涼しげな、淡い色彩が揺れていた。
記憶より
見慣れたヨロギ村の外れの風景だった。
『?』
そこに自分がぽつんと立っていることに、遅れて気がつく。
思い出の場所、と言えるほど印象深い場所でもないが……ずっと昔、ここで村のみんなに隠れながら手をボロボロにして火起こしの練習をしていたことを覚えている。
ヒトに火を教えた男、”東方の賢者”──その物語の
つらい日々だったが、今や悪夢の記憶ではない。男には希望があったからだ。
この遠い過去の記憶が褪せて見えるほど、この世界は
『……♪〜…………』
『ん……』
見慣れた景色に鼻歌の音がじわりと広がる。……鼻歌?
夢に出てくるにしては聞き覚えのない声だ。
誰だろう。姿が見えない。
いや、違う。
少しずつ、少しずつだが焦点が合う……
『誰だ?』
『おわわっ!』
驚いたようにぴょんと跳ねるその姿はいまいち霞掛かったようで認識しづらい。
ずっと目の前に立っていた俺に声を掛けられたことの何が驚きだったのか、その……とにかくそれは不思議そうに首を傾げていた。
『いやはや……そちら側から観測できるようにまでなってるなんてね。予想外に馴染んできちゃったってところかなぁ』
『?』
『でも、ここにはボクの出番は無いんだよね。まあ何はともあれ、全部忘れてお休みよ』
そう言ったそれがひょいっと飛び跳ねてくるりと回れば、景色が揺らめき、遠くなる。
しかし一体なんだったのか。
俺の目からはとりあえず”そう”と漠然に認識することしかできなかったのだが。
あの……
◼️◼️◼️
「?」
なんだ? なんか夢を見ていた気がするんだが。
まあいいか。忘れちまった。
「……ふわ〜あ」
それより確か今日はプロメスティンが天界の方に戻ってる日だし、こっちはこっちで仕事の話を進めておかないとな。
ボリボリと頭をかいて、外に出る支度をしようと体を起こし。
「あーあ、
俺はまたひとつ欠伸をした。
「こ、これは賢者様。こちらまで来られるのは珍しいですね!」
「こちらの温葡萄酒でも包みましょうか、何もなくて恐縮ですが……」
……わいわいがやがや、犬も歩けばってのはこの事か?
つくづく人目を引く立場になっちまったことを実感しつつ騒がしくも平和な市場通りをどうにか通り抜ける。皆になるべく愛想良く手を振り返しながら、俺は古い石壁を積んで立てられた高台へとまっすぐ歩いていった。
道すがら誰かに言われてた通り、俺がここまで降りてくることは割と珍しい。
最近はもっぱらプロメスティンと二人きりで色々とやってる時間が多くなってきたからな……ああ、今日は人に会いに来たんだ。それも俺にとってあんまり会いたくない部類の人にだ。
「
真っ黒くて折れ曲がった老木で建てられた、ひょろ長い魔女の小屋みたいな建物の門戸を叩く。今日ここにやってきたのは他でもない、いよいよ本格的にイリアス教へと関わる足掛かりを作るためだ。
前提として、是非にと請われた
俺の得てきた立場や実績、崇拝や敬意、もっと言えば信仰の一種にもなるのかな……そういった暗黙のものの元に個人的な頼み事の範疇で大抵の事をさせられるというだけだ。
近頃の日々の糧は専らここから得ているし、ロンやフウに何かと用立ててもらう時なんかも俺はこういう力を使ってるわけだな。
だが多くの人を不意に纏め上げる事ができるほど影響力を持っているって訳じゃない。今までそんな物は大して必要なかったってのもあるし、その立ち位置から他ならぬ俺が逃げていたってのもある。
そのため、俺は昔から何かをするにつけてこの人を訪ねる事になっていた。
「ふぉれは賢者様。またこの老体に、にゃにか御用でありまひょうか」
ぎりぎりと軋む扉がゆっくりと開かれる。
背の低い、というより巨大な手のひらで縦に潰されたようなちんまい体格の老婆が、落ち窪んだ目をぎょろつかせた。
白くてわちゃわちゃ伸びた髪に身長ほどある捻くれた杖——俺の背丈の半分もないぐらいだが——をついた、腰の曲がった皺々の婆さん。それが今のヨロギの実質的なまとめ役、ツァイペエ婆さんだ。
ちなみにフウのやつはこの人の実の孫であったりもする。その兼ね合いもあって俺はこの人を見る度くそ生意気に祖母の偉さを周りに振りかざしていた昔の「フウ様」を思い出して内心苦笑いをするのだが、あれも今となってはかわいい逸話だな。
「それとも何でありまひょうか。ようやく村長としてみなを導く決心でもつきなしゃったのでございまひょうか…… このあたくしの後をようやく継いで……ごほごほ」
「そいつは何度も言ってますが引き続き貴方に任さしてもらいます。今日来たのはいつもとはちょっと違う用事ですよ」
ざーとらしく咳払いしてチラリと俺を見上げる元気な婆さんの台詞をバッサリ切って話を進める。さっさと隠居しようったってそうは行かんからな。
ジトリとした視線のまま家の中に上げてくれるのに従って入り口をくぐり抜ける——いやぁ、ザ・魔女の家って感じ。目に痛い色の絵の具に塗られた内装や生木で組まれた家具は下手すりゃ本物の魔術師やってる俺ん家よりも『っぽい』雰囲気だ。
当然ながらツァイペエ婆さんは別に魔女でも何でもない。こういう場所に住んでいるのは単なる趣味、というか
んな事をしてどうすんだ? ……そう思うかもしれないが、こういう世界で意図して上に立つには『空気のまとい方』の巧拙すら馬鹿にはできないのだ。そういうことも今の俺には良く理解できる。
何に、あるいはどういう理屈に従えば良いかというのを本当によく理解している——言わば根っからの「政治屋」だな。
特に宗教が幅を利かせるような世界で優位に立てる側の人間だ。この婆さんがイリアス教の識者として凝り固めてくれた地盤には俺も居場所を作るのに随分と手を焼かされたものだが……
あれは俺がプロメスティンと初めて出会い火起こしの技を作り出してしばらく経った後の事だったろうか──この婆さんは俺の価値を誰よりも早く目ざとく見出し、俺を最初に認めてくれた大人の一人としてさりげなく振る舞うことで”賢者”登場以降の自分の立場を確かなものにしていたのだ。
いつから勘定を働かせてたのか知らんがふと気が付いたらすぐ背後に陣取られてたもんだから俺としても驚きだよ、いや本当に。
あらゆる意味で力が無かった当時の俺にとっては実際かなりの恩人であったりもするのだが……まあその辺りはいいだろう。肝心なのはこの人がヨロギの内政から他の集落との外交までを実質的に担ってくれている重要人物だってこと。
これからの活動で頼りにしていかざるを得ないだろう彼女の略歴について考えを纏めつつ——まずは前置きとしてちょっとした世間話ってか? まあいいだろう。
「こちらまで降りてこらへるとは珍しいでふな。ご両親には会っていかれまひたか?」
「あーはい……まあ寄っては来ましたよ、一応」
ちなみに今世の親はまだ生きてる。まあハッキリ言ってあまり仲良くはないが……と、奥に入って茶を淹れてくれる婆様に礼を言いつつ思う。
これは俺の方の問題でもあるんだろう。前世の記憶があるだけに今の両親が本当の親だとはやはり心から思えないのだ。あちらにもそういう俺の微妙な機微が肌で伝わるらしい……俺が単なる村のお荷物だった頃よりは関係も悪くないとはいえ、実際のところ今でもかなり他人行儀な感じが残っている。
きっとこのまま本当の意味で彼らと分かり合うことはないんだろうなと、俺は何となくそう思っている。
「ご家族とは相変わらず、でございまふか……困りましゅな。上に立つものが情の深いところを見せてくださりゃねば皆も安心できぬというものでふぞ」
「……また含みのある言い方じゃないですか。何か言いたい事でも?」
「分かっておられるでひょうに……」
呆れた調子を隠そうともしない老婆の声を、前に出されたやたら甘ったるい黄茶を口に含みながら軽く聞き流していると。
「えー加減に女を娶って子を作りなさいというのれす。そういう年齢はとっくに過ぎておられまふぞ」
「ぶふっ!!」
「特に賢者様がいま同棲してなしゃる……よそ者のジェーン殿でひたかな? あの方とのふしだらな噂はまったく耳に入ってくる限りでも……聞くに堪えませんですじゃ。あたくしの宛てがう女衆を袖にするのは構いませんが、そえならそえなりに身を固めるというのも考えてくださりゃねば……」
ま、待て。なんでそんな事が噂になってる。確かに誰かと一緒に住んでること自体を隠し通せるほど世を捨てて生きてるわけじゃないが、だからって藪から棒にそんな話が立つわけが……まさかロンとフウのやつ……
「あの二人は何も喋ってましぇんぞ。ただあの小屋を頻繁に訪ねる彼らに貴方がたの関係を少し問い詰めると途端に、フウめが酷く赤面して動揺を晒したもので。そぃで「ああ」と皆が察しただけですじゃ」
「ぐぐ、あいつ……」
「その様子ですと噂もあにゃがち間違っておらんようでしゅな……」
確かに俺も羽目を外しすぎてた所はあったよ。一番最初のアレは不可抗力としても、ちょっとムラついて昼間にプロメスティンとベロキスしてたところを偶然来てたフウに一回がっつり目撃された時なんかは流石に本気で反省した。
最近ちょっと性生活が乱れすぎてタガが緩んできてる自覚はあるのだ。あるが……
何とも居た堪れない空気が充満する。こんな痛いところを突かれるためにわざわざ山を降りてきたわけじゃないんだよ俺は、ちくしょう。
「賢者様、我らは……」
「うっ」
巨大な座布団の上に正座で茶を啜っていた婆様は、何かこれを言うまいかと迷うような素振りを見せる。
まずいな、こういう時この人は決まって俺が言ってほしくないことを言うんだ。
「……我らは、貴方様が、我々に下賜なされる尋常の智見に止まりゃず、魔物の
ツァイペエ婆さんはそんなことを唐突に、しかし俺の前で真っ直ぐと目を見据えてずばり言い放った。
「不安、が強まっているようでしゅな」
「……どういう事です?」
「我らの指導者たりえる貴方様が……我々の暮らしをここまれ豊かにし、今やイリアス様の教えに並ぶ支えとなってくださった貴方様が——心の底では我らのことにゃど歯牙にもかけず」
己が野心の踏み台程度としか思っておらぬのではにゃかろうか、と云う事です。
そんな、何らの忌憚もなく、ともすれば不躾とも取れるような諌言を俺は即座に否定できなかった。
そうだ。今まで俺がヨロギ村のためにやってきた事なんて一つとして無い。確かに皆を良く導くことができれば俺も嬉しいが、それはあくまで”皆”の中に含まれている一民衆としての俺自身の暮らしを良くすることができた
俺なんかを支えにしてくれる人達も、そうさせた責任も、何もかもに向き合うことをせず目的と信念のために消費して進み続けるそのエゴを俺は確かに自覚していたから。
(やっぱ苦手だ……この人……)
怖いとか憎たらしいとか、そういうレベルではないものの、苦手。そういう相手って誰にでもいるだろ? 今の俺にとっては婆様がまさにそれだ。
「ま……待ってください、まだ俺の要件を言ってないです。諫言は有り難く受け取っておきますが続きはまたの機会って事で勘弁してくれませんか……」
「婆は悲しゅうごじゃいますぞ、まったく話を逸らしゅ腕前ばかり達者になられてまあ——」
こんな背を見て育ったからフウも隙あらば嫌味ばっか言うような子になっちゃったんじゃないのとか思いつつ、俺はなるべく早いところ本題に移ろうと試みるのであった。
「ふむ。今更になってどうゆう風の吹き回しかは存じましぇんが……イリアス様の神聖なる教えについていま一度学び直ひたいと、そう仰るので?」
「正確には『どうすればイリアス教の枠組みの中で成り上がれるか』です。こればかりは貴方を置いて他に相談するなんて手は無い」
婆様は明け透けすぎる俺のセリフに眉を顰めつつ顎に指を当てて考え込む……余計な部分は聞かなかったフリをしてだ。こいつの扱いにはもう慣れたと言われてるような気分だな。
「失礼、例のジェーン殿は優秀な神学者でもあるとのことでひたな。ならばこの老婆が出しゃばって教えを教授することもありまふまい……はてしゃて」
「この件に関してはいくら時間を掛けても構いません。印象としては——
「やぶからぼうに難題を仰る……」
「とんでもありません、信頼の裏返しです」
正直俺も凄いことを言ってる自覚はあるが、これぐらいのことができなきゃ女神イリアスになんて擦り寄ることさえ無理だろう。ドウェルガで観測できたあの顛末を
そこから俺は具体的な事業の内容を詰めるために婆様と協議し、色々な案を出し合った。家の奥から雑多な書類を引っ張り出しては雑多に並べてあーでもないこーでもないと二人で話し合う、傍目に見れば楽しそうに見えるかもしれないが俺としちゃ仕事のつもりでやってるので別に楽しくはないアレコレを必死こいて難航させている時に、だ。
「賢者さま、賢者さま! こちらにいらっしゃいますか!」
「や、やめなよロン! そんなの後でいいったら!」
「あん?」
聞き慣れた声が外に聞こえた。かと思えばドンドンと戸を叩く音がし、いつもの二人組がいつものように俺の目撃情報を聞きつけ押し掛けてきたのだと推測する。
とはいえ少し様子が変だ。いくらヤツらでも婆様の家まで無遠慮に突貫してくるとは思えんし……それに何より、やけに弾んだ雰囲気なロンの声からどうやら普段とは制止に回る側が逆になっているらしいと見える。強気なフウに振り回されてる光景はよく見かけるが、このパターンはかなり珍しいな。
まあ、そんなに慕ってくれるのは嬉しいんだが生憎今は大事な話の最中だ。さっさと帰らせよう——と常識的な対応を試みるべく重い腰を上げた直後、婆様が盛大に溜め息を吐きながら、俺に向かって首を横に振った。
「いえ、よいでひょう。ちょうどあの二人にも話を聞きたかったところでしゅ。我々の今の技術で何が出来るか、あるいは何が出来ないか。それをあたくしや、ともすれば貴方様以上に知るとしゅれば
「しかし……」
「それにまあ……ロンめも、自分の口で早う貴方様のお耳に入れたいと常々申していた事があるのでしゅよ」
「?」
「まったく危ないのう……うっかり貴方さまとの世間話に出しては恨まれるところでひたぞ。ほれ、入ってきなしゃい!」
つんのめるようにバタバタと音を立てて転がり込んできたメカクレの青年と、それを呆れたように後ろから眺めつつもどこか落ち着かない様子でそわそわしている三つ編み少女が目に入る。
「まったく何があったか知らないが……甘やかし過ぎたか? 特にお前なんてもっと手のかからない子だと思ってたぞ、ロン」
「なんの目線でものを言っとるんでしゅか、それは」
割と本音の混じった軽口を婆様のツッコミが中和したところで、俺は改めて問い掛けた。
「ちょっとぶりだな。ああ、直してもらった
胸元につけた革製のホルスターを親指で差す。正確にはその中に収められた杖をだ。
ゴルドの火山で真っ二つになった魔法の杖は他でもないロンに新調してもらったわけだが、これが驚くほど使い勝手がいい。
苦労の甲斐あって使えるようになった短杖は今までよりずっと気軽に取り回せるわけだが、それにしたって俺がプロメスティンと意見を出し合って好き勝手引いたシチ面倒くさい図面に指示通り正確に作り直してくれたからこそだ。もうロンの腕前は完璧と言っていいぐらいであり、そんなもんをここまで慌てて確認しにくる必要なんてのはハッキリ言ってまったく無い。お前より下手くそな師匠の俺が気まずく思えちまうぐらいだぞ。
「あ、いっ……いえ、ありがとうございます。でもそういう訳じゃなくって」
「だから良いって、お婆様もいらっしゃるのに邪魔しちゃ悪いっしょ……もう行こ……」
何だよらしくないな。一昔前のロンがいじいじしてるならともかくお前の方がそんなにまごついてる所なんてたまにしか見れないぞ、一体何がそんな
「僕ら結婚する事になったんです! 最初に賢者さまに伝えるのは直接がいいって、それで!」
えっ。
「あ、ああ。うん」
「えへへ……」
「……… ……へ、へぇ〜? あ、そう成程ね……」
「…………?」
「「……………………」」
えっ?