日羽がそこまで書きかけた時、実弥は思わず舌打ちした。
「なんの話だァ、あの馬鹿」
血が昇って顔が赤くなるのを感じる。
「誰かの身代わりなんかのわけがねぇだろ!死んだやつにも生きてるやつにも無礼だろうがァ!」
晶がカナエとの淡い恋を知っていることも、カナエと自身を引き比べていたことも、全く気づかなかった。カナエの思い出は永遠に実弥の心に刻まれているが、それはそれだ。今生きている晶とは比較にならない。
『それに、痣者となった不死川さまに縁談が持ち込まれるなら、きっと実家のしっかりした』
「もういい、止めろォ」
実弥は我慢ならなくなった。晶のもの思いを全く感じ取れなかった自分は、あまりに幼くて間が抜けている。
先のない痣者に縁談となれば、相手の女にはよくよく言い含められるはずだ。その上で夫婦となり、子が出来れば女の実家が後ろ盾となって養育する。しかも、数年のうちに女は寡婦になってしまう。おそらくその後の良縁は期待できなくなるのだから、子の養育はもとより女の行く末と名誉まで守ってやれるしっかりした実家が必要なのだ。
逆に言えば、そのような条件の揃わない女に痣者との縁談は持ち込まれない。子の養育も女の行く末も不安な有様では、痣者たちにとっても不幸な結婚になってしまう。
(あいつ、そんなことまで考えて……)
天涯孤独の晶には頼るべき実家も、縁談を世話してくれる親戚もいない。晶は、実弥に縁談が用意されるのをただ黙って見ているほかないのだ。
「クソが……ッ」
自分の感情と痣故の早世しか頭になかったなど、あまりに思慮が浅い。
『慰めようと思って、一緒に躑躅を見に行こうって誘いましたが、行く前に前に風屋敷を出てしまって』
「その後連絡はないのか?」
『この小包が届いただけ』
本を手に取った日羽は何かに目を留めた。栞が挟まっていた。白くてごく小さい花の押し花。実弥はその花にかすかに覚えがあった。いつか晶に持ってきてやったものかもしれない。
「これは、勿忘草……?」
冨岡が栞の花に触れながら尋ねる
『はい。白は珍しいけど』
日羽が書く。
『晶ちゃんは白い花が好きだから』
日羽が長い指を添えて鉛筆を走らせる
『勿忘草の花言葉は、私を忘れないでと私を忘れて』
「矛盾した意味だな……」
冨岡が呟くと、日羽は少し困ったような顔で微笑んだ。忘れてと言いながら、本心では忘れてほしくない。そんな密かやな悩みを易々と読み解けるほど実弥も冨岡も色恋に慣れていない。
栞が挟まれていた頁には、和歌とその解説があった。
なかなかに 黙(もだ)もあらまし 何すとか
相見そめけむ 遂げざらましに
「どういう意味だよォ?」
「……恋の歌だな」
冨岡が和歌を読み直しながら答える。
「――最後まで添い遂げることができないのなら、恋なんかしないで黙っていればよかった、そういう意味だ」
衝撃。一瞬目の前が白く飛び、声にならない呻き声を上げた。思わず目を瞑る。胸を一突きされたような痛み。花曇りの別れが鮮明に思い起こされる。
日羽は深い青い目で実弥を見つめた。砂金のような金粒が冷たく煌めく。冨岡も何も言わず、黙って実弥を見つめていた。
「……クソがァ……」
苦しさと恥ずかしさのあまり声が小さくなる。頁も栞も、ただの偶然であってほしいと願った。本に残る晶の苦悩の痕跡が辛かった。
「不死川……」
冨岡が静かな声で話しかけた。
「……偶然だ。月宮が……何か狙った訳じゃない」
断定的な物言いが却って秘めた葛藤を剥き出しにした。日羽はまたも実弥をじっと見つめた。美しい目が何もかも見通すように実弥を射抜く。
狙っていたのではないとすれば、ふと浮かぶ想いが溢れ出て、晶にあの頁を読ませ、勿忘草の栞を挟ませたことになる。
「日羽、躑躅はどこに見に行くつもりだったんだ?」
冨岡が尋ねる。
『音津のつもりでした。躑躅で有名だし、白い躑躅もあるから』
躑躅もかつて持ち帰ってやったことがある。そのときも晶は一輪挿しに飾ってずいぶん長く眺めていたのを思い出す。実弥は沈痛な面持ちで立ち上がった。
「……不死川」
表情の貧しい冨岡が、それと分かる顔で心配している。
『晶ちゃんから手紙が来たら、ご連絡いたします』
日羽は冨岡と実弥を代わる代わる見ながら書いた。
「……邪魔したぜェ」
実弥は、部屋を出ると後ろ手に襖を閉めた。顔を歪めたまま磨き込まれた廊下を足早に進む。
「不死川さま、もうお帰りで?」
呼び止める主人に返事さえせず、実弥は足早に『すばる』を後にした。
緑の陰を風が吹きすぎる。陽射しは明るく、世界の全てがいきいきとしている。命の輝きに満ちた光が余計に実弥の心の陰を濃くした。
ーー恋なんかしないで黙っていればよかった、そういう意味だ
黙っていれば、まだ風屋敷にいたのかもしれない。黙っていれば、晶の想いに気づかないままだったかもしれない。
「畜生……」
実弥は心の裡で自分を罵倒した。