花曇りの朝だった。
だが、朝食が終わるころには、細かい雨が降り始めた。灰色の空に馴染んだ桜の花が冷たい雨に打たれて揺れ、雫とともに花びらが落ちる。
二人は、出かける支度を調えて、実弥の私室近くの広縁で久しぶりに二人で茶を飲んでいた。
鬼殺隊の残務処理のため実弥は多忙を極めていた。決戦の傷がまだ完全に癒えないころから、実弥は藤の家紋の家への挨拶回りに飛び歩き、屋敷にほとんど帰らず、晶ともあまり顔を合わせていない。
今日も、実弥は泊まりがけで遠方の藤の家紋の家『かがみの』と旧悲鳴嶼邸の遺品処理に、晶は墓参りにそれぞれ出掛ける予定だ。
しかし、生憎の天気が気持ちを削ぐ。実弥も晶もさっさとでかけなければならない刻限だが、雨空を見ているとどうにも億劫になる。
「あの、私は、その、まだお屋敷にいてもよいのでしょうか」
晶が湯呑みを置いて尋ねた。実弥は変な質問だと思った。
「あァ?……好きなだけいていいぜ」
「ですが、鬼殺隊も解散するのですから……」
「この屋敷までなくなるわけじゃねえ」
柱に就任した時に下賜された屋敷を鬼殺隊解散と同時に産屋敷家に返却しようとした。だが、輝利哉は頑として受け入れなかった。長年の苦労に少しでも報いたいと言う。突然両親を失い当主となった輝利哉は、年相応の子供ではいられない。引退した柱たちを相談役にして、鬼殺隊の終幕を美しく引こうと必死だ。
「あの……他のお家を買われるとか」
晶がモジモジした様子で尋ねる。
屋敷付の隊士や隠がいなくなれば、広い屋敷の手入れは到底手が回らなくなる。実弥はもう少し狭い家に住み替えたいと考えていた。
内覧した家は、風屋敷よりずっとこじんまりしていて手頃だった。ただ、一般の民家なので当然風呂がない。おまけに、銭湯まで遠い。身体に傷の多い実弥にとっては内風呂の方がなにかと便利だ。それで決めかねた。
「まあ、いいのがありゃア早い方がいいんだが」
枸橘の生垣に白い花が咲くと見事なのだと業者が自慢げに話していたのを思い出す。
「……そう、ですか」
晶は手に持った湯呑みに視線を落とした。
灰色の空から雨が落ちる。中庭に面した晶の部屋の前には、数鉢の花があった。鉢植えの梔子の葉に雨が降りかかる。
玄弥は盆栽や植物を好んだ。たまには晶の鉢植えを手入れしていたと聞く。二人はいつか鉢植えの花を見て楽しんだことがあったのだろうか。雨と梔子から漂うように玄弥の面影が浮かび、痛みと懐かしさに浸る。
少しずつ強まる雨空を見上げて実弥は呟いた。
「雨、止まねえな」
晶が墓参りにいくために花を持って歩くにも難儀だろう。晶はじっと実弥を見つめた。どこかいつもと違う雰囲気で甘い緊張感が高まる。そのとき、晶が震える声で答えた。
「寒い……ですね……」
花散らしの雨に春の陽気はどこかに遠のいている。実弥は羽織を脱ぐと、晶の手元に押しつけた。
「寒イんなら、着てろよ」
実弥がそう言うと、晶は一瞬驚いたような顔をした後、突然笑い出した。そのくせ泣き出しそうな顔だ。
「ふ……ふふくっ、ふふふっ」
笑いながら晶は、つと立ち上がった。
「ア?」
実弥が立ち上がった晶を軽く見上げた瞬間、羽織をふわりと頭からかけられた。視界が奪われ、羽織の内側しか見えない。
「おい、なんだ……」
言い終わる間もなく首のあたりと頬に晶の手を感じる。次の瞬間、実弥は唇になにかを押し付けられた。とても柔らかく、温かい。羽織越しでも、かすかに湿っていて甘い匂いがする。
それが晶の唇だと気づいた瞬間、頭の中が真っ白になった。
(ハ……)
柔らかい感触が唇を覆い尽くし、甘い香りが頭を痺れさせる。混乱のあまり、なにも考えられなかった。実弥は身動きひとつできないまま、心音だけがガンガンと大きく響く。
一息ごとに晶の唇の温もりがゆっくりと薄れていく。それとともに実弥の意識も明瞭になった。一息吐いて、ようやく指を動かす。急いで羽織を払い除け、あたりを見回した。
晶の姿はすでになく、桜の花びらが雨に打たれて散っていた。