たぶん全部で文量がいつもの三倍弱はあります。
(畜生、何てこった……!!)
馬車からふっ飛ばされていく護衛対象を目で追いつつエリックは歯噛みした。任務は……失敗だ。
ああなってはもう助からない。今から引き返すのはあの足の遅い奴らを含めた全員を相手にするという事になり、それは現時点での人間の最高峰と言ってもいい実力を持つエリックにとってすら確実な死を意味していた。
(前に……前に進むしか……!)
「どうしたんですか! 今何か凄い音が、」
「……いや、何でもない。そっちに集中しろ、線路から離れなきゃ間違い無く目的地までは付く!」
相棒に言われた事を忠実に守り、しかし集中を欠かないよう後ろを振り返る事もできずに。赤毛の少女はどうにか馬車を動かしていた。
ダラダラと流れる冷や汗が長くは持ちそうにない事を如実に示していたが、それでも彼女は必死に手綱を握りしめていた——預かるためにだ。”二人”の命を。
(ぐっ……!)
「はっはァ! ひでー男だなァオマエ、いま『何でもない』っつったのか!?」
斜め上方を並走しながら嘲けるように笑い出したウィルム娘を睨み付けながらエリックは考える。
完全にやられた。今思えばあの『賢者』に対する仕込みは実に周到だった……待ちに徹し敢えて迎撃をさせずエリックの炎に目を慣らす機会を与えなかったのも、雑魚を使って体力と注意力を着実に削っていったのも、全ては一人を削るあの一瞬の為だったのだ。
大元は本人の不注意が招いた自業自得とも言える。だがその遠因を作り出したのは他でもない自分であり、それによって魔物の群れに放り出された男を今度は見捨てて離脱しようとしている。
「わかってねーなら教えてやるよォ、オマエらがとっくに
「黙れッ!」
「ひひっ、危ねぇ危ねぇ!」
間合いは完全に見切られている。炎の壁は牽制としては依然十分な働きをするだろうが、こう簡単に躱されるようではやはりダメージを与える事はできない。
「さあ一人減ったぞォ——囲めぇ!」
雑魚を散らす人手が減った分だけ均衡を保っていた形勢が一気に傾きかける。気が付けば早くも数匹が付かず離れずの距離で辺りを取り囲もうとしていた。
この状況、ウィルム娘を含めたこの場にいる全員から一斉に襲われた場合。誰がその全てを一瞬で防げるだろうか?
(く、そっ……)
果たして、これが本当に
エリックは思った。
ローレンスに付いてここまで来たのに後悔は無い。彼女を置いてそれ以上に信じられる物などある筈がなかった。ただそれは、今までにしてきた自らの行いが一分の隙もなく、完璧に”正しい”のだという肯定をする材料には決してならない。
例え他の全ての道が塞がれていて、これこそが”最良”の結末だったのだとしても。それでもエリックはこの期に及んで思わずにはいられないのだ。
一体、自分は何の為に────……
『諦めるな』
時が止まった。
意識を向けるのは灰色の世界ではなく、己の胸中。
それは随分と懐かしい感覚で。
魂の奥底で震える確かな鼓動。
久しく声を聴かせてくれなかった心の”炎”が、今この時。寄り添うように語る言の葉は。
『貫き通せ。これがお前の選択ならば』
「サ……」
『私は見守っているぞ』
『……最後まで、な』
世界に色が戻る。
そうして動き始めた周りの景色に併せて、御者台から赤毛の少女の背中がふと目に入った。
「何を勘違いしてるのかは分かりませんが」
「…………」
「私達は終わってなどいません。例えそこで何が起こっていようと、必ず、この地で目的を果たして帰還します。貴方にはそれが分かっていないだけ」
「……何?」
「だから私には
前を。
前だけを見据えて手綱を握りしめる少女が何故そこまで言い切れるのか分からない。
「約束、しましたから」
だがその声には——疑いという物が全く含まれていなかった。
「さあ、貴方の力が必要です。次の攻撃さえ防ぐ事ができれば当初の作戦通り、あのウィルムを後続から追いつかれる前に仕留める時間ぐらいは稼げるでしょう」
「……次の奴らは一気に来る。オレだけで全部を防ぐのは、」
「エリック」
ぎくり、とした。
「大精霊サラマンダーの司祭長」
その声になぜこういった感覚を抱いたのかは分からない。ただ余りにも澱みの無く透徹とした、纏う”圧”さえ肌先に感じさせるような雰囲気はまるで……
同じ人間、ですらないかのような。
「為すべき事をしなさい。それが出来るのは、生きている間だけですよ」
「…………」
得体の知れない何かに導かれている気さえした。
自然と体を動かしていた。剣を握る手に力が篭る。
「……そうだよな」
何が正しい事なのかは分からない。
それでも。
背中を押す力に応えること、それを躊躇う理由はどこにもない。
さあ。
驕り高ぶる飛竜へと、ひとつ地獄を見せてやれ。
「……?」
カチリと、瞬くような
ほんの一瞬だけ感じた光は、しかし僅かな残光を残し既に収まっている。何が起こったのかと馬車の方向を注視すると——
「何だありゃァ?」
一筋の”白”が尾を引いていた。
炎使いの男、エリックが一瞬にして抜き払った大刀の
……それだけ。当の本人は何をするでもなく、片腕で剣を振り抜いた姿勢のままピタリと停止して動かない。走る馬車の速度に沿って煙が後方へと流れていくが、地上を走る仲間たちは当然警戒してそれに触れないようにしている。
(何のつもりだ、諦めちまったかァ?)
今すぐにでも周囲を取り囲む敵を振り払わなくては自分達の一斉攻撃を耐えられないと分かっているだろうに——もっとも、それすら無駄な事ではあるが——その素振りすら全く見せない。煙を吐きながら前に進む様子は一昔前にそこの線路の上を走っている所をよく見た
(まァいいさ、何でもいい)
既に躱した二回の攻撃で相手の底は見えた。あの火力は確かに脅威だがスピードが足りない……ましてや下の対処と同時に自分を捉える事など、どう足掻いても不可能だ。
「——野郎どもォォ!! 行くぜぇッッ!!」
「「「おおオおっ!!!!」」」
あるいは、それは当然の帰結かもしれなかった。
獲物を狩る際の魔物としては極めて冷静な思考で一行を追い詰めたウィルム娘の歴戦は、しかしどこまで行っても魔物的だ。
数時間にも及ぶ”待ち”の策略が見事に嵌まった上で、
眼下の男をどのように陵辱するか。
風の唸り声が肌を叩くほどの急速降下を敢行しながら、大半の思考がそのような形で停止しかけた状態で。
そんな状態で
(あ……?)
こちら”だけ”を見ていた。
敵は、エリックは、この自分以外にも群がる何体もの竜族を視界にすら入れようとしていなかった。
上か下か。どちらか片方でも対処をしなければ敗北が決まると知っていよう。だが、それでも、合わせた両眼が焼け付くほどに鋭敏な殺気は他ならぬ自分だけに向けられていた。
それは不退転の覚悟。
もはや助かる道無しと判断し、せめて一番の強者である自分と刺し違えようとしているというのか。
(…………)
圧縮された時間の中で眼球だけを動かし、周囲を見る。
「ぐるるァ!!」
ボキボキッ、という異音が響く。ついに地上から襲い掛かった同族達が馬車を破壊し始める音だ、この様子ではあと数秒で走れなくなる事だろう。
この地で移動手段を失うということは即ち、生きて帰る望みが全く断たれるという事だ。
────動かない。
「う、くっ……!」
同乗者の女からうめき声が漏れるのが聞こえる。真っ先に馬を狙った者がいた。その爪が皮を裂き、その牙が首筋を捉えて抉りはじめた。こうなってしまっては何もかもがもう遅い、彼の心は絶望に染まるしかないはずだ。
──────動かない。
興奮しきった竜達の息遣いさえ聞こえる距離まで近付かれた、今この瞬間に至ってさえ。
────────動かない。
他は眼中にすら入れていない。あれが見ているのは自分だけ。
“それ”を理解した瞬間——ウィルム娘は、
ようやくエリックさんの本領をお見せできると言ってもいいでしょう。ここまで地味に長かった…
ちなみに彼、剣術では足元にも及ばす、精霊の扱いや魔力の出力に関しても流石に勝てる要素はありませんが…ただ一点”火の扱い”に限ってはあの勇者ハインリヒより上です(真顔)