「じゃあ命を狙われて、追われて森を出たということか」
深刻そうな声音でノアは言った。
「まあ、な。そうだ」
それから数日後の夜、初めて暖炉の前で座って話をした。どうして自分が森を出ることになったのか核心を伏せて簡単に話した。
エレオノールは二人掛けのソファにひとりで腰かけている。
ノアは火の前で、魚が焼けるのを注意深く見守っている。
エレオノールはノアによそってもらったスープを足の間において、じんわりと自分の太ももと手が温まるのを感じていた。
核心を話す覚悟はまだなかった。
ノアはそれきり黙り込んでしまった。
話すことがなくなり、手元のスープをつつく。
見かけない黒いきのこが入っている。食べるとなかなか濃厚な味わいで、しかも良い香りがする。
彼の料理はいちいち
焼いている魚は近所で釣ってきたという。
ノアが言うには、小屋の裏手にクリークがあって「魚も釣れるし水もうまい、エルもほめていた水だ」そうだ。日中、急に出かけたと思ったら、夕方になって魚を釣って帰ってきたのだ。
ノアがいなくなった時、初めて外に出てみた。
彼がいなくなってから、なんとなく所在なげな気分になり、つい外に出てみたのだ。風が強かった。
森の生活では感じなかったな。
エレオノールは思う。
ちょうど山に夕日が沈んでいくところだった。たなびいた雲がこちらに向かって大胆に広がって、夕日の反射で深紅に染め上げられている。遠くの山は深い藍色に沈み、目の前に広がる荒野の陰影も神秘的だ。
見事な景色だと思った。
ノアはどこだろう。見事な夕日だ。
そんな風に待ちぼうけて玄関の前で立っていたエレオノールに、帰ってきたノアが急に声をかけた。
「エル、焼魚は好きか」
「うわ、びっくりした」
びくりと反応したエレオノールに向けてノアは
「好きだよ」と質問に応える「それよりノア、夕日がすごいな」
「ああ、今日は見事だね」
「いつもこんなにきれいなのか?」
「いや、たまにこんなにまっ赤になることはあるけど…珍しいな。今日は特にきれいだ」
そう言って、ノアは手に腰をあてて目をほそめ、沈む夕日の方を見た。
「外に出られるほど元気になったんだな」
「ああ、ノアのおかげだ」
そういうと、彼の口角が少し上がる。
「じゃあ、明日は風呂に入るか」
「風呂か」
「ああ、身体をお湯で清めるのさ」
「お湯で?なんだそれ」
聞くと、ノアはふふふと笑って「まあ明日のお楽しみだ」と言った。
「風呂は、気持ちいいよ…」
そうして二人で夕焼けをながめて、小屋に入ったのだ。
エレオノールが自分の話をしてからずっと、ノアは沈黙したまま暖炉の火で焼ける魚の面倒を見ている。
スープはおいしかったので平らげてしまった。
薪がバチッと音を立てて火の粉を上げた。エレオノールは沈黙する彼の背中を見ていた。何かまずいことを言っただろうか。
もしかしたら、追手による身の危険を案じているのだろうか。
そんなことを勘ぐっているとノアが唐突に「エル、酒……飲むか?」とたずねてきた。
酒は嫌いじゃない。
「あるのか」
「ああ、好きか?」
「嫌いじゃない」
応えると、じゃあちょっと待ってろと言ってノアは戸棚の方に歩いていく。
――病み上がりの気付けだ。
などと呟いていた。
ガチャガチャと何かしら引っ張りだしている。すぐに酒の入った瓶と透明な器と水差しをトレーに乗せて戻ってきた。
炒った木の実と干した肉も添えてある。
「故郷では、どんな時に飲むんだ」
聞きながらノアが、ペクペクペクと軽妙な音を立てて酒をグラスに注いでくれる。
エレオノールが見たことのない酒だった。
手渡されたグラスには、琥珀色のなんとも言えない液体が入っている。暖炉の火に照らしだされて赤銅色に染まって、えもいわれぬ美しさだ。
「祭事、とくに腹を割って話すときか」と、エレオノールは質問に答えた。
故郷では、酒は大切な儀式のときに用いられた。エレオノールが言うように季節の祭事や、取り決めごとについて話すときに呑む酒もあるし、収穫祭みたいに賑やかに呑む酒もある。
そのことよりもエレオノールは、ここに高級なガラス細工が三つもあることに驚いていた。
琥珀色のかぐわしい液体で満たされたグラスを手にとってしげしげと眺めていると
「酒が珍しいのか?」と、ノアに聞かれる。
「ガラスの器もな、故郷では貴人しか持っていなかった」
文化圏の差か。こちらではそんなに珍しくないのかもしれない。暖炉の火に映えて美しく輝いている。
「俺も酒を飲むときは腹を割って話すときだよ」
そう言って、ノアは酒をちびりと呑んで、グラスの中の香りをきいている。仕草を真似してみると、甘く
「こんな酒は初めてだ、なんとも言えない……いい匂いだな」
言ってから、ちびりと舐める。
かぐわしく――そしてエレオノールには少々強かった。
「うわ、強いな」
そう言うとノアが「水で割るか?」と、手元のトレーから水差しをとって、こちらに差し向けた。グラスに水を満たしてくれる。
再び口に含むと、清冽な冷たさの中に華やかな香り広がり、鼻に抜けていく。
「――おいしい」
思わず頬が緩んだ「これはいいな」
ノアの表情が一瞬止まった。
「良かった」そう言ってくるりと背を向けて、また暖炉で香ばしく焼けている魚と格闘を始めた。
酒はとても美味だった。
「このソースはどうやって使うんだ?」
干し肉が盛られた皿に、緑色のペーストがこんもりとぬりつけられている。
「肉に添えて。口にあうといいけど……」
言われた通りにしてみると、
家は暖かく、ソファは柔らかく、食器は美しく、彼は優しい。
「その魚はいつ焼けるんだ」
干し肉を飲み下して聞いてみる。
「小骨までしっかり火を通して、まるごと食べられるようにしてるんだ。時間がかかる。もう一杯、エルが飲み終わるころには焼けるよ、多分」
と背中越しに応えた。
彼は彼で、さっきから床に置いてあるトレーからグラスを時おり手にとってあおっている。木の実をつまみながら魚の刺さった串を見つめている。
「じゃあ、おかわり」
と彼の方にグラスをさし出した。彼は振り返ってそれを受け取り、水割りを作ってふたたびエレオノールの手に戻した。
エレオノールは酔っている。
酔っているからこそ、自分が心のままにふるまっていると分かる。ベットに横たわっている時には、輪郭をとらえられなかった感情。
――わたしはノアに甘えているようだ。
どうやら。
エレオノールは百数十年間の人生で、異性にわけもなく甘えてみたいと意識したのは初めてだった。
酒のせいで少々開放的な気分になっているのだろう。少し自重せねば…
彼女はアルブ族の平均寿命からすればまだまだ若い。
人間族で言えば十五、六の娘にしか見えない。長命の種族のご多分に漏れず、アルブの恋など数百年に一度。
今まさに自分に最初のそれが訪れている――のかは、よく分からないが何やら楽しい気分なのは確かだった。自らの意思とは無関係に、彼に向けて何かのシグナルのようなものが放たれてしまうようだ。
彼に向ける視線、言葉、仕草にメッセージが乗っている。
――こっちを見ろ。
自重せねばと自分を戒めたばかり。なのにそれを自分の意思で制御することは、ほとんど不可能だった。
――恋?
本能が告げている。この男に振り向いてもらえたら、どんな気持ちがするだろう。
そもそもだ。
恋もなにも、いつまでここにいられるのかという問題があるのだ。ノアは「いつまでも」と言ったが、社交辞令で言ったのかもしれない。
けれどもあの、
エレオノールはフワフワとした頭で考えた。
彼女の髪とは対照的――エレオノールは白銀色の芯の通ったような髪をしている――な、漆黒で波打つ髪をまじまじと後ろから見ていた。
考えながら木の実を口に入れた。絶妙な塩加減。琥珀色の冷たい酒をあおるとちょうどいい塩梅だ。いつの間に杯が空になった。
杯をあけたところに「焼けた」と言って、ノアが魚を持ってきた。串から抜いて皿に盛りつけてある。串に刺した時の波打つ形を保って、四尾が皿の上で泳いでいるように見えた。
「手づかみでいける。どこからでも食べられるし、骨まで柔らかいよ」
「ねえ、ノアも床じゃなくてここに座らないか」
そういって、隣の空いた方をぽんぽんと軽く叩いた。酔っているせいか、仕草が幼くなっているかもしれない。ノアは照れたように頬をかいて、魚の皿をはさんで隣に座る。
ノアの匂いは、森の匂いに似ていた。
早速、パーマークの映える川魚を頬張ってみた。
淡麗な白身に塩と、なにかの香辛料が振ってある。
――おいしい。
目で訴えると、ノアも満足そうにうなずいて魚にとりかかった。
「ああ、本当だ。柔らかい。魚ってこんなに骨が気にならなくなるんだな」
「故郷にはなかったか?」
「そんな、わたしが故郷のことを全て知っているわけではないぞ。単にわたしが知らなかっただけかもしれない」
ノアはハハと笑って「ああ、そうか」という。
白身魚のあじわいは上品で、あっという間に食べ終えた。
満足を感じながら、暖炉の火を眺めるでもなく眺めているとノアが唐突に切り出した。
「エル、話をしようか」
「ん、なんの話だ」聞きながらも、さっき話した事だろうと分かる。
「今後のことだ」
「ああ…」顔が曇る。長居すると迷惑だと言われるのかもしれない。
できればもう少しここにいさせてもらえないだろうか。向かうあてもないし――ノアともっと親しくなりたい。
「まず、大事な話の前に俺のことを少し話そう。もしかしたら気づいているかもしれないけど俺はヒュムじゃない」
ヒュムとは人間族のことだ。エレオノールが思っていた話と少し違う。
「なんとなくは分かっていた」
応えると、ノアは沈黙してうつむいた。
「あれは全部ノアの
「そうだけど」と、ノアは顔を上げて応える。
「住んでいるところと、外見の年齢と、書物の量がちぐはぐだ。こんな
なるほど、とノア「俺はそんなに若く見える?」と肩をすくめる。
「ああ、わたしよりずっと年下に見える」
ノアは
「そうか――エルは、もしかしてアルブか?」
「よく知っていたな」
「聞いたことがあるだけだ。北方大森林の果てに住む精霊アルブ……本当にいるとは知らなかったよ。アルブはみんなそんなに美しいのか」
言われてつい照れてしまった。
「美しいか?みんな白い髪に碧い瞳だぞ」
「絶世の美女だ。俺は『絶世の美女』なんて口に出したのは初めてだ。でもそれ以外なんて言っていいか分からない。
自分じゃそうは思わないのか。最初見た時幻覚か、妖精でもたずねてきたかと思った。それくらいきれいだ。あと、みんなそうして耳が長くとがっているのか」
とノアは自分の耳を触っている。
「ああ、そうだ。ノアの耳はまあるいな。アルブの名が森林の外のこんな辺鄙なところまで知れわたっているとは知らなかった」
それでも名前だけで、外見の特徴なんかはあまり知られてないんだな。
「子どもの寝物語だよ。森の精霊様が世界に恵みをもたらしてくれるってね。実際に肉体を持つ精霊と出会ったのは初めてだ。それに、こんなに美しいのも知らなかった」
やたらと褒められて、気持ちのおさめどころに困った。けれども、悪い気はしない。
「すべてのアルブが精霊を宿しているわけじゃないぞ」
「宿す?アルブってのは精霊の一族のことじゃないのか」
と聞きながら、ノアは「よっ」と足元のトレーに手をのばした。自分のグラスに琥珀色の酒を注ぎ足している。エルは?と聞いてきたので、グラスをさし出した。
「病み上がりだ、今度は少なめにしてくれ」
水も加えて欲しいと申し添えて、ノアの疑問に応えた。
「アルブ族の肉体がたまに精霊の器になる、というだけだ。そんなに多くはない……」
「ふーん……なるほど」
グラスの中に水が注ぎ足されて、透き通った琥珀色の酒がピカリピカリと暖炉の火を呑みこんでは吐きだしている。
ノアも、グラスの酒をまたちびりと舐めた。
「つまり、なんだ――時おり、精霊を宿して生まれてくる者がいるということか」
「そうだ」
「――エルはそうなの?」
わたしは。
言いよどむ。言ってしまうのは構わないが、後で自分が困ったり、相手に迷惑がかかるようなことにならないだろうか。
逡巡する。
しかし酒を飲んだせいか、ノアに全てを打ち明けたいという気持ちが膨らんでいる。
たぶんわたしはノアに自分の全部を知って欲しいのだ。
「わたしは――精霊だ」
ノアは微動だにせず、そうなのかと一言で応えた。
「驚かないのか?これでもまあまあ珍しい精霊なんだぞ」
「いや、驚いているさ。ただエルの秘密ばかりをあばいても仕方ないから、俺の話もしなきゃと思ってね」
そう言って木の実をポリポリとかじる。ノアの真剣な言葉に、エレオノールは緊張した。
「ノアも何かあるのか」
そうだな――と、ノアは一呼吸おく。
「俺は海をこえた東方大陸の失われた十支族の生き残りだ。この辺じゃ魔人と呼ばれている。ヒュムよりは長命で、五百年くらい生きている。ここに棲み始めて百年くらいで、これからも特に何もなければここで暮らす予定だ」
一息にそう言った
「どうだ、驚いた?」
そう聞いてエレオノールは思わず笑ってしまった。
「アハ、年上だとは思わなかった」拍子抜けした。
「え、じゃあなんだと思ってたんだ」
「ずっと年若い男に、あんな面倒を見させてしまったと気が引けていたんだ…」
そういうと、ノアはぷっと吹きだした。
二人で笑った――今、種族は関係なかった。
彼と心から打ち解けた、今この瞬間が嬉しかった。無性に笑えた。
「エレオノール、ずっとここにいろよ」
「――え?」
不意を突かれながら、とても大切な事を言われたと分かった。分かったのに、とっさに間抜けな返事で聞き返してしまった。
「俺はエルに惹かれている。ずっと一緒にいたい。旅をやめてここにとどまらないか」
顔がかぁっと熱くなった。
「種族なんてどうでもいい。俺の心も身体も、エルと一緒にいたいと言っているんだ。
急な話で驚かせているのは重々承知だ。だけど行ってしまう前に言わなきゃいけなかった。どうかな」
……息が止まっていた。
「そん……」な急にいわれても、と口をついて出そうになった。
そうじゃない。
もうこの世界に肉体を得て百数十年生きてきた。そんな無粋なやりとりはたくさんだ。人生とはそういうもの……のようだ。
いきなり命からがらの逃避行におちいる時もあれば、唐突に終の棲家が決まる時もあるんだろう。
――ああ。振り向いてもらえたらこんな気持ちか。
「ノア。わたしは今日は胸を打たれるような美しいものを、二つも見た。夕日と、それから暖炉に映えるグラスだ」
ノアは静かにエレオノールの言葉を聞いている。
「ここの水は甘かったし、食べ物もおいしかった」
食べることは生きること。
「今日は心から笑った」
笑うことは生きること。
ノアはにこっと笑った。
気に入った男に気に入ってもらって、一緒にいるだけで充分じゃないか。
「わたしはノアが好きだ。ノアにそんな風に言ってもらえて嬉しい。わたしはここにいることにしたぞ」
そういうと、ノアはエレオノールの手をとって、その甲に口づけをしてくれた。
決断はいきなりだった。けれどなんの無理もなかった。
エレオノールは幸福だった。
――幸福で身体がふわふわとして、気だるかった。気だるいのは飲酒したせいだろう。ノアがたらいに張った水で使った食器をゆすいで、エレオノールに手渡してくる。エレオノールは渡された食器を注意深くかごに伏せた。
特にガラスは。
「精霊と言うからには、霊界の名前もあるんだろう」
洗い物をしながらノアが聞いてくる。
「ある。雷公と呼ばれていたらしい。雷公カンナだ。まあ、そんなことを言われても知らないだろうが」
そう言うと、はたとノアの手が止まった。
「聞いたことがある……」
そう言って、微動だにせず視線だけ向けてきた。
「知ってるのか」
「人間界にも雷公カンナの伝説はいくつかあるぞ、まさかその雷公か…?」
エレオノールの酔いどれ頭は、ノアの感情をはっきりと読み取れないがなんとなく楽しそうにしている気がする。
「わたしは知らない。記憶は肉体に宿るものだ。わたしに雷公の記憶はないぞ」
「そうなのか」
「精霊とは、宿主の歩む方向性を決める純粋な意思のことだ。そうだな……わたしもノアも、肉体と魂と精霊の三位が一体となって一個だろ?ただ私の場合は精霊の部分にカンナと言う名前がついていたということだな。それなりに高名な精霊らしいが……わたしは里で
ふーむ、とノアはうわの空で返事をして、最後の食器を渡してきた。
「あと……そうだな……わたしは雷の魔術とほかの精霊の召喚が出来る。機会があったら見せよう」
そういうと、ノアが笑った。
「なんだ」
「酔っぱらうと、口調がくだけて格別に可愛い。酔いがさめてもそれくらい砕けて接してくれないかな。あと、さっきからすごいこと言ってるぞ」
「なんだ。そうか?でも、酔いがさめたら分からん。きっと少しずつ打ち解けていけるだろ。時間はあるんだからいいだろ?」
たしかに気が大きくなっている。
ノアが「そうだ、な」と言って腰を抱いてきたので、腹の底がきゅっとしまった。
「ノアも酔うと親密になるな?」
言い返すと、ノアは「エルは魅力的だからな」と言った。