あれから大して経っていないのに、実弥を取り巻く世界は一変している。
緑の陰が濃い霊園を抜けて、赤坂方面に続く道を行く。南條邸の瀟洒な鉄扉が遠くに見えた。実弥は少し高い木の上に登り、中の様子を窺う。屋敷はしんとしていて、門番以外動きがない。
門扉が内側からゆっくりと開く。思いもかけない人物が南條邸から出てきた。堂々とした体躯に華美な羽織、派手な飾り物の眼帯と銀髪隻眼。見間違いようがない。
「おい」
鉄扉が見えないところまで来て実弥は声をかけた。
「おう、不死川」
宇随は少し驚いた顔をした。気配に敏感な彼にしては珍しく声をかけられるまで気がつかなかった。考えごとをしていたらしい。
「お前、ここでなにしてんだ。月宮を拉致しやがったヤツの屋敷だぞォ」
「輝利哉さまからお願いされてんだよ」
「あア?輝利哉さまア?」
「あの南條って家は、代々医者や薬師を輩出してて、上の方とも繋がりのある家柄なんだわ。そういう家柄ってのは横で繋がってるもんだから、産屋敷家ともチョイと関係があるらしい」
初耳だった。南條について晶は話したがらなかったから、実弥も無理に聞こうとはしなかった。
「で、こっからが本題なんだが」
宇随は、少し改まった。
「あの決戦の後、南條の方から接触してきたんだ。――お前の生死如何ぞってな」
「俺のォ?」
「まあ、真意は分からねえが、月宮にこだわってるヤツだ。法律上の夫であるお前は邪魔でしかねえ。お前が死ねば、月宮は未亡人だからな。南條にとっちゃ好都合だろ」
「ケッ、あのクソ野郎が考えそうなこったぜ」
「ま、あくまで可能性だ。だが、お前は派手に生き延びたわけだから、そのように知らせたんだ……ところが、最近になって今度は痣について訊かれてな」
「……俺が死ぬのを待ってんのかイ」
実弥は右頬に手をやった。あの夜風車に似た痣が発現した場所だ。自分では見たこともない。
「そうかも知れねえ。だが、相手は上つ方々のために長い間薬学や医学に関わってきた家柄だ。痣についてもなんらか知恵があるかもしれねえ。そんで、輝利哉さまは南條から引き出せることがあればってんで、俺に南條と付き合わせているってわけさ」
「……フン」
期待した話にならず、実弥は口を噤んだ。機微に敏い宇髄は、実弥の横顔に向けて独り言のように呟いた。
「……屋敷は静かなモンだったぜ。月宮の音もしねえ。月宮の件を南條はまだ知らねえんじゃねえかと思うわ」
実弥は、内心ホッとした。もっとも、そのかすかな安堵の吐息を耳のよい宇随は聞き逃さなかった。
「なあ、こないだの話からして、待ってたって月宮は帰ってこねえぞ」
頭上で木々の枝がざわめく。実弥は黙っていた。
「で、そのうち南條に見つかってとっ捕まるわけだ」
宇髄は、振り返って南條邸を覗った。遠くで車が走る音がしていた。
「月宮は普通の女だぜ。力じゃ男に勝てねえ。屋敷の奥深くに囲われたら、逃げ出せねえぞ」
想像するだけで頭に血が上る。美しいが鉄格子の嵌った窓。頑丈で重そうな扉。閉じ込められたら、晶の自力ではまず逃げられない。
「ま…………お前が関係ないつうんなら、それまでだけどよ」
「……俺が離婚届を出さなきゃァいいんだろ」
法的に守られた夫婦である限り、南條が晶を軟禁して関係を迫ることは、実弥に対する違法行為だ。しかし。
「ハ!危険ってのはそれだけじゃねえだろうが」
宇髄に一言の下に否定されて、実弥は小さく舌打ちした。
法律上の保護など、目の前に迫る力や暴力の前には無力だ。南條が手荒な振る舞いに出れば、晶にそれを防ぐ術はない。力づくで奪われてしまう。そうでなくても、軟禁が長期に及べば、晶もいつかは根負けしてしまうだろう。
「……」
胸の奥が焦りでチリチリと音を立てる。
晶には、その賢さを称賛し応援してくれる男が相応しい。だが、拉致までするような男がそんな寛容さを持ち合わせているのか。
「おい、止めろ」
突然、宇髄が実弥の左手首を掴んだ。
「傷になるぞ」
ハッとして力を抜く。気づかないうちに拳をきつく握りしめていた。掌には薄く爪の痕が残り、すでに赤らんでいる。血が出るところだった。実弥は舌打ちして、乱暴に宇髄の手を振り払った。
「はあぁ、くっそ地味だなあ!お前!」
宇髄は大きなため息をついた。
「そんなに心配してんなら、派手に探しゃいいじゃねえかよ!」
実弥は苦々しく呟いた。
「あいつは自分で出て行ったんだ。俺の屋敷にいるのが……イヤだってことだろ」
呆れられ嫌われてしまったはずだ。花曇りのあの日、接吻さえ無視したのだから。
「イヤだから、ねえ……」
宇髄は腰に手を当てて、口をへの字に曲げた。
「こういうことは本人たちにしか分かんねえもんだけどよ、俺には月宮が派手に追ってきて欲しくて出て行ったように思えるがな」
「ンだよ、それ。訳わかんねえ」
実弥はムッとした。
「行き先は書いてなかったし、手紙も来ねえ。探せねえだろうがァ」
「手紙い?馬ァ鹿。来るわけねぇわ、んなもん」
色恋に疎い者は皆、言葉以外の方法で心情を示されても読み解けない。この状況で晶から手紙が来るはずがないのは明白なのに、それが理解できない。
「……探せる場所にいるってことなんじゃねえの?」
ため息交じりに宇随が言った。
「……他のヤツには分かんなくてもお前には、お前だけには分かる場所とか、そんなとこにいるんじゃねえのか?……思い当たる場所はねえのかよ?」
「……」
実弥は絶句した。居場所を知らせる手紙が来ないということが示す場所があるなど、思いつきもしなかった。
「ま……精々考えろや」
宇髄は大きくため息をついた。
「分かんなきゃ、そのうち南條に先を越されちまう。そんとき後悔しても遅えぞ」
宇髄は手をヒラヒラさせると、実弥を残して歩き始めた。