賢者様? ああ、姿を見せられなくなったみたいだってのは不安だよなぁ。俺たちが子供の頃はこんな良い暮らしをできなかったし、いつも魔物に怯えていたよ。
この国の土地じゃずっと弱い魔物しか見なくなった。まるで伝説に聞く南の大陸に住んでいるみたいだ。それだけに、今まで導いてくださった賢者様がいなくなられたのは残念さ。
実は私、賢者様が失踪したって話が噂になってからあの方をこの国で一度だけ遠目に見かけたことがあるのよ。といっても、真夜中のことで暗かったから自信は無いけど……
あそこに見える高台の上で、車椅子に座っていられるように見えたわ。何か月も前のことだから今はどうされてるのか知らないけど、存命でいらっしゃるのは確かなんじゃないかしら。
あはは、待ってよー!
待たないよ〜!
うふふ、はしゃぎすぎると危ないわよ……
うちの子、たまに一人で誰かと遊んでるように見えてちょっと怖いわ……”お姉さんが見ててくれてるから大丈夫”って言ってるけど、誰なの……?
モイセス大司教こそが次代のイリアス教を担うお方じゃ! 行き詰まっていたワシの息子の商売も、あの方が手紙で送ってくださった神託のおかげで軌道に乗り始めたんじゃ!
立派に働いてこの国の人々に貢献しておる自慢の息子ともども、新たな導き手たるモイセス大司教のことを支持しておるよ。
…………
このサン・イリアでの聞き込みを続けて二日ほど経った。情報の出どころが一つだけ──それも、よりにもよってあの全くふざけた幽霊──というのが心許なく感じたケイローネはやむなく住人への協力を求めることにしたのだ。
結果、あの残念な幽霊の言っていたことはそう間違ってはいなかったという事が分かった。存外その能力だけは確かなのかもしれないと思いつつ……ならばこちらの依頼も十分にこなしてくれるだろう、というぐらいの信用は得ることができた。
「よし、では行くか……」
であるならこの国で果たすべき目標は決まった。本来の賢者を助ける行いは今のイリアス教にとって正しい行いであるはず、躊躇う必要はどこにもない。
黒い噂を抱える大司教の秘密を探り、賢者の行き先を現地の協力者に調査させるべく。モイセス2世の居住地である邸宅に足を運ぶのだった。
そこは、まさしく彼の威厳と虚飾を象徴するかのような白を基調とした壮麗な造りであった。
訪れた者の目をまず引く純白の大理石で築かれた門は、表面にイリアス教の象徴である聖なる紋様が彫り込まれている。だが、よく見ればその細やかな彫刻には金箔が贅沢に塗り込められ、信仰よりも権勢を誇示するためのものとすぐに分かる。門の頂には天使をかたどった石像が並ぶが、その顔はどこか冷たく、訪れる者を睨みつけるかのようだ。
邸内に足を踏み入れれば、そこには白亜の敷石が敷き詰められた広大な中庭が広がっている。
そして邸宅そのものは、白漆喰の壁に覆われた壮麗な館である。しかしその窓は高さこそあるが狭く、人々が中の様子を伺うことはできない。まるで聖なる光を宿しているかのように見せかけながら、そこにはやはり何らかの意図が感じられるようだった。
「ふう、力加減はこんなものか……?」
「あぎっ!?」
とはいえ、そんな門とか庭とかの構造など関係ないのが天使という存在である。周りに誰の気配もないのを確認したら、あとは壁なり何なりすり抜けて、どうしても避けられない見張りがいたら絞め落とすだけだ。
戦士としての訓練を受けてきたケイローネは同じ下級天使でもあくまで文官でしかない敬愛する先輩などと比べてもより腕が立ち、そして鋭敏な感覚を備えている。所詮は人間が寄り集まった程度の警備は、遥かに優れた肉体を持つ天使の前にさしたる意味を持たなかった。邸宅の中心までの侵入はスムーズに進んでいった。
「むっ」
「!? な、なんだ、女……!? 侵にゅうし、グハッ!?」
咄嗟に鉢合わせてしまい不意打ちができずとも問題ない。懐に素早く潜り込み、たった一発の拳を急所にめり込ませて瞬時に引く。それだけで近衛か何かであろう髭面の大男は崩れ落ちてピクピクと震えるだけになる。
かろうじて意識は残っているらしい男の髪を掴み起こして、ひとまずケイローネは尋問をすることにした。
「モイセスの自室はどこだ? 重要書類や、怪しげな宝物か何かを置いてるであろう場所でもいいぞ」
「あ、あ……」
呻き声をあげながら恐怖に引きつった顔をする男は廊下の奥のある方向を指で示してきた。かなりあっさりと白状するその様子に部下からの忠誠の無さを感じて呆れながら、一見するとただの少女にしか見えない何かはいとも簡単そうに大男の首をきゅっと両手で絞めて眠らせた。ぐったりした体は例によって適当な物陰に押し込めておけばひとまず騒ぎになるまい、と。
(にしても、簡単に吐いてくれて助かったな。手間取るようなら拷問訓練で習った通り性的な虐待で喋らせようと思ってたのだが、私はあれの成績があまり良くなかったからな)
そして男が指していた方向を見やる。そこには確かに部屋というか、広間への入り口のようなものが見えていた。扉は最初からなく開放されているようで中が見えるが、かなりの幅の階段が奥に向かって真っ直ぐ伸びている事しかここからでは分からず、先の様子が窺えない。
入ってきた者の視線を否が応でも上に向けさせる造りからして、モイセスが来訪者を王様のごとく迎えるための間か何かだろうか。さしずめ上の方には客を見下ろせる玉座のような椅子でも
保管庫や自室のようには見えないし、まさに今そこに本人がいるという事なのだろうか。
流石にこれまでのようにサクサクと進み続けるわけにもいかず、慎重にゆっくり足を動かす。何をしているかの情報収集が優先のはずがいきなり本人とかち合ってしまうというのは少々都合がよろしくない。
目標は最悪殺してもいいと依頼人から言質を取っているものの、折角やるからには意にそぐう結果を出してみせたい。物音を立てないように入り口となるそこに近づいていくケイローネだが───
ぞぐっ、と。
ただその場所に近づいただけだというのに、例えるなら”瘴気”とすら言えるような冒涜的な気配が部屋の中から溢れていた。無論それは明確な感覚ではなく一般人にも理解できるような露骨極まるものでもなかったが、仮にも戦士である彼女の嗅覚には、ほんの一瞬でもそれを感じる余地があったのだ。
(な、っん……!?)
ただの人間しかいないはずの警備を抜けてきたケイローネは、それ以上でも以下でもないという泥濘のような認識から飛び起きなくてはならなかった。天使である自分を害し得るかなど関係ない恐怖──そんなものがあるとは知らなかった。圧倒的な格上の強者の存在を確かに感じ取っていた。
必死に気配を殺して、入り口の脇の壁に背中を付けて張り付く。そこからは情けない人間の男の声だけが──いや、それに混じって確かに聞こえる。
腹を空かせた大型の獣が、喉を鳴らしているかのような異音が。
「どっ……どうかお許しください、助けてください……」
「ガルルル……」
何かの許しを乞うているらしい男のすぐ近くに、とてつもない至近距離で密着しているようにその唸り声が聞こえた。今すぐにでも男がバラバラに引き裂かれかねない剣呑な様子に、ケイローネは慎重に視線をずらして覗き見た。
そうしてギリギリ見えた男の顔── 白と金を基調に華美かつゆったりとした衣装に身を包む、でっぷり太った禿頭の男。その特徴的な外見は、あの廃屋で見せられた資料にあった通りの、モイセス2世に他ならなかった。
「助けて……」
それの首をがっしりと抑えて一寸たりとも動けないようにしているのは、少なくとも明らかに人間ではなかった。
全身を鱗に覆われた体躯。強靭な獣脚に備わる鋭い爪と両腕がわりの翼、人間部分も含めて普通の女性より一回りも二回りも大きく頑強なシルエット。
それは、竜種。それも相当強力な類の、凶悪な魔族の姿だ。しかも身に纏う冒涜的な気配、生気を全く感じぬ瞳──尋常の様子にすら明らかに見えなかった。
(何故だっ、何故こんな所にあんな……!?)
「わた、私はきちんと言われた通りにした。市井に出回るだけでは決して追いきれないような病の情報も、わ、私の権力をもって探させたし……お隠れになられたせいで、指を咥えて見ているしかなかった民衆の問題にも、私を通したからこそあなた様の言葉を届けられたっ。ち、違いますか……!」
そして視線は謎の魔族にびったりと釘付けになっている脂汗まみれのモイセスだが、その言葉はどうやら他に向けられているようだった。
階段の上にずらりとそびえる幾つもの柱、その陰に背を預け腕を組んでいるもう一人の男……ここからでは顔は見えないが、その男に対して言っているようだった。
「お前の父親は優秀だったな」
低く──抑えられた声はここからでは聞き取りづらいと感じるほどだったが、その冷静な口調の中には強烈なまでの意志と絶対さを秘めていた。
男の声の事を生まれて初めて恐ろしいと思った。自分でも気が付かないうちに、背筋がぞくぞくと震えてしまう。
「尊敬できる男だった……だが残念ながら息子を育てる才能は無かったらしい。気の毒に」
「う、あ……」
「確かに情報を集めろと言ったが、お前のやり方でどれだけの人間が不幸になった? そして誰が、俺の名前をあれほど醜く使って自分の権威に繋げていいと許可を出した? お前の事は若い時から知っているが、調子に乗りすぎる悪癖がどうやら行き着く所まで行ってしまったらしい」
「わたしは、どうなるんで……」
「俺がやる事は昔から何も変わらない。昔と違うのは……やるべき事を、終わらせられるようになったぐらいだ」
そうして一つ溜息を吐いた男は。
決定的な”処断”を下した。
「ちょうど手術の出来栄えを試したかったんだ。せめて最期は有効に使わせてもらう」
「ひ、ひッ」
「対象は目の前の男だ。開け。そして呑め」
「いっ……嫌だぁぁァァァァァァ!!」
陰から見ていたケイローネは目を疑った。
それがゴボゴボと覆い被さるようにモイセスの肉体を飲み込んでいき──ついには、元に戻った竜族の体に完全に包み込まれてしまった。
あまりの出来事に言葉を失うケイローネ。そうして幾らかの時を経て──がくっ、と柱の陰にいる男が膝から崩れ落ちた。
酷く痛むように頭を抑え、口の端からは血を流している。ケイローネは何が何だか分からなかった。ただ息をするのも忘れてその光景を見ていた。
「やっぱり……これほど近くでの『死』は、流石に
天使であるケイローネにはその感覚が伝わっていた。肉体が滅び、魂がその場から消え去る感覚。すなわち死の直感。
悍ましい気配の竜族を操る男は、その不浄なる暴力を用いてたった今までそこにいた人間を殺害してしまったのだ。
男が何か、細い棒状のものを振る。それは召喚術の類いか──突然に現れた棺の中に、ぐったりと活動を停止したらしい竜族が倒れ込むように入っていき、ばたりと蓋が閉じると同時にそれは霧散する。
「……こんな所で、立ち止まってはいられない」
息を乱しながら膝を突く男は、柱の『影』に身を置きながら。
ただ一言を呟いた。
「すべての、阻まれる者のために」
そうして、流れる沈黙。
やっと動くことを思い出したケイローネが、どうやら他に通路も無く、完全な行き止まりになっているらしき、その部屋の奥へ足を踏み入れることができたその時には。
誰かの姿は、形も残らずに消え去っていた。
◼️◼️◼️
「そう……そんな事が」
誰にも使われていない路地裏の廃屋。執務机の上に佇む足から先だけの残念な幽霊へと、ケイローネは事のあらましを語り終えた所だった。
モイセス大司教が殺されたこと、謎の異様な竜族のこと──それを従えていた”賢者”本人が、全てを裏で操っていたこと。
それを、それらの事実をどういう風に受け止めればいいのかケイローネには分からなかった。穢れのない故郷で真っ直ぐに育ってきた天使の少女の目からは、その男は、何か恐ろしい
魔の法に傾倒し、妖精という悪を許し、悍ましき気を放つ竜を使役し、その力を使って人間をも害する。
この旅を始める前に想像していたような、神の教えに殉じ人類の発展と信仰に寄与する敬虔な信徒というイメージは、その完璧な”賢者”像は脆くも崩れ去りつつあった。
しかし……
『賢者は、お前にとって大切な存在か?』
『もちろんです』
『純粋無垢な子供たちを無理やり追い出すのってやっぱり抵抗あったのかしらね?』
『俺が子供の頃はこんな良い暮らしをできなかったし、いつも魔物に怯えていたよ』
『指を咥えて見ているしかなかった民衆の問題にも、私を通したからこそあなた様の言葉を届けられたっ。ち、違いますか……!』
そして、何より───
『すべての、阻まれる者のために』
「…………」
「チクショウ……帰ってきてたってんならあんなブタの厄介になるんじゃなくアタシのことも頼りなさいよ」
相変わらず足だけの姿で執務机の上を行ったり来たりしている残念な幽霊。この話を聞いた中で、彼女が抱く今までの”賢者”像はどのような動きを見せたのか。
いや、そもそも彼女はあの男にどのような印象を抱いているのか。二人はどのような関係だったのか。それすらもケイローネには想像がつかなかった。
「まあ、あなたへの依頼だけど……モイセスが消えた話を真っ先に知れたってのは上々ね。そのいきさつも目撃者から直接聞けて、おまけにカレがこの国に帰ってきていたってのもビッグ・ニュース。用事を終えたんなら既に出立しているって言ってもあの人なら驚かないケドね……」
「……だが、結局のところ奴は自分で始末を付けた。依頼の件は達成できなくなってしまった」
「そうねえ。普通料金の情報なら等価交換ってことにしといてあげても良いんだけど。何しろ”あの人”に迷惑が行きそうな情報だと……今回仕事を依頼した経緯からすりゃ、ちと筋が通らんわナ」
行方を眩ましたがっている”賢者”の情報を差し出させるなら、せめて同程度の貢献を見せてみろ──それがこの幽霊にとっての筋の通し方だという話であれば、この課題の未達を他の情報で埋め合わせることは難しい。
思えばあの時、あの場で本人を確保することができれば良かった。体が動かなかったのは自分の未熟が招いた事に他ならない。あの袋小路でどうやって姿を消したのかは分からないが、あれほど近くまでに目標と接近したのは確かなのだから。あのような幸運は果たして今後訪れるのだろうか……
「よし」
「え……」
「今決めたわ。カレが『これからどこに行くのか』『消えてから今までどこを旅してきたのか』。二つに一つ、そのどちらかの情報だけ調べてあげる。今すぐに選びなさい」
次回で今の書き溜め分は最後です。
今後の詳細は次話で。