど、それでも結局いい奴なのには変わりない主人公くん。そういう路線の話です。
言うてもこの世界に来てからこういった価値観の著しく変わるような経験は初めてじゃないので……今回のそれも、単なる”現代人離れ”の一環と思って頂けますと。