夜の闇は夜明け前が最も冥い。東の空に猛々しい朝日の面影は未だ無い。
実弥はまだ暗い夜道を急いだ。夜明けを待つなど薄鈍い。行動が早い実弥は、思いつくや手早く着替えてすぐに屋敷を出発した。今から行けば、紗倉山方面行きの始発の汽車に間に合うだろう。
(間違いねえ。きっとそうだ)
実弥は確信に満ちた足取りで歩いた。
(白い花だ……!)
「無惨を斃したら、何をなさいますか?」
かつて晶にそう問われたことがあった。鬼は斬っても斬っても、蛆のように湧いてくる。それを全て討伐し、平和な夜が来たら。
「んなこと、考えたこともねぇ。無惨さえ斃せりゃそれでいいからなア」
「……まあ、そんな」
晶は心底驚いた顔をして、次に眉をよせて真面目な顔で実弥を覗き込んだ。
「それでは……負けてしまうのではありませんか?」
「ア?なんでそうなるんだよォ」
「『梅屋』のおはぎを食べに行かないのですか?ご家族やご友人のお墓参りは?」
「……」
「斃した後やってみたいことがひとつも無い……行ってみたいところも、食べてみたいものも、会いたい人も無い……なんて。生きていたら、何か一つくらい欲望があるはずなのに…………それが一つも…………ない…………」
晶は噛み締めるように言った。
「……本当に……生きているのでしょうか……?」
陽の光で緑紫に変化した大きな目が実弥を覗き込む。
実弥は言葉に詰まった。
無惨を討ち果たした夜明けに、温かい布団で休みたいと思わないだろうか。おはぎを食べてからにしたいと、それは玄弥の無事を確認してからだと、そんな願望はきっと湧き起こる。
「無惨と相打ちだとしたら……本当に無惨を斃せたのか分かりませんし」
「……まァ、そう……だなァ」
鬼殺隊の目標は、無惨を斃すこと。斃せば平和な夜が到来する。つまり鬼のいない夜を見なければ、悲願の成就は確かめられない。
「たしかに……戦うこと自体が目的じゃねえ」
鬼が滅せられた平和な世でやってみたいことがないのは、戦いに打ち勝ち生き延びることを予定していない。すなわち、それまでの戦いで死んでしまうことを自ら暗に認めているのと同義だ。
気づかなかった理屈に実弥はひどく納得した。
「……フン、じゃ、お前は何がしてえんだよ」
実弥が尋ねると、晶は笑って答えた。
「夜桜を観に行ってみたいです……もう鬼は出ないはずですから」
実弥は、美しい夜桜が月光を浴びて咲き誇るさまを思い浮かべた。そんな光景をのんびりした気持ちで見たことなどない。夜は鬼が跋扈する。玄弥の、まだ見ぬ誰かの幸せのために、鬼を狩ることが先決だ。
だが、無惨を斃せば跋扈する鬼はいなくなるはずで、夜桜をゆっくり愛でることができるのだ。気が遠くなるほど美しく、夢みることさえ許されないほど儚いと思った。
「花のたくさん咲いているところにも行ってみたいです」
「白い花だろ」
「ああ!素敵!そうですね、行ってみたい!」
晶は破顔一笑した。
「ハッ、チョロいな、お前はよォ」
それから、二人で知っているかぎりの楽しい催しを話した。
数百発の花火が打ち上げられる夏祭りがある、仲秋の名月にはおはぎを供えてはいけないのだろうか、巨大な笹飾りを誇る七夕祭りにはどんな願い事が書いてあるのか、仮面をつけて夜通し踊る祭りで踊ってみたい、北国には壮麗な山車が練り歩く祭りがあるという……。
実弥は、思い浮かべてみては平和な世の楽しい催しとこの世の美しさに酔った。夜とはそんなにも平和で楽しく美しいものなのだろうか。
(あんときゃ、想像もできなかったが……)
今まさにこの瞬間も、鬼のいない夜だ。夜を衝いて紗倉山へ花を見に行くのだ。こんなことが出来るようになるとは、数ヶ月前まで思いもしなかった。
(まだ……やってねえことがたくさんあるじゃねえかよ)
大切な人を全て失いもはや生きる甲斐など何もないと思っていたのに、まだやり残したことがあった。平和で楽しく美しいこの世を見て歩く。夜桜も花火も七夕も月見も、無惨を斃した後にしかやれないことばかりだ。
玄弥が、弟妹たちが、仲間たちが生きていたら、やってみたいと願ったことの全てを彼らの代わりに味わうのだ。自分がやって欲しいと願ったように。それでこそ、彼らの切望した幸せな人生を体現したことになるのではないのか。
急にあたりが明るくなった。ざわめき。雄鶏の声。東の空が白々と明るくなる。
夜明けだ。
実弥は、ふっと心が浮き上がるのを感じた。
「月宮……」
ふと口をついた。
それを自分で聞いて、実弥は刹那に悟った。
痛いほど鮮やかに蘇る小さな姿。楽しい夜は晶と一緒に過ごしたい。鬼のいない平和な日々を共に暮らしたい。たとえ数年の命だとしても、それでいいと言ってくれるなら、その全てを捧げるまでだ。
「月宮……!」
実弥はいつの間にか走り出していた。