その年の最終選別合格者名簿に決して見つけたくない名が載った。
『不死川玄弥』
その時の衝撃は忘れられない。
あの凄惨な夜の後、まだ少年だった実弥は茫然自失の態で家を飛び出した。悲しみと絶望。そして激しい憎悪。実弥の精神は半壊し、一人残された弟の心情をようやく思いやれるようになったのは、粂野と出会った後だった。
「家族がいるなら、実弥を探しているんじゃないのか?」
そう言われて、実弥はすぐに玄弥の無事を確認しようとした。しかし、すでに遅かった。玄弥は奉公先から出奔。行方不明だった。
「知るもんか。ろくに働きもしねえで勝手に出て行ったんだぞ」
働きもしない奉公人に主人は冷たい。もとより行方不明の孤児など誰も探さない。玄弥の行方は分からず、実弥は耐え難い後悔と懺悔を抱えながら、弟の無事と幸せを祈るしかなかった。
その弟が現れたのだ。
狂喜と安堵に有頂天になった次の瞬間、恐怖に心臓が凍りついた。
(なんで、なんでこんなところへ来たんだ。死んじまう……)
もとより玄弥を鬼殺隊に引き込んでしまうのは絶対に認められない。破滅的で危険な鬼狩りが似合うのは、母殺しの自分だけだ。何より、弟から母も妹弟も幸せな生活も、優しい兄さえも奪いながら、今さら肉親面など烏滸がましい。
(あいつ、俺を追ってきたのか…………こんな俺を…………)
これほど情けない自分を慕い、許し、追いかけてきたのかと思うと、玄弥の優しさが恐ろしくさえあった。実弥は、心から玄弥の身の安全と幸せを望んだ。
(もうお前しかいねえ。頼む、どっか平和なところで幸せに暮らしてくれ……それだけだ…………)
ところが、事態はますます悪化していく。玄弥は、実弥の情報を手に入れ、訪ねてきたのだ。
「あに……風柱さまにお会いして、お話したいことがあります」
居留守を使っても追い返されても、玄弥は諦めない。鬼殺隊にいる以上、命は常に危険に晒される。底抜けに優しい弟なら尚更だ。自分のことも鬼殺隊も忘れて、ただ幸せになって欲しい。
だから、訪ねてきた玄弥を実弥は冷たい言葉で突き放した。
「あの、お会いになった方が……」
しかし、晶は玄弥の様子に深く同情した。既に悲鳴嶼邸を訪問したことがあり、うすうす事情を察していたらしい。しかも、弟を亡くしている晶は、年下の少年たちに甘い。
訪ねてきた玄弥を追い返したその日、実弥はむっつりと言い返した。
「……会わねえ」
母と弟妹たちの壮絶で無残な最後は、晶に少しばかり話したことがあった。晶が身の上話をしたので、つい実弥も話したのだ。
「弟さまが生きていたなら、お屋敷に引き取って……」
「冗談じゃねえ」
実弥は舌打ちした。
なにもかも弟から奪ったくせに、今さら玄弥と共に暮らすなど許されるはずがない。厚顔無恥で恥知らずにも程がある。吐き気がした。
「相手の優しさにつけこんで、自分のしたことを無かったことにしやがるようなヤツが俺は大嫌ェなんだよォ」
「……不死川さま、それは」
いつもの笑顔など消え失せ、顔色が変わった。
「それはつまり、自分で自分が許せないから……そのご自分の気持ちのためになら弟を傷つけてもいいということですか?」
ピシッと空気が凍った音がした。
「おい、今なんつったァ……!」
実弥の額にピキピキと青筋が立つ。晶は実弥を大きな目で見据える。緑紫の目に炎が揺らめいていた。
「自分で自分が許せないのは……仕方がありません。大切な人を失ったら、そんな風に自分を責め続けてしまうものだと思います」
晶はかすかに苦しそうな顔をした。
「ですが、それ故に相手を傷つけていいことにはなりません。それは、ご自分の気持ちを考えているだけで、冷たく扱われて傷ついた相手の気持ちなど少しも慮ってはいません」
憤怒の感情が全身を襲った。玄弥からどれほど嫌われても、鬼殺隊から遠ざけたい。その切ない願いを自分勝手だと断罪されたのだ。周囲は恐怖に静まりかえり、皆息を殺す。
「何だとォ?テッメエ……イイ度胸だなァ」
実弥はゆっくりと立ち上がり、晶の前に仁王立ちになった。大きな目は怒りに血走り、怒気が身体から揺らめき立つ。
「こんなところにいて死ぬのが幸せかよ!アイツはどっかで幸せに暮らしゃあいいんだよォ!」
「幸せかどうかなど、相手に聞かなくては分かりません」
晶は続ける。隠が顔面蒼白になって晶の袂を引く。必死に止めさせようとするが、晶は振り返りもしない。大きな目で実弥をひたと睨みつける。
「弟の幸せは、弟が決めるんです。兄ではありません」
「弟じゃねえっつってんだろ!家族はみんな死んだ!」
「なら、あの子が何をしようと自由ではありませんか。何故せっかく選別まで通った貴重な人材に辞めろだなどと仰るのですか」
筋が通り過ぎていて、実弥は舌打ちした。
「人のことばっか考えてるようなヤツがやっていけるほど甘くねえ!死んだら元も子もねえだろうがァ!」
玄弥は優しい。きっといつか他の隊士のために命を落としてしまうだろう。それは何よりも耐え難い。
「し、不死川さまだって!……あの子のことを心配してばかりいるではありませんか!」
「……!」
グッと詰まった。もう舌打ちもできない。
「…………不死川さまが大切に思う相手も、不死川さまを大切に思っているのではありませんか」
それは間違いない。だが、不甲斐ない兄のくせに玄弥に大切にしてもらう価値が自分にあるとは思えない。何より兄ではなく玄弥自身の幸せを考えてほしい。
「…………遠ざけているうちにあの子が死んだら、不死川さまが死んだら、どうなるのですか。消えない後悔しか残りません」
痛いところを突かれて実弥はさらに逆上した。
「うるせえ!」
「お願いです。一度だけでも話を……」
晶は、実弥の足下に平伏して必死に懇願した。
「黙れッつってんだろ!」
落雷のような大声だった。晶は目をつぶって首をすくめた。怒りで赤黒くなった顔は地獄の鬼のようだ。実弥は、震えながら突っ伏して泣いている晶を見下ろした。
ところが、晶はなおも食い下がった。
「弟さんの、し、幸せを願っていることを、お話して……」
「チッ!テメエ、本ッ当に叩き出されてえのかァッ!今すぐ出て行っても構わねえんだぞォッ!」
「お、お願いいたします……!」
実弥は苛立って舌打ちした。これほど脅しても屈しない女には、出会ったことがない。自分が本気になったら蹴破れそうな華奢な身体で、恐ろしさに震えて泣いているくせに、引かないどころか押してくる。
「しつッけえんだよォ!」
おそらく明日になっても明後日になっても、同じ態度なのだろう。我慢ならない。
「オラァ」
実弥は屈むと、晶の顎を拳でふり仰がせ、目を合わせる。細い顎が震えていた。
「……テメエ、この屋敷で俺に向かってそこまでの口を叩きやがって、タダじゃ済まされねえぞ。分かってんのか」
晶は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも目を逸らさない。
「あ、あの子に会って……くだ…………!」
涙に霞んでいるくせに、その目に宿る熱と懇請は微塵も減らない。
「ケッ!」
実弥は乱暴に晶の顎から手を離した。
「俺の言うことが聞けねえんなら、ここから出ていけ。とっとと失せろォ!」
実弥はそれだけ言い渡すと、舌打ちしながら部屋を出て行った。