そこに男がいた。
背が高いばかりで痩せて頬はこけ、黒い顎髭が垂れ下がり、三白どころではない目玉は、カエルのように真ん丸く開かれていた。
両手や背には何も持たず、
黒の油絵の具を何重にも塗りたくったようなでこぼこの靴で一歩踏み出す度に、沼で洗ったようなマントと、肩甲骨辺りまでの束ねられた髪が揺れた。
堂々とも恐る恐るともなく静かに進むその様を見て、道の端にいた子供が「おばけ」と言った。
男が足を止めたので、その真横にあった果物売りの壮年の男は、息を呑んだ。
心の内の望みも虚しく、おばけと呼ばれた男は、果物売りの顔を、まぶたを失ったような目で見た。
「梨をください」
粘つく声で告げた男は右手をポケットに入れると、掴みだした銀貨を台の上に数枚落として、同じく台の上にあった梨のカゴを指差した。
果物売りはカッコッと言葉にならない息を鳴らしながらしきりに頷いた。この街のこの通りに店を構えて何年にもなるが、今できる接客はこれが限界だった。
その顔と梨のカゴを見比べるように視線を往復させた後、男は梨を二つだけ取って、また道沿いに歩き始めた。
果物売りはため息でもって客を見送ると、汗の吹き出した手で手近にあった布を取り、銀貨を強く拭いた。
それから、手元のカゴに落とした。
大小の銅貨一色に銀貨がぶつかり、ヂッと鳴った。
……
陽は西へ傾き、影は男の上背より長く伸びていた。
男は、まっすぐ街へ入り、いかなる戸口をもくぐらないまま、街を出た。
地平線さえ見えるような荒れ地を、一人で、歩いて進んでいた。
とっくに梨二つが芯だけになって捨てられて、影がさらに引き伸ばされて薄くなり始めた頃、男の静かな足音を押しのけて、叫び声や金属音が聞こえ始めた。
男は、音のした方を見た。
岩や背の低い枯れ木がポツポツとあるような、見通しのよい荒れ地なので、多少の距離はあれど、声の主たちがよく見えた。
男が腕をまっすぐ上げても全長には足りないくらいの大蠍が、武装した男女四人に囲まれていた。
先頭に立つ革鎧を着た男の剣や、後方から撃ち込まれるクロスボウの矢が、大蠍の外殻にぶつかって逸らされる度に、先程の金属音が鳴っていた。
叫び声は集団の号令などであるようだったが、男は、その意味を拾い上げようとして、諦めた。
先頭の男が大蠍の攻撃を捌き、後方から残り三人が遠距離攻撃で援護する、という戦いが続いていた。
小柄の女の手のひらから火球が幾度も飛び立ったうち、ひとつが大蠍の顔にぶつかって弾けると、大蠍は顔を覆うように鋏で庇いながら後退した。
その背中の上で尻尾が溜めを作るのを見て、切り込んでいた男は咄嗟に盾を構えたが、力任せに薙ぎ払う尻尾に吹き飛ばされた。
木製のカイトシールドが砕かれる乾いた音が、男の耳まで届いた。追いかけるようにして何人かが叫ぶ声もした。
吹き飛ばした先頭の男が返して叫んだが、大蠍はそれには目もくれず、これまで押し留められていた分だといわんばかりに前進した。
脚は高く、歩幅があり、全力で走る人間に追いつくのにも充分な速さだった。
三人のうち、ただ走っても逃げ切れないことを察した小太りの男が、たすき掛けした革のベルトから手のひらほどの瓶を抜き取って大蠍めがけて投げた。それを横目に見た小柄な女も、意図を察して振り返り構えた。残る女も足を止め、クロスボウに矢を装填した。
大蠍が鋏を振り、飛来する瓶を叩き割ると、女の指先から一筋に走った白く細い閃光が、透明な内容物で濡れた鋏を直撃した。
たちまち、楽器の弦を爪で擦るような音とともに、鋏を白い網状の爆発が覆った。閃光がバラバラに飛び散り、地面にいくつもの弾痕を作った。
光が消え、大蠍の鋏は、溶岩や鍾乳石のように爛れた。
しかし、その脚が止まっていないのを見て、三人の鬨の声は、各々の腹の中で霧散した。
そのたった一息が、悲鳴に変じて外へ出ようとするよりも速く。
男は大蠍の眼前まで踏み込み、腰に佩いた片刃の剣を振り抜き、振り上げられようとしていた無事の鋏は宙を舞っていた。
大蠍にせよ、反撃を試みた三人にせよ、突然の闖入者に対して何らかの反応をする暇はなかった。
「ウウヒャハハハハハハハハアアハハーーッ!!」
大口を開けた男の笑い声の短い一音と、男の手元から飛ぶ一閃が、同じだけあった。
残る鋏、前を向いた脚、そして顔面が切り刻まれ、最後の逆袈裟は斬撃の結果とは思えない衝撃波でもって地面を抉り、大蠍を紙くずのように何メートルという高さまで吹き飛ばした。
吹き飛ばされた大蠍は、やはり紙くずのように空中でバラバラになり、体液や外殻の破片、臓物を、夕陽の中に撒き散らし、風に乗った一部を男は浴びた。
振り返った男は、顎をやや引いて舐め回すような視線で三人を順番に見た。その間も、白い歯を覗かせ、先の高笑いの後を引くように、ヒヒヒという音を歯の間から漏らして笑っていた。握られた剣に大蠍の痕跡はもはやなかった。
何事かを考えることさえできなくなった三人のうち、最も早く回復したのは、魔法使いの女だった。女は汗ばむ手を胸の前で堅く握り、勇気を振り絞って、やっと口を開いた。
「た……助けてくれたんです……よ、ね?」
下手に刺激すればどうなるかわからない相手にかける言葉を、他に思いつかず、言葉尻が自信なさげに途切れた。
それはそれとして、男は異世界人だったので、女が何を言っているのかわからなかった。
夕陽が呆れて地上を去るまで、長い沈黙が続いた。
~完~