挿絵はひのひのきさん(Twitter:@hinohnk)より掲載許可を頂いています。
針は朝の五時を指していた。身体が時間を覚えているのでアラームは切ってある。
寝ているスペちゃんを起こさないようにそっと着替える。
外はまだ暗い。車の通りも少なく、街は静かに朝を待っている。
この瞬間を走るのが好きだ。走る靴音と息遣いだけが響く。吐く息はぼうっと白くなる。誰もいない世界に、私だけの足あとを付ける。
今日は晴れそうで良かった。登る朝日を見ながら、そう思う。
あと少し、もう少しだけ走っていたいけれど、夢中になって遅刻するのは良くない。
だって今日は、私からお願いをしたのだから……。
思い出すと少し恥ずかしくなって、ペースが上がってしまった。
寮に戻ってシャワーを浴び、出掛ける支度を済ませる。スペちゃんはもう起きていた。
「スズカさん、気合入ってますね。まるでレースの時みたい」
スペちゃんの言葉に、どきっとする。今までの私だったら、こんな事はなかったかもしれない。
「そうね。走るのと同じくらい、楽しみかもしれないわ」
この言葉は嘘になるかもしれない、と思った。
だって、あの日の栄誉よりも。URAファイナルズの決勝の日よりも。胸が高鳴るのが分かってしまうから。
「行ってらっしゃい、スズカさん」
スペちゃんには、今日の予定を一緒に考えてもらった。感謝してもしきれないくらいだ。
「行ってきます、スペちゃん」
お土産をいっぱい買って帰ろう。スペちゃんもきっと今日の私を応援してくれているから、そのお礼も込めて。
寮を出て待ち合わせのバス停まで歩く。約束の時間まであと10分。しばらくして、トレーナーさんが来る。
「ごめん、スズカ。待たせたか」
「ええ。待ってました」
必ず帰ってくると約束したあの日から。ご褒美を用意して待っていると言ってくれたあの日から。ずっと、ずっと。
「今日の景色を、待っていたんです」
「無事に帰ってきたら、遊園地に行こうって約束したからね」
確かにあの日から待たせちゃったな、とトレーナーさんは笑った。
バスに揺られて一時間半、降りたらそこはもう遊園地。
入る前からアトラクションを眺めていたら、トレーナーさんがチケットの購入を済ませてくれていた。
フリーパスを予約してくれたらしく、並ばなくても乗れるみたい。
どこから行こうか、とトレーナーさんは地図を広げる。
大丈夫。今日の予定はスペちゃんにも手伝ってもらったから。
「えっと、ゴーカートか、メリーゴーランドでしょうか」
いきなり絶叫マシンに乗っては疲れてしまうから、まずはやさしいアトラクションから。絶叫マシンはその後で、最後は。
「へえ、ゴーカートか」
地図と私の顔を何度か見比べて、「スズカ、俺とレースしようか」
トレーナーさんが少しだけ、意地悪そうに笑った。
走るときは右のペダルを踏んで、止まるときは左のペダル……。
「あら?」
頭では分かっていても上手く走れない。これじゃ降りて走ったほうが断然速い。
「大丈夫、さっきより上達してるよ」
トレーナーさんは簡単そうにカートを走らせる。私もあんな風にと思っていたけれど、もう出走の時間だ。
ゲートが開く。トレーナーさんがどんどん遠くなっていく。
「あれ、進まないわ」
いくらペダルを踏んでも動かない。と思っていたら、ブレーキを踏んでいた。やっとカートが走り出す。
せっかくのレースなのに、上手く走れないのはもやもやしてしまう。
いけないわ、今日はせっかくの日なのに。
「スズカ、止まって!」
トレーナーさんの声にはっとする。縁石にぶつかる所だった。
「落ち着いて、バックして、ハンドルを切って。そう、その調子」
トレーナーさんは途中で止まってこちらを見ている。トレーナーさんの指示を聞いてペダルを踏み、ハンドルを切る。
降りて歩いた方が早いくらい、ゆっくりな走り。それでもトレーナーさんは、私をずっと見守ってくれている。
それに答えようと思って、必死にカートを走らせた。
「一着でゴール! お疲れ様でした!」
スタッフの方が旗を振っている。
「一着?」
振り向くと、トレーナーさんはまだゴールラインの手前にいる。すぐ気付いたのか、カートを走らせて二着。
トレーナーさんは恥ずかしそうに笑って、おめでとうと言ってくれた。
「せっかくのレースなんですから、今日くらいゴール前で待っていなくてもいいんですよ」
「確かにそうだな」
じゃあもう一回、と再入場。今度はトレーナーさんに大差で負けた。
次こそはと思ったけれど、他のアトラクションに乗る時間がなくなってしまう。
「次に来た時は、私が勝ちますね」
トレーナーさんとのレースの約束をして、次に向かう。
ゴーカートの後はコーヒーカップ、メリーゴーランドに乗る。
そうしたら、少し早いけれどもうお昼。
「混まないうちに行こうか」トレーナーさんが手を引いてくれて、早めの休憩を取る。
レストランの席に付くと少しずつ込み始めた。早く来て良かったですね、なんて二人で笑う。
それからはお昼を食べながら、次の話。
少し時間を置いてからジェットコースターに乗ろう、とか。だったら今のうちにお土産でも見よう、とか。
トレーナーさんはいつも、きっとこの瞬間も、私に気を掛けてくれている。
遊園地のフリーパスも、並ぶ前にレストランに入ったのも、きっとそう。
私は何をトレーナーさんに返せるのだろうか。
でも、それを言うとこの人はきっと、『スズカが走ってくれるだけで嬉しいよ』と平気な顔で言う。
ずるい人。本当に、本当に。
「スズカ?」
顔になにか付いてたか、とトレーナーさんは言う。頬にケチャップが付いてますよ、と教えてあげた。
しばらく休んだあとは、早めにお土産コーナー。
スペちゃんにエアグルーヴ、タイキにフクキタル。みんな喜んでくれるといいのだけれど。
スペちゃんのお土産が3箱で足りるか不安になって、トレーナーさんを見る。
首をひねったので、さらにもう1箱。
お土産をロッカーに預けて、他のアトラクションも見て回ってからジェットコースターへ。
乗り場には列ができていたけれど、フリーパスで先に乗せてもらった。
「スズカは得意なのか?」
「そうですね、乗るだけなら」
スピード自体は慣れているし、左回りなら回るのも慣れている。
それほどの速さなら、やっぱり走って風を感じたいけれど。ちなみにトレーナーさんは、ヒト並みには平気らしい。
どこまで行けるかな、とトレーナーさん。入り口でもらったリーフレットを二人で見る。
いくつかあるコースターの中から、絶叫度の高くないものを選ぶ。
最初はそれがいいね、とトレーナーさんも頷いた。
トロッコみたいなコースターに乗り込む。お宝探しの冒険に沿った、ストーリーライドというものらしい。
フリーパスがあると優先的に座れるらしく、先頭に座らせてもらった。
準備を整えていたら、スタッフさんに声を掛けられる。
「あの、サイレンススズカさんですか」
秋の天皇賞、応援していました、と声を掛けられる。
「えっと。いつも、ありがとうございます」
「あの日は大切なレースだったので、応援してもらえて嬉しいです」
少し不安だったけれど、うまく伝えられているかしら。
これからも応援してくださいね、とスタッフさんの手を取る。ぱっと笑ってくれて、喜んでくれたみたいだった。
コースターはまるで映画を見ているみたい。お話に夢中になっていたら、もうゴール。
トレーナーさんと、今のは良かった、易しかったね、なんて話していた。
「楽しそうだね、スズカ」
「ええ、とても」
声を掛けてくれたスタッフさんにお礼を伝えて、次のコースターへ向かう。今度は園内でも有名な絶叫マシンみたい。
「急降下に急上昇、急旋回。レースみたいですね」
そうかな、とトレーナーさん。でも、レースだって坂はあるし、コースによっては急なコーナーもある。
トレーナーさんも走ってみたら分かりますよ、と言うと笑われてしまった。
そして。
「自分で走るより早いのは、気持ちいいですね」
コースターが登った先で、先頭の景色が見えた。
レースとはちょっと違うけれど、風を切る感覚は気持ちがよかった。
「スズカは流石だな」
トレーナーさんは少しふらついていた。大丈夫とは言っていたけれど、少し休憩を挟む。
それから、乗っては休憩、乗っては休憩を繰り返して。
「次のコースターは園内最速だそうです、トレーナーさん」
「次は座席も回転するみたい、左回りだといいけれど」
「その次は……」
閉園の時間も近いけれど、あとひとつで園内のジェットコースターを完走できる。そう思ったけれど。
「ごめん、スズカ。ちょっと待って」
調子を崩したトレーナーさんの顔に、私はようやく気付いた。
気にしなくていいよ、とトレーナーさんは言う。でも疲れているのは私にも分かる。
「スズカに楽しんで欲しいし、俺の事は気にしないで」
「それじゃ駄目なんです」
そう。それは、駄目。
トレーナーさんが良くたって、私は……嫌だ。
あの日の盾の栄誉も。今まで走って来られたのも。
全部、全部。
あなたが隣にいてくれたから。
あなたが一緒に走ってくれたから、だから。
「トレーナーさんを置いて、一人でなんて走れません。それに、私はもういっぱい楽しみましたから」
トレーナーさんは、今日を楽しんでくれていますか?
そう聞くと、トレーナーさんはじっと考えて、黙ってしまった。
「トレーナーさんの行きたい所、やりたい事。見たい景色はありますか」
私はあなたに夢を見せてもらった。いくつもの景色を見せてもらった。
だから、私もあなたに夢を見せたい。いくつもの景色を見てほしい。
あの日あなたが、そうしてくれたように。
「観覧車」
ぽつり。トレーナーさんがつぶやく。
「前に言ってたろ。思い出になることをしませんか、高い所から景色を、って」
それは、確かに言った。トレーナーさんの誕生日だったはず。
確かあの時は、天気が荒れたりURAファイナルズが近くて、結局日を改める事になった。
でも、その……。
「観覧車なら俺も大丈夫。スズカにとっては、観覧車は遅すぎるかもしれないけど」
いいえ、そんなことはない。ない、けれど。
観覧車は、私には。
「私達には、少しだけ。早すぎませんか」
その先を言いかけた私の言葉を、トレーナーさんが遮る。
私の手に、その手を重ねて。
「ごめん、スズカ。俺が無神経だった」
「早すぎるなんて事はないよ、むしろ遅すぎたくらいだ」
観覧車に乗ろう。トレーナーさんの言葉が、私の心に溶けてゆく。
少しだけ温かいその手を、ぎゅっと、握り返した。
太陽はすっかり傾いて、もうじき沈んでしまいそう。
もうすぐ夕焼けだなんて、ぽつり、ぽつりと話しながら。
私達を乗せたゴンドラは、ゆっくり空へと上がってゆく。
がたん、ごとん。ゴンドラの揺れる音だけが響く。
「さっきの話だけどさ。俺は今、楽しいよ」
スズカが楽しそうだから、とトレーナーさんは言う。
「気を使ってるとかじゃなくて、一緒に走るって決めたから」
「レースの時は、ゴール前で待つくらいしかできないけどさ。それでも」
あなたの言葉を静かに待つ。その瞬間が、少しだけもどかしくなる。
「スズカが楽しそうに、誰よりも早く走れる理由になりたい。なんて、ちょっと変かな」
変なんかじゃありませんよ。だって、私もそうでありたいから。
でも無理をするのはやめて下さいね。そう言うとあなたは、人の事を言えないだろうと笑い返す。
夕焼けに照らされて、夕遊園地やその先の町並みがきらめき始める。少しずつ、今日という一日が終わってゆく。
「トレーナーさん。今日はありがとうございました」
あなたと出会ったあの日は、きっと。ここまで走って来られるなんて思ってもいなかった。
走ることしか知らなかった私の日々は、あなたと出会ってようやく始まった。
あなたと出会って、私の見る景色は色鮮やかになった。
今日だってそう。
遊園地に行きたい、なんて思ったこと。
トレーナーさんと初めてレースをして悔しかったこと。
大切な友達にお土産を買って帰ろうって思ったこと。
ファンの方に話しかけられて、私の想いを伝えられたこと。
今までの私じゃ、考えられなかったことばかり。
「私の世界を、私の未来を。あなたが変えてくれた」
「あなたが一緒に走ってくれた。ゴール前で私を待っていてくれた、だから」
「私は、いまも、あなたと同じ景色を見ていられるの」
つう、と涙が頬を伝う。どうしてだろう?
だけど。それでも私は、この気持ちのまま走り抜けたい。
「トレーナーさん。これから先の未来も、私と一緒に走ってくれますか」
返事はない。トレーナーさんは、じっと私を見つめている。
トレーナーさんの瞳は、夕日と私の髪を映して赤く煌めいていた。
「綺麗だ」
ぽつりと呟いたあと、トレーナーさんは静かに頷いて。
「これからも一緒に走ろう、スズカ」
「俺達なら何処までも走れる、何処へだって行ける、だから」
誰も見たことのない景色を、二人で見に行こう。
今度は私から、あなたの右手に左手を添えて。
「駆け抜けましょう。この夕焼けの、ずっと先まで」
いつまでも。どこまでも。見える景色の、その先へ。
少しだけ滲んだ視界は、夕日に赤く染まっていった。
観覧車を降りたら、外はもう真っ暗。
ロッカーからお土産を出して帰りのバスへ。
「明日からもまた、よろしくお願いしますね」
返事はない、もう言葉なんていらない。
私達を乗せたバスは、ゆっくりと走り出す。誰も見たことのない、私達だけの景色に向かって。