「かッ、は、はっ、は、はっ────」
蒼白な顔で浅い息を吐き続けるエリックはまさに瀕死直前。自分で放った技に司祭長の外套も吹き飛ばされ、アーモンド型に区切られた結界の前で喘ぎながら膝を突いていた。
最後の奥義『
(ごく限定された範囲内全ての生物を問答無用で即死させる。相手の強さなど関係なしに。それ以上でも以下でもなく、これはそういう技——)
これが実戦で決まってしまった以上は、そうだ。勝ったのだ。クィーンドラゴンは死んだ。彼女の強さが己を超えた遥かな高みにあるという事実を軽んじているでもなく、ただ当然に受け止めるべき確信なのだ。
——即ち、火そのものが「水」の「逆」である、という性質。
この世界においては、だ。
有りと
風に晒せば土が崩れる、水精と火精が反発しあう——それらは全て互いの属性が反発する逆位置にあるからだ。
この
ここに踏み込めば魔王だろうが邪神だろうが問答無用で死に至る——個人の使用する技というよりは、
この場所に踏み込んだ者が生き残る事など絶対に無い。生前がどれほど偉大な存在であろうと、それが水を含んで生きる生命体である限り砂漠の砂よりも乾いたゴミ屑のような残骸になるまで徹底的に朽ち果てて残酷に死ぬ。
だから、そう。ありえない。
「…………………………」
あのクィーンドラゴンが健在のまま立っているなど。そんな事は絶対にありえない筈なのに。
「…………」
「な、ぁ……?」
「……がッ、ふ」
ごぽっ、と。
べっとりと赤黒い血の塊を吐き出して崩れ落ちるクィーンドラゴンだが、それが生きて動いているという事実こそが既にエリックにとっての絶望的な状況を表していた。
「く、っふふ。肺をやられたな、あれだけ念入りに”外した”というに……文字通りに気炎を吐き出す、我らが竜の臓腑がか? くく……いとも呆気なく、
「どう、やって」
どのようにして”耐えた”のか、という疑問ではない。エリックにとってもクィーンドラゴンにとってもそうだ。問題は即死の圏内からどのようにして”逃れた”か。生存の理由を問うならそこしかないと、両者共が正確に認識していたからだ。
「逃げ水……遥か南西の地では
「な……?」
「くく、”何だそれは”と? わざわざ解説してやる義理はない……じゃがな、こればっかりは貴様の落ち度でもない。無駄に長く生きてものを知り、広い世界を歩いてきただけに……最後の最後、ほんの僅かに……この儂が、炎の扱いにて先を行ったと云うだけの事」
そんな簡単な事を、と思う者もいるかもしれない。
だが忘れてはならない。この原始にも近しい世界において誰もが”賢者”と同じ視点で物を見る事ができる訳ではないのだ。
彼からすれば未だ”古代”と形容できる今を生きる中でさえ極まった武芸を始めとし、竜族の中でも随一の鍛治、容易く天使を捉える呪術、結界の技、数学──果ては光学に至るまで一角の知識を備えているという異様さは本来、有り余るばかりの才覚と数千年にも渡る膨大な経験を積み重ねた結果としてようやく手に入れる事ができる物なのだから。
つまり女王は最初から結界に踏み込んでなどいない。エリックの”仕込み”を寸前に見抜いた瞬間から自分の実像だけを前面に移し、僅か後方へと逃れていた。ほんの微かな予感にも近しい読み、それを通しきった結果が両者の命運を分けた───。
「は、はあっ、危なかった。死ぬかと思ったぞ……よもやここまでやるとは思わなかった……だがしかし、それでも、やはり貴様はここで死ぬ」
「…………」
ついに立ち上がったクィーンドラゴンが、しかし確かな足取りで歩を進める。
「死に損ないの貴様を殺すに最早、刀剣を持ち出す必要すら無いわ……我が爪で、喉笛を一息に引き裂いてくれようぞ……」
さながら処刑を待つ罪人のように頭を垂れるエリックの目前で。並大抵の武具など比較にもならぬ絶死の鋭利を誇る手刀が徐々に力を蓄え、引き絞られていき——
「……さらばッ!」
ガぃン!! と。
耳を
灰色の世界に焔が踊る。
時の止まった背景は既に意識になく。
心の中に揺らめく紅蓮の色彩だけを瞳に映したまま、内なる”声”へとエリックは耳を傾ける。
『もう楽になりたいか?』
それは冷酷に見放す声でもなく、かといって慮るような優しい物でもなく。
只々寄り添い、支えるだけの、力を持った言葉。
「いいや……」
ふ、と笑い。
否定の意をだけ返すエリックに対し——サラマンダーは無言のまま、昏きに
全盛期には程遠いとはいえ。
瀕死の人間など容易く轢き潰せるはずの爪撃を受け止められたクィーンドラゴンは——
「サラマンダーッ!!」
ビリビリと、直前まで肺を潰して血を吐いていたとは思えないほどの咆哮にて大気を揺るがした。
「…………」
「もう後戻りはできんぞ、これが最後の機会じゃ。その人間を死なせたくなければ体から離れてこちらに来い!!」
数秒の間を置いて——やがて悟ったように女王は手を退け、そしてくるりと背を向ける。
戦いを止めるためではない。むしろ
「巨剣”アレス”」
いつの間にか。
それをどこからか引き抜いた動作すら見えないほどの刹那、その直後にはクィーンドラゴンの利き腕に備えられていた。
「こいつだけは他の武器とは違う。明確に
武骨の二字をそのまま表すかのような極太の刃を持つ大剣。それでも並外れた長身を誇るクィーンドラゴンからすれば不釣り合いに見えてしまうような風体はしかし、最強の竜族たる彼女に全く引けを取らない程の濃厚な存在感を発していた。
「だが今日、この最強の剣で貴様を完全に屠り去ってくれよう。その意志と魂を微塵に打ち砕く。此処より一歩たりとも貴様を先に進ませはせん」
突き付けられる、宣告に対し。
「ありがとう」
舐めるような炎の残滓に罅割れた体を炭化させつつある戦士は、薄く笑いを浮かべてすらいた。
「オレは後ろに振り返ることができない。前に進んで倒れることしか許されない、そういう、どうしようもない人間だ。……だから、ありがとう。そんなオレの全力を、アンタになら安心してぶつけられるから」
「……それ以上の力を出せば、分かっておるな?」
「いいや……案外無事に済む、ってこともあるかもしれんぜ。アンタに勝って、ドウェルガに帰る。どこまでもオレはそこに向かって進み続ける。ただそれだけだ……」
今にも崩れ去りそうな肉体を揺らし。
大刀を構えるエリックは、ただ一言を呟いた。
波濤を成して滑らかに噴出する赤色。それは純粋な火焔の煌めきというよりは、一面に飛び散る血肉の色を思わせるまでにグロテスクな極彩色の領域。
重く、深く、黒い。それでもなお炎として燃え上がる魔力は徐々に刀剣へと収束し——
白紙の世界に、滑らかなる極光が飛び散った。
◼️◼️◼️
「あっ、ぐ……!?」
「だ、大丈夫ですか? どこか痛みます?」
砕けた右足の治療中。いきなり頭を抑えて呻き声を出した俺に動揺するプロメスティンだが……お前こそ何も聞こえなかったのか?
「今の
「……声、ですか。その杖が折れた時に貴方が耳にしたそれと何か関係が?」
俺はついさっき起こった事をプロメスティンに伝え終わっていた。なにしろ必死だったし全部はしっかり覚えてないかもしれないが、それでも把握してる分は包み隠さずに言ったつもりだ。
杖が折れてしまったこと、その声を聴いたこと、俺を助けてくれたこと……あれは杖そのものの意思だったんじゃないかと俺は考えている。ところがプロメスティンの方はその考えにあまり肯定的ではないようだ。
「そういう処理をしてる訳でもないのに魔道具が思考を持つなんて考えられませんけどね。ましてや勝手に解毒術の行使や呪術の補助をするなど……思えばシルフも似たような世迷言を言っていた記憶はありますが」
「……俺が戦ったようなスラグ娘だって無機物に自我が宿ったってタイプの魔物だろ? なら自然と杖に意思が芽生えるってこともあるんじゃないのか」
「ゴースト種は文字通りに何かしらの霊魂が根幹を成して魔素を寄り集める事で発生する魔物に過ぎません。この杖に意思があるというならどこぞの人間とかの魂が取り憑いて魔物化していると見るのが妥当ですが……」
半分は灰となって消えてしまった俺の杖を手に取って観察するプロメスティンだが、様子を見るにどうもそういう兆候がある訳じゃなさそうだ。俺も縁のある奴が最近になって死んだとかの身に覚えなんて無いしな……
「まあ実際に杖が変化してるか、ってのは今はいいよ。でも俺がその時に聞いた声はもう収まったはずなんだ。それが今になってまた同じような……いや、あれとは違う声だとは思うんだが……」
「それが貴方にだけ聴こえているらしい、というのも変な話ですね。修行中の身、ましてや人間……知識や魔法的素養において私が持っていないものを——失礼ながら事実として——貴方が持っているとは到底思えないのですが」
「それは俺も同感だけど……」
プロメスティンに無く、強いて言えば恐らく大抵の人間にも無くて、だけど俺にはある。その何かが”声”の聞こえる聴こえないを分けているんだろうとは思うが、差し当たって思い浮かぶような事はとりあえず無いな。
だけど敢えてこう思おう。確かに今の魔導科学で説明がつかない事かもしれないが——俺が今日まで大切にしていた杖には、確かに魂が宿っていた。壊れてから気付いといて何だって話だけど、それはとても良い事なんじゃないだろうか。
「相変わらず肝心なところでフワっとしてるんですから……もっと緻密な検証と証明の精神を心掛けてください」
「そういうのは全身ズタボロで死にかけてる時にやるもんじゃねーよ……」
全く、何にせよ今はそれより気にする事が山積みだろうが。様子が普通じゃないマクニアの事もそうだし、ここでリタイアしちまった俺らのせいで生きて帰ってこれるか分からないエリックも心配だ。
結局はお前の肩に全部を預けちまったのが残念だが……頼むぞ、どうか無事に戻ってきてくれ。
◼️◼️◼️
「……終わった、のう」
最後の交錯の後、立っていたのは果たしてクィーンドラゴンの方だった。生命力の全てを捧げて今にも朽ち果てそうになりながら膝を突くエリックに対し、彼女は確かに自らの足で立っていた。だが……
(これを”勝った”と、言えるのかの)
折られた剣の柄を握り、近くの地面に吹き飛ばされて突き刺さった刀身の先を屈んで拾い上げながら考える。血液をどくどく溢れさせる首の傷からはハッキリと骨が露出していた。人間ならば明らかに致命傷と断言できる深手……だが、それでも、彼女にとって死に至るまでの傷には及ばなかったというだけの話。
魔物の生命力は桁外れ——それが神代に飛躍した竜の女王ともなれば尚更だった。
しかし同時にこんな想像をしてしまう。もし自分が彼と同じ人間で、同じ人間として生きてきた自分が彼と出会い、そしてまた同じように戦わねばならない運命にあったとしたら。
同族との戦いですら敗北を喫する事は無かった。何者にも勝ち続けてきた。それでも認めよう。この戦いに於いて自分は、負けた。
だがそれは——
自分が同じ人間に生まれていたならば、結果は何か違っていただろうか。
(人間、か……)
弱者たる
後悔などというくだらない感情を抱いた訳ではない。魔物としての覇道を限りなく極めた黄金色に輝く自らの生涯の足跡には深い満足を感じている。
だが、だからこそ。そんな自分が見落としている物があったとすれば、あるいはそこに答えがある。言葉には言い表せないその実感が心の中にただ浮かんだという、たったそれだけの事だった───
「最後に一つ、頼みがある」
「……聞こう」
敗者として当然の責務だと思った。何より彼女自身がそうしたいと思っていた。
果たしてエリックは女王と向き合い、彼の唯一の武器を差し出した。今の一合で
「これを、アンタに預ける」
「……光栄な事じゃが、受け取れはせんよ。それを遺すべき儂よりも相応しい相手は他にいる」
「オレは
「……やはり貴様は……いや」
何か探るような目をしたクィーンドラゴンは——しかし首を振り、もはや武器として振るには危うい程に損壊したその大刀を受け取る。
内部から焼き焦がされ罅割れた腕を震えながら手放すエリックに対し、二振りの破壊された武器を手にした竜の女王は改めて言い渡した。
「貴様の命は、此処で終わった」
「…………」
「同時、儂の役目も果たされた。因縁の全ては既に
そうして女王は去っていく。今度こそ戦いは終わりを告げたのだ。徐々に遠ざかっていく足音に目を閉じながら耳を傾けていたエリックは——やがて立ち上がり、ある場所へと向かって歩き出した。
残された時間を使い、最後にやらねばならない事がある。
話数と話の内容を言葉遊び的に掛けて密かに楽しんだりする系作者の私ですが、この44話目でエリックの最後の技が出ることになるとは今回の書き始めまで全く意識をしてなかったのでかなり驚きました。月並みな言い方ですが、ちょっとだけ運命を感じましたね…
【Tips】
エリックの技…Q.どうして相性最悪な竜族に炎技が普通に通ってるの?今更だけど。A.ぱらの設定ほど極端な無効耐性は持ってないイメージで書いているというのもありますが、エリックの技が軒並み属性耐性完全無視とかいう気の狂った性能をしているからです。
それは炎を現象としてそのまま出しているというより、より世界の深い場所に炎という記号を刻み込むような力の使い方をしているからです。例外は刻み込んだ場所から副次的に現象としての炎を吹き出すニ陽ぐらいでしょうか? アレは耐えようと思えば受け切れます。言うて邪神も殺せるだなんだと散々フカした誅参地も作中の通り格上には普通に完封されますけどね…ボスキャラには通用しないのが所詮は即死技というところか。
巨剣アレス…炎属性を一点特化した結果として概念系の能力に片足を突っ込んでいるエリックの技を真正面から受けて軌道をちょっぴりズラすぐらいの事ができる方が異常。聖魔融合を果たして神を超えた存在との戦いにも耐えうるスペックを持つ武具なだけはあります。
綺麗に真っ二つにされてしまいましたが、はてさてどうなります事やら。