『松野』を出てから数日。さらに遠方の藤の家紋の家に行く途中だった。
夜明けごろから降った雨はすっかり上がった。葉桜の梢が風に揺れるたびに降ったばかりの雨の雫が落ちる。雫は光を反射しながら、草花の香りを強める。生きとし生けるもの全てが、命を大きくしようと水と光に手を伸ばす。美しい季節がやって来た。
空にかかった大きな虹を見ながら茶屋で休んでいると、店のすぐ近くで子供の声が聞こえた。見ればまだ幼い兄弟が言い争っている。
「兄ちゃんにだって、できねえこともあるんだよ」
兄が虹を見上げながら言う。
「なんだよ、兄ちゃんのバカ〜、とってよ〜」
「仕方ねえだろ。虹は神様が作ってんだから。人間の兄ちゃんには取れねえよ」
「うわわあぁあん」
弟は、派手な鳴き声を上げながら、手の陰から兄をチラリと見る。兄は素早くそれを見て、クスッと笑った。
「ほら、もう諦めろ。分かるだろ。団子を買ってやるから」
「ほんと?」
現金な弟はパッと手を離して顔を輝かせる。実弥は微笑んだ。
「おじちゃん、団子をおくれ」
小さな手で小銭を渡す。兄は買った一本だけの団子を弟にそっと手渡した。
「ほら、落とすなよ」
弟はニコニコして兄に手を引かれて行った。
(――虹は神様が作っているから、人間の兄ちゃんには取れない……か。俺なんかよりずっと利口だぜ)
実弥は、少年の言葉を反芻した。
虹も、星も月も、どんなにねだられても取ってやれない。愛も命も、どんなに願っても必ず叶うとは限らない。人の力の及ばないものがこの世には存在する。
そうだ、同じような言葉を聞いたことがある。
――星の光の中で懸命に生きるだけです
晶にそう言われたのは、蝶屋敷を退院してすぐだった。
意識不明の重体から目覚めた後、実弥は蝶屋敷で順調に回復した。
「不死川、よかった。よく生き延びてくれた」
意識を取り戻した実弥を見舞った宇髄は、大きな目を潤ませて微笑んだ。だが、意識は戻ったものの、身体はほとんど動かせず声も出ない。
「ゆっくり治せよ」
宇随の声を聞きながら、泥のような睡魔に囚われた。あの世との境のような意識も自我もない中で、実弥は寝ては醒め、醒めては寝た。
ようやく声が出せるようになったころ、柱で生き残ったのが二人だけと聞いて、何故自分は彼岸に行けなかったのか不思議に思った。だが、その理由を考えることも、これからの人生を考えることもなかった。明日も世界が在るなど、血鬼術の一種か奇術かと疑いたくなる。
(なんだよ、今更……)
大切なものはもう何一つ残っていない。死にたいのにそれは絶対許されず、託された生は余りに重い。
痛みを堪えながら、ゆっくりと腕を伸ばして南蛮銃を手に取る。玄弥が南蛮銃で闘っていると知って、同じ武器でせめて一体でも鬼を斃してやりたいと考えて誂えさせたものだ。玄弥のそれは、無限城で玄弥ともに崩れ去った。
甦る絶望的なあの瞬間。実弥は無意識に銃口を口に突っ込んで、なんの考えも感情も躊躇もなく引き金を引いた。
カチッッ
乾いた音が白い壁に妙に強く反響する。弾は出ない。撃ち尽くしたのだったか。蝶屋敷の者たちが念のために抜いたのか。
「……風柱さまあっ!」
すみが血相を変えて駆け寄り、銃を引ったくる。その拍子に腹の傷が引き攣って激痛が走った。
「痛ッ……!」
「折角目を覚ましたのに!なんてことをなさるんですかあー!やめてくださいよおー!」
泣き声が腹の傷に響く。実弥は空っぽだった。
薬を飲まされ、傷口に膏薬を塗られて包帯を替えられ、食事も食べさせられて、暗くなると目を閉じた。
ただ、大きな赤子のように自分からは何もせず、全てされるがままだった。泣きも喚きもせず、言葉を発することもほとんどなく、目も虚だった。何もする気になれず、話すのも見るのも聞くのも億劫だった。いや、無意味で空虚だった。
横たえられて大人しく天井を見上げる様は、これがあの風柱かと思うほど人が違っていて、周囲の者たちは却って気を揉んだ。時折のぞき込む宇随の沈痛な顔さえ夢の中の絵のようだ。
「風柱さま、もうだいぶ傷が塞がってきています。熱も下がって、顔色も良いようです……あとはゆっくり静養いただければ…………」
傷の具合をみた神崎が心配そうに声をかける。
「でも、まだしばらくこのままこちらに……」
「屋敷に……帰る」
実弥は無表情に答えた。
「風柱さま」
「……世話になったなァ」
実弥は、さっさと屋敷に引き上げた。