──清浄なる空気に満たされた天上の世界。
この世界のいかなる物質であろうとも触れ得ぬ聖素に構築された不可侵の領域、数々の天使が住まう女神の美しき箱庭、天界。
一国の境土さえ比較にもならないほど広大な領域のある一角にそびえ立つ尖塔の奥、とある大天使が管轄する執務室での事だ。
「ヘパイスティーネ様、ご機嫌麗しく存じます……」
「おお、プロメスティンか。さあ入りなさい」
といっても今回は現在の上司であるアテナではなく、その政敵たる大天使の部屋に訪れているのだった。
癖のある黄髪を肩口あたりまで伸ばし、王子様然とした整った顔立ちに不遜な表情を浮かべる長身の女。ゆったりとした天衣に身を包んでいなければすらりとしたスタイルの良さも露わになるであろう、同性にも憧れの感情をもって囁かれる対象の存在。それがヘパイスティーネだった。
「この情勢下でも其方の活躍の噂は途切れんよな。あの論文の出来は素晴らしいものだった。あんな女に預けておくには全く惜しい人材よ……」
「恐縮でございます」
論文になど一々目を通していないくせに、とは流石のプロメスティンも思わなかった。目を通していないのは事実だろう。が、この軽薄なんだか尊大なんだかもよく分からないだけの女にそもそも期待をしていない、というのが正確なところだ。
それでも、自分のような下位の存在に対して社交辞令を使う大天使というのは珍しいものだ。その事実だけは過不足なく理解し、そして警戒しておくべきだろう。
「それで何だったか? 用を聞かせてもらおうか」
「用件は二つございます。一つは、お手紙の方で存在を伺っておりました書籍について閲覧の許可を頂きたく……」
ヘパイスティーネが地上監視の指揮権に着手し始めたのは最近の事だ。
これはアテナへの対抗心から門外漢の分野に無理筋を通してまで手を広げた結果であって、つまり本来の職務は別にある。
それは──新型天使の設計、そして対応する生産型天使との連絡業務。
だから以前から手紙での交流を図っていた。とはいえあまり昔からの交流というわけではない。具体的には”彼”の状況がいよいよ芳しくないようだと考えなければならなくなった割と最近の辺りからだ。
そして、
今こうしている事それ自体が、上司であるアテナに知られるだけで極めて都合の悪い事実となる。
だがそのリスクを負ってでもプロメスティンはここで動いた。もはや時間が無かったからだ。
ヘパイスティーネは傲岸不遜を絵にしたような忌むべき人格を持つ者だが、しかしその知識だけは喉から手が出るほどに欲しかった。
人間の肉体を、作り変える秘術。
無論
ともすれば”五戒”の中で最も罪深い禁忌──神への叛逆とすら今や捉えられかねない行為。そのまま手を出すのは、二人の目的からして本末転倒の結果を招く事になるだろう。
だが、プロメスティンはそこから何かを見出せる可能性だけでも構わなかった。どんな僅かなヒントでも良い。どんな形であれ自分にとっての”知識”とは拠り所。
得られた知識の僅かでも現状を打破する役に立つのなら、どのような危険な橋を渡る覚悟もあった。
「……ふむ」
とは言っても、この大天使の人格に対するプロメスティンの読みが正しければ、政敵の部下の不祥事をあげつらうため早々に手を切られる、などという展開は最低でも避けられるはずだった。
意味深長な含み笑いを浮かべたヘパイスティーネは、鷹揚に頷きながら返答を放ってきた。
「つまり、
「……ええ、その通りです」
「ヘルメス、アテナと来て今度は私。乗り換えの早さには感心しないが、まあ、そこは大目に見てあげよう。情勢を見誤らない賢明さは評価できる。それに、この私の魅力に惹かれ忠誠を捧げたく思うのは何ら不思議な事でもなかろう?」
気分良さげにサッと前髪をかき上げたヘパイスティーネは、どうも自己愛の化身という一面を持っている。
敵を裏切って自陣に入り込んできた輩がまたしても自分を裏切るとは考えもしていない。いや、本来ならばそこまで簡単にいく相手ではない筈なのだが……入念な下調べのもと、含みある態度を見せ続け、そうなるように思考を誘導してきたプロメスティンの方が一枚上手だったということだ。
もちろん元鞘を離れるつもりも当分無い。今の立ち位置は立ち位置でまだ利用価値があるし、つまりは、親愛なる現上司との間で当面は蝙蝠生活を演じる事となる。
最終的な着地点すら未だ用意できていない急拵えかつ苦肉の策だが、自らの身を危険に晒してでもここは体を張ると決断した。ならば上手くやるしかないだろう。
「ふふふ、了承したぞ。我が管理下にある秘術の記されし書を後で見繕っておくとして……もう一つの用とは何だ?」
「はっ、それは……」
ここまでは順調だ。しかし次の『本命』がすんなりと受け入れられるかは分からない。内心をざわつかせながらも、プロメスティンは地に跪いての嘆願を放った。
「ヘパイスティーネ様、此度の『地上監視強化案』ですが……性急かつ過剰に過ぎるのではないか、と私には思えたのです。ヨロギ村の担当という要職を任される私としては直接の関係はございませんが、同じ現場の
言うまでもなく、これは”あの男”の潜伏を助けるための方便だ。
政敵の無能を晒し上げるために、このヘパイスティーネがようやく得られた指揮権を濫用して態勢の強化へ躍起になっているというのは周知の事実だ。ここを押さえる事さえできれば、自分達は今少しの時間の猶予を得ることができる。
彼と離れ離れの生活が始まってから、このような苦闘をプロメスティンはずっとずっと続けてきた。共に居られないのであればせめて、自分に出来る事を影からでも全うしようと。
本当に味方と思えるただ一人も存在しない天界で、孤独に。だがそれはあの男にとっても同じ事なのだ。互いの孤独が、互いを支える力となることもあるのだという事をプロメスティンは学んでいた。
「…………」
そして当然ながら──全ての試みが思い通りになったわけではない。もしそうならば彼が今頃、ここまで追い詰められる事態にはなっていない。
(うぐっ……)
一転して不機嫌そうに顔を歪め、虚空を見上げて顎を撫で始めたヘパイスティーネの言葉を待つ。いくら慎重に一手を進めても、一つ間違えば二歩も三歩も転げ出す。そういう所で彼女は戦い続けていた。
「私のやっている事に
「まさか、滅相もございません。お気に障られたのであれば取り消します。どうか、ご容赦を……」
「……ふん。まあ、あの堅物にそのような器用な真似はできぬか。だが……其方は
プロメスティンは跪きながら地面に向けた顔を思い切りしかめた。ヘパイスティーネの”問題”について噂には散々聞いていたが、まさか面と向かって説明される立場になるとは……
「知っての通り、私は非常に見目も麗しく、強大な存在であり、蔵する知識も多く、そして何より……女にもてる」
「はい……」
「この指を一つ鳴らせば、我が麗しき天の花々は何時だろうが何処であろうがこの両腕にその身を抱かせてくれる物よ。しかし……しかしだ! 事もあろうに、あのアテナ。何を考えているやも分からぬ、分不相応の、救えぬ大間抜けの気違いよッ!!
混じり気の無い、本物の憎しみを込めて。
有り体に言えば、この女は狂っている。
穏やかな愛情や、かつて求めた女を手に入れたい、などという感情は完全なる悪意にすり替わり既に微塵も残っていない。
そういう性格なのだ。
格下の
「フーッ、フーッ……ふー……」
(アテナ様なんてこの天界では常識寄りなのに、こんなのに逆恨みされるなんて私に言わせても哀れというか……何をしたらこんなに……)
過去に何があったのかを詳しく聞こうとは思えない。ただ一つだけ言えることがあるとすれば、進んで目を付けられに行くべきでは絶対にない人種である、という一点のみだ。
もっとも……この天界にあって『何よりも尊重されるべき我が尊厳』などという台詞を口走ってしまうようになっている時点で、その末路はおよそ知れているとプロメスティンは思うのだが。
「……ま……そういうわけだ。私の前で、あれに利するような発言は冗談でも慎むことだな」
「よ、よく分かりました……それでは失礼します」
どっかりと椅子にもたれ手団扇を扇ぐヘパイスティーネと極力目を合わせないようにしながら踵を返そうとする。こんな所には一秒だろうと長居したくはなかった。
ところがだ。
「……? 何を言ってる? こっちに来い」
「…………」
整った眉を寄せ、首を傾げて引き止める声にプロメスティンは立ち止まらざるを得なかった。
「最初から、
いつの間にか全く分からなかった。
すぐ、背後に存在を感じた。
「いや恥ずかしがる事はない、珍しくもない話なのだから。何のかんのと理由を付けて、一番の理由はそれなのだ。くくっ、私の魅力も罪なものだ……」
これは、この女に自分から接触した以上は考慮していた事だ。
容赦が無く、容赦が必要だとも思われていないが故の、一方的かつ避けられない、しかし当たり前のように罷り通ってしまう行為。程度や種類の違いはあれこの程度、この天界で
こんな時、理由もなく
そう、これは……何でもないこと。仕方のないことだ。
「大丈夫、私も同じ気持ちだぞ……でなければどうして女になど会おうと思うものよなぁ? ふふっ、そうであろう。私と
抱き寄せられるように手を置かれた肩をびくりと振るわせ、諦めたように両目を瞑ったあと──プロメスティンは、その体の力を抜いた。