前章もいい加減に締め括りを見据えていきたい。
彼と過ごす私の好奇と安穏に満ちた日々は、瞬く一閃の矢のように過ぎていった。
ついに神へと阿る覚悟を決めた”賢者”は、イリアス様の栄光を証明すべく数々の驚くべき業績を
ヨハネス歴669年、山麓の王族ノアとの同盟を築き、高地に住まうヨロギの民は豊かで広大な土地と労働力の利権を獲得する。
かの血族に秘められた歴史と力について私が彼に語り聞かせた所から話が始まり──私の思惑通りに知的好奇心を満たすような”機会”は結局訪れなかったが──ともかく彼は、あくまでも対等な交渉相手としてあの人間の王の前に立った。
同上676年、長年をかけた談合から二十六の部落と八十七の一族の統合を実現させた後、聖地イリアに高度な共同体を築き、象徴となる聖堂の建設を推し進める。
彼の持ちうる知識と力、その限りを尽くして一つの”国家”を作り上げたわけだ……まあ少なくとも、その原型をと言った所か。魔物の流入を阻む地形や立地に基づく聖なる恩寵などを理詰めで解析する作業には私も駆り出されたが、ま、なかなか面白い仕事ではあった。戦いや掃討の手伝いに関しては陰ながらでも当分御免被りたいが。
とはいえ新しい保管庫や拠点、
現地の人間との出会いや協力、そして幸運に恵まれた旅だった……とは彼の口から出た言葉だ。私は我々の能力こそが結果に反映した割合をそこまで低く見積もる気にはなれない。
同上678年、南の大陸への航海を実現する港町の建設も計画されつつある。
この大陸の伝承にもイリアス様が地上へ最初に降り立った場所の逸話は伝わっている。言わば”最も聖なる地”──楽園だ。事実、魔物の少なさだけ見ればそう間違った風聞でもないだろう。といっても今のところはまだまだ絵空事……大人数で海を渡る手段を用意するとなれば今の私たちでも少々手に余る課題だった。
それにしても、彼の地では何やら「勇者」なる英雄まがいの存在をあの御方が熱心に作ってお遊びになられているらしい、ということを話しておくべきかはどうも迷う。あの計画がこちらの大陸にまで雪崩れ込んできて何か良いことはあるのだろうか……
ともあれ、ここに来て大体のことは上手く行っている。
その姿勢と行動は目前の日々をただ生きるだけだった全ての人間達の心に活力を注ぎ、より善い明日を生きるための標となりつつある。
長い間……そう、今にして思えば長い間、私は彼のそばでその歩みを見守ってきた。私達の青春、あの修行の旅が終わりを迎えた後。それからも。
結果、彼の人々を導く力は彼自身が認識している以上に深いものだということを理解することができた。
ただ……
…………。
いや、このぐらいにしておこう。
彼と話す時間なら久方ぶりに取り付けられた。言いたいことなら、本人に直接言えばいい。
◼️◼️◼️
──清浄なる空気に満たされた天上の世界。
この世界のいかなる物質であろうとも触れ得ぬ聖素に構築された不可侵の領域、数々の天使が住まう女神の美しき箱庭、天界。
一国の境土さえ比較にもならないほど広大な領域のある一角にそびえ立つ尖塔の奥、とある大天使が管轄する執務室での事だ。
「さすが、良い仕事をしますねプロメスティン。前の部署で貴女の面倒を見ていたヘルメスも鼻が高いと常々自慢をしてくるのですよ」
「お褒めに預かり光栄です……それで、例の件についてなのですが」
現在の地上監視任務における直属の上司アテナといつも通り中身の無い間を持たせるだけの遣り取りを済ませたプロメスティンは、本題とばかりにある男についての話を切り出した。
「はい? ……ああ、また”賢者”の事ですか。近頃の活躍は音に聞いていますよ、全く感心な事ですね」
天界の住人にありがちな、所定の行動ルーチンから外れた問答が飛んできた際に要する数瞬の読み込み時間を経たアテナは執務用の羽根ペンをインク壺に差しながらうんうんと柔和に頷いた。
「先日出席された高位天使の評議会でイリアス様への御目通りが叶われる予定だったという話ですが……その、お願い申し上げていた事は」
「ええ、きちんと貴女の推し進めている事柄について上申して差し上げましたよ。何しろ……九位の
所詮八位の
そもそも天界において八位以上の位階に座する天使というものは構成比にして全体の僅か一割程度にしか満たず、その力も熾天使や智天使クラスを除けば意外と近いところで団子になっていたりする。
それこそ”その他大勢”の九位から抜きん出ている実力の証左である大天使という階級は、至高の女神イリアスとすら直接の対話の機会を与えられる極めて限られた存在なのである。
だからまあ、故に、このアテナという大天使はそれらの様子を窺い知るための大事なパイプとしてさりげなくプロメスティンに利用されているわけなのだが。
「イリアス様はいと慈愛の深い微笑みを湛えられ”賢者”を筆頭とした人間たちの献身を労う言葉を口にされていましたよ。後の評議会でもですね、そのイリアス様の発言を聞いていた他地区管轄の連中が浮かべる出し抜かれたような表情といったらもう私としても気味が良いやら鼻が高いやらで……」
“部下の功績をまるで自分のことのように喜ぶ上司”というフレーズが悪い意味で使われることってあるんだな、などと思いつつもプロメスティンは内心でそっと胸を撫で下ろした。
大丈夫だ、今のところは。自分たちはどうやら”正解”をひとまず選べている。
今はまだ二人の胸の中だけの内緒事。けれど確かにそこにある──ささやかで愛しく美しい、小さな小さな悪逆の芽。
自分にできる事はせいぜい簡単に摘み取られないよう足掻くことだ。いつか彼が言ったように「世界をひっくり返してやる」その時まで……と。
「他に何か? 評議会の方に目立った案件などは見られましたか?」
「ふふふ、流石のプロメスティンといえども中央の政務には興味がお有りの様ですね。少しは野心というものを持っていたようで寧ろほっとしましたよ」
「アテナ様」
「おっと失礼──まあ軽々しく口にできない事案も少々ありますが、この私の優秀な部下である貴女には先立って教えてあげるくらい構わないでしょう。しかし変わったことですか、そうですね。はて……直近で言えば忌々しいドワーフ集落の浄滅へ
「…………」
「智天使が地上に降臨されるとは極めて稀な事ですけども頭数と規模だけはあるあの鉄の部落を速やかに消すとなるとあの方以外では難しいでしょうしね……あっそうそう! 聞いてくださいよ私ったらこんなに凄いことを言いそびれようとしていただなんて、それというのも……」
根掘り葉掘り聞こうとしておいてあれだが、プロメスティンはこの上司から聞ける情報にさしたる期待を抱いてはいない。
変化が無さすぎて聞いたような話しかしないというのもあるが、そもそも今この場で自然な感じを装って不意に引き出せる範囲の情報などたかが知れ、精々が手前のくだらない自慢話か身の上話に終わるのであろうという事をここ数年の下働きでいやと言うほど経験していたからだ──……
「ふらっと呼び出されて
「えっ」
「何だかよく分かりませんが
「ヒュッ……」
熾天使? この天軍における最高位、下級の木っ端天使からすれば想像すらできないような上位存在から個人的な興味を持たれている??
そんな爆弾を心の準備ができてない状態で落とされただけでも勘弁してほしいのに、こんな、こんな部下が何をやっているかもよく分かっていないような無能上司がこちらにとっての生命線たる計画についてあることないことを世間話みたいにベラベラと??
一気に心臓が早鐘を打つ。予定していたことをそのまま喋ってもらうだけならイリアス相手でも何とか耐えられたが、これは……想定していないケース過ぎてどう受け止めればいいものかプロメスティンは全く分からなくなっていた。
(おおお落ち着きましょう、何か嗅ぎ付けられて悪印象を持たれてるとかでもなければどうとでもなります。まずは順を追って何があったかの把握から)
「あ、あのぅ……それはやはり軍団長閣下にですか? 何か見咎められたという事なのでしょうか」
不自然に思われないよう内心の焦りの何分の一かを適度に滲ませて愛想笑いとブレンドした微妙な表情でアテナに尋ねるも──何故か返ってきたのは、沈黙だった。
「…………」
(くっ、な、何なんですかその無言はァ〜〜ッ!)
「あ、あの……?」
「いえ、それが何と言ったら良いのでしょうか……私としてもこうした事に関心を持たれる方だとは意外に思えたのですが……ミカエラ様ではありません。片割れの御方が、ですね」
「え、あ、”明けの明星”が……?」
意外な名前が出てきたなぁとプロメスティンは思った。厳格であると噂の他二名になら下界への越境を嗅ぎ付けられたとか地上関連の大規模計画に普通に興味を持たれたとかの理由が付くが、原初の天使の妹の方となったら心当たりが無いにも程がある。
なにせ最近の若い天使にとっては”明けの明星”というと、大戦での狂悪なまでの逸話や武勲ばかりを耳にすれどもあまり見かけもしないし何を考えておられるのか良く分からない結構な謎の人、というイメージであったからだ。一体どういう訳なのか……
「はぁ……はい、ええ、なるほど……」
その後具体的に何を喋ったのかと念入りに聞き込んだ結果、どうやらこの大天使は案外大したことを言ってないようだという事がわかった。
口ぶりからしてどうも「部下の計画についてあまりにも何となくでしか把握していなかったために熾天使の前で迂闊なことも言えず曖昧にはぐらかすことしかできなかった」というのが真相らしい。それを当の部下本人に説明するにあたっては澄ました顔で言葉を連ねてみっともなさを取り繕おうとしていた様だが、結論から述べると特に意味は無かった。
(何なんですかもう、いったい……)
ともかく熾天使の件は気になるが、此方からでは度を越した階級の差から拝謁の機会すら望めぬ現状、さしあたり後へと回す事にした。
それよりも先にプロメスティンには──前々から懸案していた
「……それでは、例の『宣託』計画については予定に違わず今回の評議で正式に裁可されたと?」
「む……ああアレですね、はいはい」
言うが早いか金鎖の装飾が施された老眼鏡を装着して分厚い議事録をペラペラと捲り出した上司に、ウソだろという視線を注ぐプロメスティン。自分にとっては今後の計画をかなり左右する重要な事項について聞いたつもりが……いちいち確認しないと覚えてすらいられていないとは、本当にこの人について行って大丈夫なんだろうか。
仕方がないので少し待っていると──大して頭を使っていないにも関わらず基本的な処理能力は高いらしいのが生物としての不条理さを感じさせる──案外早く答えが返ってきた。
「ちょっと待ってください……あっそうでしたね、そのようです。私に対抗しているつもりらしいあの小癪な点取り虫の
「そう、ですか。通りましたか」
「とはいえ所詮は無茶な横槍。人選など要所の決定権はもぎ取りましたし大した邪魔にもならないでしょう……そういえば貴女は少し前からこれについて随分と気にしていたようですが、どうかしましたか?」
託宣──言ってしまえば、いよいよ”賢者”のイリアス教圏における利用価値を認めた天界が件の男との直接的な接触に移り、その行動を都合のいい形でコントロールしてしまおうとしているわけだ。
ひとまず代表の下級天使か何かを秘密裏に送り付けて天界の明確な意思を伝える事とし、こちらで考えたイリアス教の利益となる活動を実行せよとの指令をじゃんじゃん出して様子を見てみよう……と、まあ簡潔に纏めればそういう事である。
(意図せず生えてきた話とはいえこれも”私たち”が描いていた絵図の通りの既定ルート。どういう形であっても天界と彼の表向きの繋がりをまず作ることは必須で、それは願ったりの話ではある)
そう、理想の展開ではある。
しかしそれは、ある一つの前提を除いての話だ。
「あの……実は相談なのですが」
その『前提』を胸に、プロメスティンは──ある種の”諦め”を抱きながら続ける。
「なんでしょう」
「そちらの話をどうにかして先送りにすることは可能でしょうか?」
アテナはゆっくりと眼鏡を外し、皺を寄せた眉間を指で抑える仕草をした。
まるで信用していた部下の口からそんな台詞を聞くとは思わなかったとでもいうような心情を滲ませた溜め息を深く吐き、出来の悪い小娘に道理を説くようにこう語った。
「言っておきますが、あの場にはイリアス様も居られました」
「…………はい」
「分かりますか? 理解は出来ていますか? よって先日決定したものが覆ることは決して無いという事です。なぜなら神とは……間違えない」
全くもって、予想していた通りの答えだ。
ああ、前もって想定していた答えとそのまま何一つとして変わらない口振りだ。つまり彼女は何も本気で、今しがた口にしたことが通るなどとは微塵も思っていない。
であると同時に、言わずにはいられないと思った理由もまた本心から。
「改めて訊きます。何故そのような事を?」
「これは……これは、あくまで私が地上の”賢者”を観察して出した結論に過ぎないのですが」
それを言ったところで結局のところ、何も変わりはしないのだろう。そう分かっていても。
分かっていても、それでも彼女は縋るような気持ちで口にした。
「明らかに、あの男は身体に変調を
◼️◼️◼️
地上、ヨロギ村。賢者の住処。
深夜、本邸の離れに建てられた木造小屋。ランプが灯すオレンジ色の明かりに照らされた室内で黙々と筆を走らせる男。
壁を覆い尽くすばかりの書棚には夥しい量の書冊が納められている。全ては、男がたった一人で書き出したものだ。
【裁判を行う専門機関の設置】
【分業による生産効率上昇の理論について】
【禁書:内燃機関 構想】
【禁書:大規模事業に付随するであろうリスク分散を根底に据えた概念 投資 金利 株式 仮称】
【禁書:大量破壊兵器-無限の炎 人類が向き合う道 抑止力による平和 遥かな未来 仮想】
書き出す。まるで取り憑かれたかのように。自らの頭の中だけにあるもの、いずれは消えて失せるだけの儚いもの。書き出す。今の世に到底必要の無いものすらも禁書として、必要とされるであろう時をただ思い。
いまだに若く健在ではある、しかし確かな労苦と歳月の刻まれた顔付き。荒れた唇の端からは──
「……けほっ」
僅かな赤い血の筋が、静かに流れていった。