一体どれくらい眠っていただろうか。夢うつつに、見ず知らずの小屋の主である男に看病されていたのを覚えている。
いくら何でも見ず知らずの男にいきなり全て
警戒心はあった。ただあまりに苦しかったのだ。エレオノールは自己防衛の意思を保てなかった。
どのみちダメでもともと。野垂れ死ぬより、今ベットの中で介抱されていることに感謝するほかない。それにしても苦しかった。呼吸をするのももどかしく、まるで肉体をぬぎ去ってしまいたいような衝動に駆られさえした。
別にそれでも良い、と何度思ったことだろう。
…ぅぅううううう
看病されている中で、自分が苦痛のあまり重低音のうなり声を上げていたのも覚えている。もしかしたら、
それが男には奇異に映るだろう、とぼんやり感じる程度の理性はあったが、それを制御する余裕はなかった。見る限り男はそうした気遣いを必要としている様子もなく、安堵した覚えがある。とくにエレオノールの態度に
終始落ち着いていて、――親切だった。
――
「申し訳ないが…用を足したい」
かすれる声をふりしぼって、男の気配がする方へ声をかける。
厠がこの小屋付近にあるのか…もしかしたら、外へ出てどこへなりとしてくればいい、と言われるかもしれない。
別に外で用を足すこと自体は問題じゃない。ただエレオノールは自分の足で立てる気がしなかったのだ。用を足すのに手を借りることについて恥を感じる気持ちもある。が、借りた寝具で粗相をしないことの方がよほど重要だ。
声が届いたのか、ベッドの足元の方で男の立ちあがる気配。
「起きあがれるか?」
「……」
無言で首を横にふって応えた。ふりながら、この仕草が「出来ない」の意であると伝わるかどうか不安になる。文化圏の違いが気になる。
「そうか……」
と、男は掛布をはいでエレオノールの細い腰に手を差し入れ、軽々と身体を抱きかかえて起こしてくれた。
ふらつく身体を支えてもらいながら、男の用意した履き物に足を差し入れる。それでようやく立ちあがった。男がベットの横の壁にかけてあったブランケットをとってエレオノールの肩にかける。
「……すまない」
寝具から出ると、外気が冷たく感じた。寒い。おっくうであまり言葉を口にしたくなかった。
二つ驚いたことがある。
まずこの小屋は厠が屋内でつながっている。簡素な作りの小屋だと思いこんで、てっきり外にあるかと思っていた。勝手口だと思っていた戸は厠への入り口だった。
五段程度の階段をのぼって再び戸をあけたところが厠だった。
なぜ母屋に対して高低差がある構造なのはよく分からないが。とにかく寒空の下に出なくて済むと分かりほっとした。
厠は清潔だった。
そしてこれも驚いたのだが、座って用が足せるようになっていた。
「足元に柔らかく揉んだ葉がある」
と残して、男は厠の戸を閉めた。見ると固い紙で出来た箱の中に、木の葉がきれいに積み重ねられている。ずいぶんマメだ。後始末に使えばいいのだろう。
男が階段を降りて居間にいったのが気配で分かった。
一人きりになって用を足す。落ちた思考力で、自分の置かれた状況について考えてみる。改めて、かなり綱渡り、かなり危ない状況だと思うが――
力が入らずその場で
起きあがれそうもない。
狭い空間に自分の荒い息がこだましているのを、聞くともなく聞いた。
――寒い。
しばらくすると男がふたたび来て、戸をノックした。
「大丈夫か?」
「…けて」声にならない。
再びノック音。
「…大丈夫か?」
「助けてくれ…」
エレオノールは自分があられもない姿だと了解している。
しかし――いかんともしがたかったのだ。
男が慌てて戸をあける。
すると弱った女がズボンと下着をさげたまま、だらしなく突っ伏しているのが目に入るのだろう。
そうだ。どうしようもない。
丁寧に柔らかく揉んだ葉が視界のすぐ横にある。
むなしかった。なにしろそれを使う気力すら湧かないのだ。
何より寒かった。
「悪かった、もっと気を
そういって男はゆっくりとエレオノールの上体を起こした。
「後始末はできたのか?」葉の方を見やって聞く。
力なく首を横にふった。
「悪く思わないでくれ」
ああこの男、わたしの下の処理をする気だ。
そんなことってあるか(しかしほかにやりようがあるか。ここでいまさら恥じらいを主張して、ベッドの中でしめった下着にばつの悪い思いをするのはいったい誰だ?)
肉体的に成熟してからそこを人に触られたのは初めてだったが、こんな状況で「悪く思う」も何もない。ふたたび首を横に振る。かえってこちらが申し訳なかった。
男はエレオノールの間に丁寧に手を差し込み、優しくぬぐった。正面にしゃがみこんで、下着を上にあげる。座ったまま腰をわずかに浮かすと、すばやく下着を履かされる。同様にズボンをあげられ、上衣の裾を全部しまわれた。
再び付き添われてベットにもどる。暖炉の前に古めかしいロッキングチェアがおいてあり、座面に黒い
こんな立地に
違和感。
よくよく見ればかなり大きな本棚に、書物が整然と並べられているのも目にはいる。昨日は死角になっていて気がつかなかった。
若いのに……?
自分と同様に
もう少し元気になったら聞いてみようと思った。
憔悴しきって満足に力が入らなかった。食事も助けてもらう。
ベットに背をもたせかけるときは体を支えてもらい、
冷たい水がやけに甘く感じた。
なにか入れたか聞くと、男は「いや……何も」と応えた。
「この土地と合っているんじゃないか?」
そうかもしれない。わからない。
それから数日間、エレオノールは用を足している間じゅう上体を支えてもらわねばならなかった。さすがに恥ずかしかった。
しかし男が有無を言わさず上体を抱いてくるので観念した。
どのみち、だ。
そうしてもらわなければうまくできなかったのだ。なにしろ足元に置いてある葉を手にとることすら叶わないのだから。
肩を抱いてもらい、男に力なくしがみつきながら用を足すよりほかなかった。葉をとってもらい、エレオノールがうまくできないと分かると、次から男が最初と同じに優しく拭ってくれた。
数日続いた。
しかし今、ずいぶん楽になった。身体に力が戻りはじめている。
エレオノールがここ数日のことを思い出していると、炊事をしていた男が手をとめて枕元にきた。 そのまなざしに安心感を覚えるようになっている。
額に手を当てる。
「熱が下がってきたな」
どうやらそのようだった。
下着どころか身にまとっているもの全てが、汗でぐっしょりと重たく、極めて不快だ。
「着替えるか。荷物を持ってくるよ」
――よく気がつく男だ。
外套かけの足元に置いてあった彼女の荷物を持ってきてくれる。
エレオノールはまず礼を言った。
「……すまない、命を助けられた、感謝している……もしあなたに介抱してもらっていなかったら、助からなかった」
「いや、いいんだ。そんなに……かしこまらないでくれよ」
「何から何までありがとう」
男は無言のまま持ってきた彼女の荷物をベッドの枕元に置いた。
まだ何かするようだ。見ていると、部屋のすみから蔓であんだかごを持ってきて、ベッドわきのに置いた。
「着替えた衣類を入れておくのに使ってくれ。これから熱が下がってくるから、とりかえる頻度も上がるだろう。着替えは十分あるか?もしも必要なら、とりかえた衣類を洗濯する。どうする?」
異性に衣類、特に自分の下着を洗ってもらうことに抵抗がないわけない。逡巡したが、恥じる気持ちはもういいだろう。
どのみち、だ。
「お願い…する」
「ん」と軽い返事をして台所の方に向かった男に、ベッドの中から声をかけた。
「あの――」
男が振り向く。
「まだ名のっていなかったと思って。――エレオノール。わたしはエレオノール・シェーンベリだ。よければ名前を教えてくれないか」
そういうと、男の表情がぱっと輝いた。
「俺はノア。ノア・ロームだ。……ゆっくりしてってくれ。ずっといてもいい。ここに滞在する人はいない。エレオノール、来てくれて嬉しいよ」
そう言って彼ははにかんで「ほんとに」と小さく呟いた。
「エルでいい」
初めて彼の笑顔を見て、背筋に張りつめていた緊張が切れた気がした。
歓迎されているのが――思いのほか嬉しかった。
本当にずっといてもいいかもしれないと脳裏よぎる。
もしも許されるのなら。