実弥は、中庭をぼんやりと眺めていた。そよ風がかすかに木々を揺らす。雲は徐々に広がり、雨の気配を感じさせる。手持ち無沙汰だ。残務処理も大詰めを過ぎた。
「実弥、ご苦労だったね。まずはゆっくり休んでおくれ」
輝利哉は温和な笑顔で実弥に告げた。
もう闇夜に駆け回る必要もないが、朝起きる必要もまた見出せない。やらなければならないことはもう何も無いのだ。
鬼殺に邁進していた頃は、藤の家を泊まり歩いて任務を熟し、たまの休暇も鍛錬に当てていた。いつもやることは山のようにあったのに、今は起床も身支度も食事も、睡眠さえ時間潰しに過ぎない。
無聊な日々に実弥は溜息をついた。
小手毬の盛りが過ぎようとしている。
赤子の爪のような小さな花びらが、そよ風に優しく揺らされて散り敷く。見ているだけで、甘い思い出に引きずり込まれる。なんの想念も浮かばない心には、在るべき人の不在がひどく辛く感じられた。
「よ!」
突然小手毬の後方に宇髄が現れた。塀や壁を音もなくすり抜けることなど造作もないせいか、いつも思いもよらない場所から入ってくる。
「よじゃねえ。お前、普通に玄関から入れっつってんだろォ」
実弥の渋い顔など気にも留めずに、宇随は広縁の端に上がり込む。
「こないだ、また南條邸に行ったんだわ」
実弥は聞こえないふりをしていた。
「……月宮の、話をしてた」
脳天にガツンと一撃喰らった気がした。
「…………おい、そりゃア」
「いや、月宮の音はしてなかったぜ」
気付かないうちにホッと実弥の息が漏れる。宇随は今回も聞き逃さなかった。
「ちっと変わった声で……聞きにくかったんだが、多分居場所の手掛かりを掴んだんじゃねえかと思う」
「……」
実弥の胸の裡がジリジリと不安に焦げる。組織力のある南條が手掛かりを掴んだのだとしたら、早晩晶を探し出してしまうのではないか。そうなれば――
「あの屋敷にまた、囚われるってェのかよ……」
「……それならまだマシだろ」
「あア?」
「南條ほどの家だ。屋敷が赤坂だけとは限らねえぞ。お前を警戒して別の屋敷に連れて行けば――まず後は追えねえ」
「……」
金持ちが本宅以外に屋敷を所有することはごく普通だ。産屋敷家も、無惨の襲撃を避けるために定期的に邸宅を変えていたくらいだ。同じく長い歴史を持つ南條に複数の邸宅があっても、驚くには当たらない。
しかし、そのうちのひとつたりとも所在地を知らない。場所さえ分からないその邸宅の奥深くに囚われたら、実弥一人では到底探しきれない。
(どうする……)
実弥は炒られるような焦りを感じながら考えを巡らした。金屋の鴉が後を追っていると多旗が言っていなかったか。
(もし……またあいつが手を出したら……)
晶との間に夫婦の実質はひとつもない。そこを指摘されれば、届出が無効になる可能性は十分ある。そうなれば、南條を阻むものは消え失せる。
「月宮をとっ捕まえておいて、裁判かなんかでお前との婚姻届の効力を法的に無効にしちまう。で、それが通ってから正式に妻にする。あるいはお前が痣で死ぬのを気長に待つ……ま、派手に途方もねえ手数だがな」
宇随が不愉快な読みを開陳する。
(あいつならやる。きっとやる)
晶は南條を嫌っていた。花でも食べ物でも人でも、好きなものが多い晶が嫌いだと言うのだ。心底嫌っているとみていい。
(クソッ……)
豪奢で美しいが自由のない黄金の牢獄のような屋敷。学問を尊び闊達な晶が閉じ込められたら、笑顔が消えて俯いて過ごすのではないか。夜には紅玉のようで昼には碧玉のように見える不思議な色の目が、悲しみに曇るのではないか。
――お帰りなさいませ、不死川さま
晶の明るい声が甦る。
――弟の幸せは弟が決めるんです。兄じゃありません
――高いところは、こ、怖くて、足が竦んで……
――侘助ですね……ありがとうございます
――写真ですよ、不死川さま。もっと笑ってください
――玄弥くんは頑張り屋さんですね、ご兄弟は似るのかしら
――柱を死なせた星見に価値はありません。頑張ったかどうかなんて!どうでもいい!
――まあ、勝ったわ!名前はオハギに決まりね!
――七竈の花、嬉しかった……
――死者は生者の不幸を願ったりしません
――ご無事で……お帰りを
――夜が、明けます
「不死川さま」
はっきりと晶の声が聞こえた気がした。
(月宮……月宮!!)
小手毬の花と宇随が目に映っていたが、もう心付かなかった。
(会いてえ!)
花曇りの日の別れも根も葉もない縁談の噂も、どうでもいい。あるいは嫌われ疎まれているかもしれないが、実弥自身がどう思われているかより、晶を暴力や意に染まぬ結婚から守ってやりたい。
(探し出す。必ず南條より先に!)
実弥はすっくと立ち上がった。黙って様子を見ていた宇随は、手で顎を撫で回しながらニヤリとした。
「おい、小鳥を追っかける話なら、派手に協力するぜ」