「……妻を呼び捨てにするのは止めてもらいたい」
実弥は軽くやり返した
「俺は不死川実弥。晶の夫だ。妻がこちらにいるはずだ。返してもらおう」
南條は黒い目をすっと細めた。場の空気がたちまち剣呑になる。
「晶は私の許嫁だ。返すわけにはいかない」
南條も平然と応答する。
「晶は生まれたときから私の許嫁と決まっている。他の男に嫁ぐことはない」
痘痕面からは表情が読み取りにくい。
「許嫁など親が他界していれば、なんとでも言える。ちゃんとした許嫁なら、あいつが抵抗するはずがない。まして人攫いまがいの方法で連れ去る必要もない。ただのカタリだ」
実弥も負けずに正論を言い返した。
「俺たちは世に許された夫婦だ。ずいぶん前から一緒に暮らしている」
「……ふん、ただの居候だろう。寝間も一緒ではない」
南條は鼻で嗤った。実弥は、風屋敷での生活の様子まで把握されていることに密かに動揺した。内通者か辣腕の見張りが付いているのだ。
それにしても夫婦の実質の話を持ち出されると分が悪くなる。実弥と晶は、所詮法律上の夫婦にすぎないのだ。
「……念のため証明書も持ってきた」
実弥は、懐から証明書を出して、テーブルの上に差し出した。ここはあくまで形式が整っていることを強調しなくてはならない。
「……日付が新しい……なるほどな」
南條は証明書を素早く検めて、すぐに提出年月日が最近であることに気付いた。
「日付を遡って届を提出したな」
南條の表情が歪んだように思われた。
「……産屋敷の入れ知恵か」
南條は苦々しく呟いた。もとより許婚よりキチンと結婚している夫の方が立場が強い。夫たる男が妻を引き取ろうとするのは至極当然で、拒否する術はない。
(よし、勝った)
勝負がついたと実弥がほくそ笑んだ時だった。
「……帰れないと言ったら?」
南條はゆっくり発語した。
「晶はもう、私のものだ」
「ア?なんだと?」
「古来、男に奪われた女はその男のものになる。だから私のものにした」
「テメエッ……!」
ビキッと青筋が立った。
穏やかそうでも、力尽くで女を拉致する男なのだ。証明書を揃える数日のうちに、手を出していない保証はない。
しかし、昨夜のうちに雛鶴が晶の無事を確認している。ハッタリをかまして、挑発しているだけかもしれないとすぐに思い直した。
「諦めるんだな。もうお前の元には戻れない」
「ケッ、そんな許婚がいるかよ、このクソゴミ屑野郎がァ!」
実弥は青筋を立てながら、睨みつけた。
「そンなら、あいつは金輪際テメエに靡かねえ。力づくで奪う男なんぞに従うもんかイ。あいつをナンにもわかっちゃいねえなァ」
「ほう、他の男を知った女だというのに、まだ妻にしておくのか」
実弥は口を歪めて嘲笑った。
「ヘッ!ケツの穴の小っせえやつと同じにすんじゃねえ。女を持ち物扱いしやがって、胸糞悪イやつだぜェ。女が真心から慕ってくンのが色恋だろ。テメエのは抱いたんじゃねぇ。手籠だろうがァ!」
実弥は、ゆっくり立ち上がった。
「テメエが何をしてようと、あいつは俺の女だ。さっさと返せやァ」
部屋の中の気配が殺気立っていく。
「……どうしてもってんなら、全員叩きのめしてからでもいいんだぜェ。オ?」
そう言うや、凄まじい音がして窓ガラスが割れ、なにかが屋外に吹っ飛んだ。背後で迂闊に動いた男に実弥の蹴りがモロに決まったのだ。あまりの呆気なさに南條は痘痕面を顰めた。
実弥としても一般人相手に腕力に訴えるのは是非とも避けたい。だが、やむを得ないなら躊躇はしない。
「ひとつ訊く。お前、晶がここに残りたいと言ったら、どうする」
「あアン?」
実弥は気色ばんだ。
「ほざきやがって、あいつが言う訳がねぇ。力で脅したか、妙な薬でも飲ませたか……」
実弥は、体の奥から怒りがフツフツと立ち上ってくるのを感じた。今こうしている瞬間にも、晶に危害が及んでいるかもしれないのだ。
「……もうこれ以上話すことはねぇ。さっさとあいつを返せ」
実弥の体から殺気がメラッと炎のように揺らめき立った。凍りついたように誰も動けない。動けば今の強い緊張が破れて乱闘が始まる。実弥は、殺気と怒気の中、間合いを読んだ。
そのとき沈黙を破って南條が口を開いた。
「控えろ。お前たちでは勝てん」
南條は実弥を睨みながら答えた。
「……何もしていない。晶は無事だ」
実弥は、油断なく背後に気を配りながら、南條を見返した。
「会わせろォ」
「晶が自分の意思で言うなら、許すのか」
実弥は、南條を睨み返しながら訝しんだ。今そんなことを重ねて尋ねる意図が理解できない。
それでも実弥は万一を想像してみた。万一晶がどうしてもここに残りたいと言ったら、どうするだろうか。拉致ではなく自らの意思でここに来たのだとしたら。
「……自分の意思なら、仕方ねェ」
それは、晶にとって風屋敷で暮らす以上に大切な何かがここにあるということだ。実弥には与えられない何か、幸せや喜びがあるのだ。かすかに胸が痛んだ気がして、実弥は目を閉じた。
「幸せかどうかは確かめる。だが、あいつが幸せならそれでいい」
実弥は静かに答えた。本心だった。
「……」
南條は黙ったまま、実弥をじいっと見つめた。その間合いがひどく長く感じた。やがて南條は横に控えていた男に何事か命じた。男はすぐに部屋を出て数分で戻ってきた。
「隣の座敷にいる」
扉を開けると、不安げな小さな姿があった。
「月……晶!」
晶が顔を上げる。実弥は駆け寄ようとして、すんでのところで足を止めた。
座敷は庭に面していて、開けた戸口以外に出入り口がない。万一この座敷に細工がしてあれば、晶もろとも囚われかねない。そんなことをしても無意味だが、女を拉致監禁する者の考えることなど予想出来ない。彼らの思考は人の道を外れているのだ。
「来い!こっちへ来るんだ」
実弥は、両腕を広げて晶に呼びかけた。晶は両腕を前に伸ばしたまま、よろけながら駆け寄ってきた。実弥の手の届くあたりで、安心したのか崩れるように座り込む。その寸前で、実弥は晶の体を引っ張って座敷の外に引き出した。片膝をついて、間近で晶の様子を見る。
「……大丈夫か」
見たところ多少顔色が悪くやつれた感じがするが、特に怪我をしている様子はない。服装もいつも着ているもので、乱れもなかった。
「はい」
そう言って、晶はニコと顔を歪めて微笑んだ。泣き出しそうな顔だった。それを見た瞬間、実弥の中で何かがぶつんと音を立てた。
「あっ……」
実弥は晶をすさまじい力で抱きしめた。腕の中の身体は頼りないほど小さい。こんな身体で、力づくで女を連れ去るような乱暴な男に囚われて、どれほど怖かっただろうか。その恐怖を思いやると、拉致を阻止できなかった自分が許せない。
「よかった」
実弥は、腕の中の存在を確かめたくて、繰り返し小さな背中を撫でる。背後で南條が唇を噛んだ。
「よく……」
腰に回した腕にも更に力を込める。身体を密着させて、全身で晶の無事を感じた。安堵がじわじわと身体に広がる。
「……しな……」
少し身体を離して頬を撫で顔を見つめる。きつく抱きしめられて苦しげな晶の顔には、驚きの感情はあっても、恐怖や嫌悪はない。
ふと先程のやりとりが頭をかすめた。
「……お前、ここにいたいのか?」
晶が大きく目を見開いて、激しく首を横に振った。
「いいえ、いいえ!」
晶は、何のことだとばかりに激しく否定する。
「お屋敷に、帰りたい」
実弥は満足そうに小さく頷いた。
「……よオし、帰んぞ」
背後の殺気を跳ね返しつつ、晶の肩を抱いて立ち上がった。
鉄の門扉を出ると、実弥はスッと一瞬屈んで晶を横抱きにし、思い切り大地を蹴って飛び出した。
ドン!
衝撃と共に二人の姿はかき消え、一陣の風だけが残された。