白い靄から浮かび上がるように声が聞こえる。
「兄ちゃん」
そう呼びかけられるのをどれほど熱望したことか。
「玄弥……!」
「俺、もう行くよ」
白い靄に半ば包まれてよく見えない。実弥は靄を掻き分けた。
「待て、お前はどこに行くんだ?俺と一緒じゃねぇのか?お前が、お前さえ幸せなら、俺は」
痛みなのか希望なのか判然としない苦しさが胸を締め付ける。
「なら、俺の幸せを叶えてよ」
靄の向こうの玄弥は団子でもねだるようにいたずらっぽくて甘えた声だった。
「……お前の、幸せ?」
「兄ちゃんの笑顔を見ることだよ!」
すうっと玄弥が後ずさる。途端に生爪を剥がされるような辛苦が襲う。実弥は必死に手を伸ばした。
「玄弥……玄弥、待て!」
「どんな幸せも希望も叶う世界だよ!ほら!」
「玄弥!」
玄弥は声だけ残して明け染める眩い光の中に消えていった。
暗闇で目を開ける。
麻痺した頭では見えているものが風屋敷の天井だと認識するのに数秒かかった。ふと涙が枯れていることに気づく。悲しくないわけではないのに、もう涙が一滴も出ない。
「不死川さま」
すぐ近くで晶が声をかけた。薄暗がりの中で緑紫の目が心配そうに実弥を覗き込んでいる。
「……夜が、明けます」
そう言って晶は静かに障子を開け、雨戸を引いた。実弥は、誘われるように外へ目を遣った。まだ暗い空の端に、陽が昇る。まだ弱い朝の光が実弥の顔に当たる。
夜明けだ。
白く降り積もった清浄な薄い雪の上に朝日が差す。冬の冷たく清冽な空気が涙で火照った頬を撫でる。夜の帷は瞬く間に光に蹴散らされ、辺りは白々と明るんでいく。
世界が目覚めていく瞬間だ。
――もうどんな幸せも希望も叶う世界だよ
人を喰らい理不尽な不幸をもたらす悪鬼さえ、朝日の前には塵と消える。悪鬼は――玄弥が、時透が、皆が退治してくれた。幸せで平和な世界を残して。
「あ……ああ……!」
実弥の頬を涙が伝う。死に損なったのではない。生き抜いたのだ。鬼のいないこの世界へ。皆から託された幸せと命を。
そこへ晶が白湯を持ってきた。
「どうぞ。一口だけでも」
勧められるまま口にした白湯は、人肌より少し温かくかすかに塩味で、涙のような味がした。口から喉、胃へとゆっくり落ちていく。
身体の内側が温まり、枯れ切った心を潤した。悲しみが失せたわけではないが、少しだけ遠くなった。
そんな夜を、繰り返した。
涙さえ涸れ果てた実弥は嗚咽し、夢の中でも悲しみに腸を捻った。気付くと、いつもいつのまにか晶が傍にいた。晶は実弥の背中を優しくさすり、涙を拭う。そして、泣き終わると白湯を飲ませる。
その度に悲しみは靄が朝日に溶けるように少しずつ小さくなった。
(女の前で、あんなに泣いたことはなかったな)
実弥は、緑の山の向こうに架かる彼方の虹を眺めた。その上にうっすらともう一つの虹がかかっている。
「おや、二重虹だ」
団子屋の主人が嬉しそうに見上げた。
「はは、兄さん。良いことがありそうだねえ」
「そうなのかイ」
「二重虹が出ると、悪いことが終わって良いことが始まるって言いますよ。楽しみだねえ」
鬼は滅殺した。悪いことは終わったのだ。それでは、これから始まる良いこととはなんだろうか。立ち上がりながら、実弥の胸にふと晶の笑顔が浮かんだ。