鬼後伝・風月玄TACK   作:十果 円遠

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第29話 梔子が恋を見ている

 紗倉山駅に降り立ったのは、昼前だった。

 

 朝から曇りで、時折さあっと雨が降る。このところ天気ははっきりせず、季節はゆっくりと梅雨へと変わろうとしていた。

 

 木造の駅舎にはプラットフォームはなく、小さな梯子があるだけだ。おそらくそれほど乗降客の多くないだろう。実弥は切符を手渡しながら駅員に尋ねてみると、実直そうな駅員はすぐに教えてくれた。

 

「ああ、紗倉山公園は綺麗だよ。梔子はまだだろうけど、銀梅花は咲いてるはずだ」

 そう言って右手の先のこんもりした丘を指差した。

 

 梔子は沢山の蕾をつけ、今しも咲き始めようとしている。淡い緑の蕾は静かに綻び、清浄な雨露を纏って香気を放つ。盛りの時には、この地を桃源郷となすだろう。

 

 鴉が報告した阿曽、伯方、太淀、そして日羽の話してくれた植野。それだけ聞いても関連性を見破れない。

 

 だが、そこは全て実弥がかつて任務に出向いた土地だった。そして、任務帰りに晶に白い花を持ち帰ってやった。すなわち共通項は

 

(――俺が白い花を持ち帰ってきた場所だ)

 

 白梅、小手毬、山法師、白菊、躑躅、梔子、銀梅花……。直接手渡すのは気恥ずかしく、そっと晶の部屋の前に置いておいた。大抵晶はすぐに気がつき、いつも嬉しそうに礼を述べた。

 

(あの笑顔が…………)

 

 見たかった。そして、その期待は常に叶えられた。笑顔の少ない鬼殺隊でそれは一服の清涼剤だったが、自分にはそれ以上の意味があった。

 

 雨雲の下、遠くに小さな東屋が見える。その下で見覚えのある人影が動く。

 

――月宮……!

 

 間違いなかった。目立つほどに短い髪と長い一房。小柄な身体。白っぽい着物と黒の羽織。読みは正しかったのだ。

 

 逸る気持ちを抑えて近づこうとした時、男の声が聞こえた。

 

「亢介さまがずっとお待ちです……」

 

 不快な名。思わず顔を顰めた。

 

「晶さま、どうかご一緒に……」

 

 晶は硬い表情のまま俯いている。男たちは少しずつ晶との間合いを詰める。実弥は、腕組みをしたまま背後から声をかけた。

 

「おウ、こいつになんか用かイ」

 

「……ヒッ」

 

 男二人は振り返って怯えた顔をした。先年の赤坂の一件を知っているのだろう。晶も実弥の声に振り返った。

 

「テメエ、もう晶さまと関係ねえだろ」

 

 男たちは、実弥の威圧感に気圧されたが、精一杯言い返してきた。

 

「ハア?関係ねぇのはテメエらだろうがァ。汚ねえ面ァ晒してんじゃねぇ。失せろ」

 

 実弥は男をグイと押し退け、睨みつけた。

 

「南條のヤツに言っとけ。他人の女房に手ェ出すなってなア」

 

 実弥と男たちとでは貫禄が違う。男たちは実弥の迫力に縮み上がり、手も足も、声さえ出ない。実弥は彼らにジロリと一瞥をくれてから、晶に近づいて優しく話しかけた。

 

「ほら、行くぞ。俺から……離れるなよ」

 

 実弥は、男たちから庇うように晶の背を軽く押して歩き始めた。驚いた様子の晶は、戸惑いながらも実弥に言われるまま歩く。

 

 重たい梅雨時の雲が薄れ、雲間からかすかに陽が差し込んでいる。晴れ間にパラパラと降りかかる雨を避けて、大木の下に身を寄せた。木々の葉先には透明な雫が宿り、光を反射してキラキラと輝く。銀梅花の白い花が星のように咲く傍らで、梔子の蕾がかすかに膨らんでいく。

 

「……月宮」

 

 手を離しておずおずと話しかけた。晶は俯いたままだ。体温を感じるほどすぐ近くにいるのに、ひどく遠くに感じる。手を離すんじゃなかったと内心後悔した。

 

「……ありゃア、南條のヤツ……だな」

 

 チラリと男たちのいたあたりに目をやる。宇髄の予想通り、晶の行方を掴んでいたのだ。

 

「けど…………あー……」

 

 実弥は緊張から鼓動が速くなる。晶のうなじを見つめた。うなじに届かない短い髪は、初めて会ったころと変わらない。

 

「……その、俺と……一緒にいれば……あ…………」

 

 顔が赤くなっているのが自分でも分かった。晶は目を見開いて実弥を見上げ、じっと見つめてくる。

 

「……だから……………………」

 

 実弥は見つめられて、言葉が出てこなくなった。雲が風に流されて薄くなり、辺りが少し明るくなる。

 

「……どうして……ここが………………?」

 

 晶は、少し後退りながら尋ねた。

 

「お前の後を辿って……すぐ……気がついた…………から」

 

 驚きに晶の目が少し広かった。無惨を斃したら美しい夜を楽しみたいと話し合った。絵空事のような計画を立てては楽しんだ。

 

「……一緒に……行こうと思ってた…………」

 

「……」

 

「夜桜は……終わっちまった、な…………」

 

 実弥は、足下の小石を軽く蹴った。それはどれほど美しく楽しい夜だったろうかと想像した。あと数回しかないのに、数少ない機会を逃してしまったのだ。

 

「あ……まあ、来年は……一緒に…………」

 

「……」

 

「再来年でもいい。俺が、生きてたら…………ずっと…………」

 

 また梢が揺れて雫が降りかかる。雫と共に銀梅花の甘い香りが辺りに漂う。

 

「ご、結婚なさる、と……」

 晶が震える声で訴えた。

 

「しねえ!」

 

 晶が言い終わる前に実弥が遮る。大きな声に晶がびっくりした顔をする。

 

「……もう、お前と……してんだろうが」

 

 晶の大きな目には、戸惑とも喜びともつかない感情が浮かんでいる。

 

 法律上は夫婦でありながら、手を握ったことすらない。紙一枚の、なんの実質もない夫婦。それなのにその紙一枚を破棄せずにいたのは、二人ともそうしたくなかったからだ。

 

「だ、だからお家も……」

 

「買ってねえ」

 実弥はこれも即座に否定した。

 

「これからはあの屋敷じゃ広すぎんだろ。だから……手頃なのがあればと思って見に行った。そンだけだ」

 

 紹介された家の、枸橘の生垣を思い出す。

 

「……業者のヤツらが、生垣がきれいなんだって…………」

 

 実弥はそっぽを向きながら告げた。心臓が激しく高鳴る。季節になると枸橘が殊の外美しいのだと業者は自慢していた。

 

「白い……花が咲くって……だから…………お前……が…………」

 

 気にいるかもしれないと思った、とまでは声が続かなかった。

 

「……白い、お花……?」

 

 晶と碌に話もしなかったくせに、屋敷を引き払っても一緒に暮らすつもりでいた。間抜けな上にせっかちだ。実弥は苦笑した。

 

「でも……あ、あの日……!」

 

 風が梢を大きく揺する。梢がザワザワして、そのたびに水晶のような雫がぱらぱらと降りかかる。

 

「あっ……」

 

 実弥は晶をひょいと抱き上げて、盛り上がった木の根の上に立たせた。身長差が少し縮まって、晶の瞳に映る実弥の姿が見える。

 

 あの花曇りの日、羽織越しの接吻に実弥は全く反応できなかった。嫌だったからでは断じてない。戸惑い、躊躇ったのだ。

 

 実弥は晶の肩に手を添えて真っ直ぐに見つめた。

 

「お前……俺は痣者だぞ。知ってんだろ」

 

 晶には聞くまでもない。恋する覚悟が必要なのは実弥だ。

 

「あと数年で……くたばっちまうんだぞ」

 

 もし自分が晶の兄か父の立場なら、絶対に止めておけと忠告するだろう。数年で死ぬ男に連れ添うなど、余計に悲しむだけだ。

 

「おまけに、俺には……何もねぇ。家族も仕事も学も……字も書けねえ」

 

 晶は微笑んだ。

 

 雲の切れ間から光が落ちて、晶の不思議な色の瞳は緑紫に透ける。

 

 いつまでもこの瞳の中に映っていたいと知らないうちに願い続けていた。それにようやく気づいたのだ。無惨を斃し生き残った後、自分が恐れてきたことが今なら分かる。

 

 鬼殺隊のなくなった今、ここにいてほしいと言えなかった。もはや地位も権力もなく、職も学もなく、命さえ残り少ない。そんなガラクタのくせにこのまま一緒に暮らしてほしいと願うのは強欲すぎると思った。痣者など嫌だと言われるのが怖かった。屋敷を出て行くと告げられるのが恐ろしかった。

 

 だから、晶と顔を合わさないよう多忙を理由に屋敷に寄り付かずにいた。

 

「そんなヤツと一緒に暮らして……辛えだけなんじゃねえのかよ」

 

 そのくせ一緒にいたくて堪らなかった。顔が見たかった。帰宅したとき、笑顔を向けられると胸が甘くときめいて痛いほどだった。

 

 だが、その一瞬の後にはいつか来る別れに怯え、残務処理に託けてすぐに屋敷を後にしてきた。そんなことを続けていても必ず終わりが来てしまうと分かっていたのに、ただただ怖かった。

 

 とんでもない臆病者だ。

 

 晶は、実弥にやっと聴こえるほどの小さな声で囁いた。

 

「……私の幸せは」

 

 晶は実弥の手に自分の手を添えた。晶の温もりが小さな手を通して伝わってくる。

 

「……口が悪くて、気が短くって、強くて、優しくて……そんな方の傍にいることです」

 

 実弥の中で何かが音を立てて崩れ落ち、ドッと晶に向かって雪崩こんだ。実弥は晶を静かに抱きしめた。

 

「……なら、ずっといろ。お前が飽きるまで、いつまででもずっと」

 

 小さな背中や柔らかな髪を繰り返し撫でる。玄弥が、伊黒が、たくさんの仲間たちが、この幸せに導いてくれた気がした。

 

「……お前はもっと……利口だと思ってたのによ。この馬鹿が」

 

 実弥は、晶の頬を優しく撫で、額にそっと口付けた。瞼にも頬にも優しく口付けた。

 

「……もう」

 

 晶も、実弥の背中に手を回してくる。

 

「もう離してやれねえからな」

 

 二人はしっかり抱き合った。傍では梔子の蕾が今しも開こうとしていた。

 

 

 

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