文にとり椛が久々に集まろうとするはなし

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えびで、いず、ろんばけ。

  From, 河城にとり、犬走椛

 

 お久しぶりです。来週、久々にみんなで集まって海に行きませんか? ちょうどお盆も過ぎて、人も少なくなってるでしょうし。

 

 デスクはコーヒーの匂いに満ちていた。社内には喫煙所も設けられていたが、それとは関係なしにほんのりとタバコの臭いも混ざっている。射命丸文が勤め始めてからしばらく経つ。ともすれば文にとってそんな職場の臭気は慣れ親しんだものであり、日常の一部だった。けれど、今日はどういうわけかそんな臭いが妙に鼻についた。文が会社のパソコンから個人的な友人にメールを送ってしまったのは得も言われぬ感情からのことで、有り体に云えばそれは緩い衝動に他ならなかった。

 

 文は蛍光灯の不健康な光と窓の外の不愉快な青空に視線を交互させて、ぬるくなったコーヒーに口をつけて、ひとつため息を吐いた。別段美味しくもなければまずくもないコーヒーは、そういった味のするぬるま湯と形容したところで、差し支えのあるはずもない。

 

 正午になればカップ麺を食べた。オフィスカフェと呼ぶには憚られる長机と丸椅子の質素な空間で黙々と麺を啜った。同僚には外注の弁当を食しているものや、文と同じように通勤途中のコンビニで買ってきたインスタント食品をやっているのもいた。とりわけて文が普段からうっすらと気にかけるのは、恒常的にブタメンを摂取し続けている同僚のことだった。どうせカップ麺を食べるなら、ブタメンのようなカップ麺未満おかし以上のようわからん食品ではなく、せめてホームラン軒程度のものを食せばいいのではないかと文は日頃考えていた。よしんば安さが彼の者にブタメンを購買させる要因なのではないかと考え、一度尋ねてみたことがあったが、どうやらそういうわけでもないらしい。美味いか、と聞けば「別に」などという薬中めいた返答が帰ってくるのみなので、文は食事中、いつも首を傾げながら自前のカップ麺を啜る。

 食事を採り終え喫煙所に向かった。社内には喫煙者が少なく、喫煙所に居るのは大抵文と、同僚の姫海棠はたてぐらいなものだった。

 

「どうも、おつかれさまです」

「おつかれさま。どう? 向こうは片付いた?」

 

 向こう、というのは文の受け持っている案件だが、部署の違うはたてにはあまり関係ない話のはずだった。文は曖昧にいとやとあを連続で発音しては、なにかはぐらかすように笑ってみせた。

 

「ふうん。ま、私には関係ないから、いいんだけど。……それより。あんたこのところずっと浮かない顔してるけど。たまにはどっか遊びにいったら? ちょうど盆の振り替えもあることだし」

 

 実際、このところの文はなんとも浮かなかった。入社してから苦労して習慣化させたトゥドゥリストも上手く潰してやっていけていたし、溜まっていくキャッシュデータにしても、こまめに消去できていた。だから、自分はある程度身軽でいられてるような気がしていた。けれど、実際はなにか、なにかが妙に重たかった。

 

「ああ、それなんですけどね……」

 

 はたての言葉で、文は午前中に友人へと送ってしまったメールのことを思い出し、それを話した。

 

「へえ、いいじゃない! 海ねえ。あー、私も行きたいかも、海! えー? 江ノ島でしょ? 江ノ電でしょ? あのそこまでキレイじゃない砂浜でしょ? 堤防に、それから、ようわからん出店に……」

 

 タバコを指に挟んだままやおら上機嫌になって喋り続けるはたてを前に、文は例のごとく“いとやとあ”で曖昧に笑った。

 

 空が橙から濃紺に変わっても、文が案件から解放されることはなかった。今回に関しては一日そこらで片のつくようなものではなかったから、もう何日も明日へ明日へと持ち越して電車に乗って帰途を辿る夜が続いていた。社内は似たようなクールビズのスーツたちで溢れていて、ホームへ降りた頃合いに、文はようやくとりあえずの解放感を得た。そうすると、次に脳内で鎌首をもたげるのは、例のメールのことだった。二人からの返信は未だ無い。椛の退社時間は日によってまちまちだが、にとりに関しては定時がきっちりと決まっていたはずだ。しかし、文は二人から返信が来ないことよりも、自身が二人にメールを送ったことで頭を悩ませていた。

 

 文が最後に二人と会ったのは去年の忘年会のことで、それからはなんとなく、連絡を取ることすらしていなかった。昔と違って、二人には自分と同じように仕事があって、やはりそれなりに忙しくしている様子だった。なにより、文自身も何かと仕事に追われ、遊びに気を回す余裕などなかった。

 

 けれど、今日メールを送った。駅から数分歩いてマンションに帰り、電気をつけて、冷蔵庫から買い置きの缶ビールを取り出し、パソコンの前に座る。受け持った案件によっては自宅に持ち帰りこのパソコンで作業をすることもあるが、今回はそれほど切羽詰まっているわけでもない。ブラウザを開いて動画配信サービスのサイトで適当な映画を流し、特にこれといった感慨もなくプルタブを引いては画面を眺めた。そのままぼんやりしているといつのまにかスタッフロールが流れた。文はふと時計を横目にする。針は就寝時間を指しており、秒針は寝入りを急かすように刻まれていく。二人からの返信は、未だ無かった。

 

 電気を落として、セットしたアラームを確認してベッドの上で横になる。文はすこしだけ、昔のことを思い出して、またひとつため息をついた。

 

「もうみんな、大人ですし……」

 

 昔のこと、古いこと。晴天の下、とりとめもなく流れていった過去の交遊が、微睡む文の脳内を駆け巡った。椛と、にとりと、それからはたてといろんな場所へ行ったことを、文はよく覚えていた。海に山に、それから都会を知らなかったころに行った街々。けれど、あんまりにいろんな場所へ行った上に、その頃の時間の流れは不思議なほどに早くて、また、短すぎたように思えた。ただ楽しかったという漠然とした感慨は、まるでどろどろに煮詰めた甘い果物のジャムに似て、落ちた瞼の裏側を、じっとりと溶かしていく。そうして、文は夢すら顕出しない黒い世界へと落ちていった。

 

 

  From, 射命丸文、犬走椛

 

 ごめん! わたし、お盆休みだったから振り替えがないんだ。機会があったらまた声かけて! ごめんね。

 

 

 文がにとりからの返信に気がついたのは休憩時間だった。なんとなく想像していた通りの落胆を抱えながらカップ麺を啜る。ブタメンの同僚に一瞥をやれば、彼はいつもどおりに「なんすか」系の、怪訝そうな表情で文を見返した。それから、カップ麺を食べ終えればそのまま喫煙所へと向かう。社内に満ちたコーヒーとタバコの臭気は昨日よりずっと陰鬱に感じられた。

 

「おつかれさま。今日なに食べたの? またカップ麺? あんた好きよねぇ。たまにはお弁当注文したらいいのに、揚げ物系はけっこー美味しいわよ」

「面倒じゃないですか、容器返すの」

 

 喫煙所には例のごとくはたてがいた。はたては相変わらずにラークの一本をゆらゆらと携えて喋る。そんないつもどおりのはたての所作をみて、文はタバコを買い忘れたことに気がついた。

 

「あ、タバコ買い忘れたんでしょ? 買い忘れるくらいならそのままやめられそうなもんだけど。はい、一本どうぞ」

「ど、どうも……。すみませんね」

 

 貰った一本に火をつけ、借りたライターをはたてに手渡す。喫煙所は文とはたての二人のみで、もうひとつ静寂があった。はたては二本めに火をつけたが、ライターの着火音ほど狭い空間のしじまを際立たせるものはない。普段ならばなんらかの話題、仕事やら昼食、同僚たちへの悪ふざけ程度の陰口に終始するはずだったが、今日は違った。もちろん、その理由が自身の表情にあることを自覚しない文ではない。しかしこういった場面で無理矢理に口を切るというのはどうにも唐突だから、文はなにも言い出せないままでいた。

 

「なによ、辛気臭い顔して。あんたほんとに、最近ちょっと変よ」

 

 文はまた“いとやとあ”を発音したが、曖昧に笑うことはしなかった。

 

「あっ、と……」

 

 文はポケットのなかで震えた携帯を取り出した。ロックを解除してみれば、どうやら椛から返信が来たようだった。眉をひそめ画面を見やる文に対し、はたても怪訝そうに眉をひそめる。天井で回る空調が妙にしたたかに響いていた。

 

「なによ、誰かからメール? もしかして恋人と喧嘩中とか?」

「ち、違いますよ。恋人なんて……これです、これ」

 

  From, 射命丸文、河城にとり

 

 私もごめんなさい! こっちはお盆休みもなければ振り替えもありませんで、ちょっと厳しそうです。でも、いつかみんなで行きたいですね、海!

 

 

 

「なるほど、御破算ってわけ」

「ええ、まあ……」

 

 はたてはボックスからもう一本を取り出して文に手渡した。文が片手で頭を掻きつつうやうやしくそれを咥えると、はたてはさっとライターを文の咥える一本の先端に近づけ、着火する。

 

「どうも。すみませんね」

「べつに。いいわよ、タバコの一本や二本。それより残念ね、たしか前に集まったのは忘年会のときでしょ? 私は忙しくていけなかったけど。あんたら、昔は毎日のように遊び回ってたのに」

 

 文は俯いて、灰落しをぼんやりと眺めて熟考した。熟考とはいえ、文自身なにを考えるべきかわからずに、実際はタールで淀んだ汚水のなか、様々な吸い殻を眺めているのみだった。ほんの数秒間続いた沈黙を自覚した文はやおら口を開いた。

 

「まあ、もうみんな大人ですし……」

 

 はたては口元にラークを添えた腕に、もう片方の手を組んで首をかしげた。眉をひそめてすこしだけ唇を尖らせては何か考えているようだった。

 

「ふうん。大人ねぇ……」

 

 二人の吐き出す煙に、空調は更にけたたましく駆動した。

 

 

 正午を過ぎても空は青い。季節相応、夏はやはり夏らしくデスクを苦しめる。今朝の朝礼でクーラーの二十四度の解禁が通達されたほどの猛暑だった。

 

「いえ、クライアントの要望がわかりにくいんですよね。わかりにくいというか、意見がころころ変わるというか、なんというか……」

 

 文の抱える案件は未だ進捗を為せていなかった。役員席の前で言い訳を余儀なくされた文は事務の女子社員のなんとも云えぬ眼差しに幾ばくのやるせなさを覚える。それでも、仕事は続く。問答が終われば仕事に追われる。せこせこと自分のデスクに戻り、とりあえずのコーヒー味のぬるま湯を飲む。みじめさはない。それは働き人なら誰にとっても日常の茶飯事に他ならない赤っ恥で、ともすれば、駅のホームで右肩と左肩がぶつかるのと同じようなものだった。

 

 

 少しの残業をすれば夜だった。机上を整理し終えれば帰り支度も整う。形式上のタイムカードを切ろうとする文に、珍しく同様に居残っていたはたてが文に声をかける。

 

「文、このあとちょっといい?」

「ええと、構いませんけど」

 

 歯切れの悪い文にはたては薄ら苦笑して、そのままわざとらしく肩に手を回す。文はすかさず気まずそうに「ちょっと」を発音してそれを払ったが、はたてはなにか飄々と笑ってみせる。

 

「コンビニ行ってさあ、お酒でも買ってすこし話しましょうよ。どーせ家帰ってもぼーっとしてるだけなんだから。ね?」

「は、はあ」

 

 会社を出て、二人は駅近のコンビニで酎ハイの二本を買った。あまり気乗りしない文だったが、はたてはそんな文の態度を気にもとめずに簡単な肴まで選び始めるものだから、文は俄然眉をひそめた。各々ビニール袋に安物のアルコールと乾物をぶら下げコンビニを出る。高いビルに星すら見えぬ夜空の下の駅前というものは人間が多い。文の視線に映るのはやはりスーツ姿で帰途を辿る働き人ばかりだった。無論、その他にも様々な人間がいる。私服の学生たち、居酒屋店員そのままの看板持ち、インカムを携えた招き猫の群れ。けれども、文はどういうわけかそれら有象無象を捉えられずにいた。そういった集団は自分とは住む世界の違う存在に思えて仕方がなかった。通りを行き交う人々の会話は疎らで、また途切れ途切れで、なんとも猥雑で、また賑やかすぎるような気がした。そんな文を尻目にはたてはさっさと歩いて行くから、文は焦ってはたての背を追った。

 

 

「そっちは相変わらずね。経理はいいわよ、事務の女の子たちと仲良くしてればいいだけだもの」

「大変というか、まあ。なんといいますか」

「歯切れ悪いわねー。そんなんだからそんなんなのよ!」

 

 数分歩くと遊具すらない公園があった。二人はベンチに腰掛けて、夏の夜にもはやぬるくなったアルコールにちびりと口をつける。地面に死ぬ蝉もいれば、木々のどこかでけたたましいのもいた。

 

「でも、いいんですかね」

「なにがよ」

「私たち、大人なのに」

「大人なのに?」

「……公園でお酒なんて」

 

 両手で缶を握っては俯く文の隣で、はたては何を気にする様子もなくするめを咥え齧った。ベンチの下方、蝉の死骸の傍には生垣があり、生垣の奥まったところには何故か一足、子供用の靴が放ったらかしにされている。咀嚼を終えたはたてはまた、軽々と口を切った。

 

「いないわよ。大人なんて」

「ええと、それはどういった」

 

 上機嫌というほどでもないが、なんだかずっと余裕たっぷりのはたてに、文は多少気圧される。今にしたって曖昧に、どこか諛うように笑いながら片手を後頭部に添えて、ぬるい缶酎ハイには口をつけずにいた。

 

「だってほら、見てみなさいよ! この公園、だーれもいないじゃない!」

「そ、それはだって、駅からちょっと歩けばどこもそんなもんじゃないですか。私が言ってるのはそういうんじゃなくて、もっとこう、その。精神的な話というか、それよりもっと現実的なことというか……」

 

 文の口調にはたては顔を思い切りしかめては缶を煽って、大きくため息を吐いた。要するに、これまでのはたての一種わざとらしいまでの余裕綽々な態度は文を懐柔するための手段であって、素ではなかった。文自身それを重々承知していたが、わかりやすく気を使われてまで「気を使わないでくださいよ」を言えるほどの悩みでもなかったし、気づかいあうことを敬遠するほど粗悪な仲でもなかった。

 

「それで? じゃあ海はどうするの? 振り替えがダメでも夏のうちに合わせなきゃ損よ」

「そうは言いますけど。でも仕方ないですよ。予定が合わないんですから」

「合う合わないじゃないのよ。無理矢理にでも合わせるのよ、こういうのは」

「そんなこと言ったって……。もうみんな大人なんですよ。椛は現場責任者になっちゃって、忙しくしてるし。にとりさんに至っては所帯を持ってるわけでしょう? そうやすやすと身勝手できませんよ。……私にしたって、最近どうにも、上手くやれていませんし」

 

 はたてはするめを嚥下してまた酎ハイを煽り大きく息をついた。その所作はてんでダメね、を言わずもがな体現していたから、文も居た堪れずに缶をちびりとやる。

 

「あーあー。ほんとにもう……。ああそうだ、返信は? 返信はしたの? ご破算ったってそういうのは早めにしときなさいよ。あ、いましなさいよ、いま!」

「う、うーん」

 

 文は携帯を取り出しておずおずとメールを打ち出した。はたてが画面を覗き見ては缶を煽るので、どうしたってやりにくい文だった。

 

 

  From, 河城にとり、犬走椛

 

 了解です! 急にお誘いしちゃって、すみませんね。またいつか予定が合えば行きましょう。

 

 

 はたてのじっとりとした視線を気にしながら文は送信ボタンを押した。同時にけたたましくしていた蝉が鳴きやむから、文は急に、公園に満ちた夏らしい静寂を認める。

 

「いつか、ねえ。いつかなんて言わずにさっさと予定抑えればいいのに」

「そうもいかないじゃないですか。にとりさんは雛さんと何かと忙しいでしょうし、椛さんも新しく任された仕事に慣れるまでくたくたでしょうから」

「ま、いいけどね。じゃあそろそろ帰りましょっか。いまなら電車ちょうどいいわ」

 

 缶やらをビニールにさっさとしまって立ち上がるはたてを追うように、文も焦って缶を煽る。はたては焦る文に頓着することもなく公園の出口へ向かう。ようやく缶を空けた文は胸中に同居した夏らしさと物足りなさを払うように頭を掻いて、はたての背中を追う。

 

「あ。だけどあんた、わかってんの? もう週末なんだからね」

 

 振り向きもせずに発された言葉に、文はまた〝いとやとあ〟を夏の夜に溶かした。

 

 

 それからウィークエンドは目まぐるしく過ぎて、盆の振り替えがやってきた。八月の下旬に差し掛かっても空は青く、また広かった。久方振りに仕事から解放されても、文には予定がなかった。物日と言えども普段ならば仕事関係のスケジュールを入れ込んでいた文ならよっぽど、予定のない日をどう過ごすべきかわからずに、まるで土の中から出ることのない蝉のように休日を過ごしていた。

 

「映画って云っても……温泉? 温泉は、うーん」

 

 目移りばかりしているうちに夜が来て、薄いビールに少し酔う。そんな日を三日も続ければ、新しい週はもう目前に差し迫ってしまっていた。朝が来て、昼になって、夜になる。文はなぜだか夕景を覚えなかった。文にとって判然としないのは自分の心で、一体全体何をどうしたいのか自分自身わからずにいた。日々に充実感がなかったわけではない。積もるタスクをこなしていれば、文は身軽になれる気がしていた。しかし時間というものは無情で、気付けば今日も夜だった。振り替え最終日の夜、面倒な案件を済ませて迎えたこの連休は、果たして文に報いることが出来ただろうか。そんなはずはない。文自身、それをわかっていた。

 

 いつも通りの夜だった。パソコンの前に座って適当な映画を流しながら飲むビールは薄くて、なんだか気の重たくなる味がした。横目で時計をちらと見れば、時針は就寝時刻を指している。秒針はあいもかわらず文を急かした。

 

「あと二時間で、今日も終わり……」

 

 文はふと携帯を手に取った。そのままメールを開く。にとりと椛との会話はあのときのまま止まっていた。

 

 

  From, 河城にとり、犬走椛

 

 最近、お二人はどうですか? 私の方は相変わらずですが、

 

 

 そこまで打って、文はメールを閉じた。近状を聞くにも、もう少し適した時間のあることを文はわかっていた。

 

「なにより、近状なんて聞いたところでなにも……」

 

 言いかけて、文は時計をみた。何度見ても時針は固まっていたし、秒針は残酷なままだった。蒸した夏の夜に刻まれていく毎秒を、不意に、文はしたたかに実感した。閉めたカーテンをひらいて、窓の外を見る。街はいつも通りに車が行き交って、夜空は夏らしく星が綺麗だった。それでも、文は静けさを感じずにはいられなかった。車の一台がマンションの下を通り過ぎてゆくと、夜はいっそう静けさを増した。向こうのビルの群れも段々と電気を落としていく。蝉はもう鳴かなかった。

 

「あと二時間……。あと二時間しかない!」

 

 文はタクシーを呼んで、それからすかさず連絡帳に友人の名前を探した。距離と生活を考えればにとりには声をかけられない。文は椛へと電話をかけた。発信音のなる間に身支度をして、部屋を飛び出してマンションの階段を下った。エントランスを出ても椛の応答はなかったが、呼んでしまったタクシーが文をその場に留まらせた。都会のタクシーは俊敏で、にとりに連絡しようか悩んでいるうちに裏口に到着する。文は悩みつつもおずおずと乗り込んで、多少しどろもどろになりつつも、とりあえずで椛の家がある方角へとタクシーを向かわせた。

 

「お客さん。まだまっすぐでいいんですか」

「え、ええ。はい……」

 

 メーターは五桁になっていた。電車では間に合わないと考え咄嗟にタクシーを呼んだ文だったが、そもそも、何に間に合わないのかすらわからないまま揺られていた。夜の街が車窓を滑っていく。大通りはどこまでいってもそれなりに大きくてきらびやかな建物が並んでいるから、ちらほらと学生風の集団が顔を赤らめ笑いあっているのが目についた。文は座り心地の悪さを感じたまま、それらを横目にする。

 

「それにしたってお客さん、こんな遅くにどちらまで行かれるんですか。まあ、私としましては有難いことなんですがね。この時間だとなかなか、珍しいですよ。電車もまだ走ってますしねえ。あ、そうそう。この先に大きい橋があるでしょう? その橋を越えてすぐの路地を右折すると小さい公園があるんですよ。いえね、私はここを通るときは毎度いろんな方におんなじ話をさせてもらうんですけど、いやあ面白いものもありましてね。普通、公園って言ったらこう、フェンスがあって、それからフェンスの内側に生垣があって、んで、遊具やらベンチのなにやらが設置されてるもんじゃないですか。でもその公園ときたら傑作なんですよ、まず入り口自体が存――」

「――あっ、すみません。電話が」

 

 震えた携帯を文が気まずそうに取り出すと、運転手は本当に不服そうに鼻で息をした。しかし文はそんな運転手を無視して応答ボタンを押す。

 

『もしもし。文さんどうもお久しぶりです。すぐ出られなくてごめんなさい、いまやっと帰ってきたところなんです』

「ああいや、いいんですよ。ぜんぜん! こちらこそどうも、すみませんねこんな時間に、急に電話したりして」

『そんなこと! 構いませんよ、ぜんぜんです。ああ、それよりこちらこそ、この間はすみませんでした。せっかく誘ってくださったのに』

「いえ、いいんです、いいんですよ。ぜんぜん! それこそこちらこそですよ、急にお誘いしたりして」

 

 運転手は「ぜんぜん」と「こちらこそ」と「すみません」の多さに驚愕した。法定速度を七キロ破った。

 

『いえいえそんな……。ああそうだ、今日はどうされたんですか? それにしたって嬉しいですよ。声聞くの忘年会以来じゃないですか』

「えっと、それなんですけどもね……」

 

 照れ隠しにかくかくしかじかを発音してみた文だが、かくかくしかじかで伝わる事柄など実際には何一つとして存在しない。椛の気まずそうな「ちょっとわかんないですね」に文は煩悶した。

 

「あ、あのう。じ、実はですね。いまタクシーに乗っていまして。……それで、そのう。向かってるんですよね、椛の家に」

『えっ! いま、いまからですか!』

 

 話しているうちに椛宅は間近に迫っていた。運転手は類稀なる運転センスで何を聞くともなく右左折を繰り返し、椛宅の玄関前にタクシーを止めた。「着きましたぜ」

 

 

 文は「お邪魔します」と玄関を潜った。その言葉は何か強烈に懐かしく、優しく感ぜられたが、同時に同等に気まずくもあった。椛は一応の笑顔で文を出迎えたが、やはり驚きは隠しきれずに、その驚きは独り身相応に荒れた部屋の忙しない片付けという形で顕出していた。

 

「す、すみませんね。足の踏み場もありませんが、ああいえ! いま作りますから、足の踏み場!」

「お、お構いなく! ああでも、そもそも悪いのは私ですから、私が作りますよ、足の踏み場! ああでもでも、人の家のものを勝手に動かすというのもなんだかアレですし、ああ! どうして来てしまったのか!」

「いや、訪客をもてなすものですから、家の者は!」

「で、でも!」

 

 似たようなやり取りの五億兆回を経て、二人はやっとリビングに腰をつけた。椛の一軒は借家ながら立派なフローリングにキッチンカウンターが備わっていた。しかし独り身のものがキッチンカウンターを使うことなどあるのだろうか。椛が都会に出て来た際に一度だけ訪問したことのあった文は当時そんな疑問を抱いたが、そんな疑問はチラシやら何やらでごちゃごちゃのカウンター上に氷解した。

 

「こたつ、なんですねえ……」

「いえ、そのう。なんせ急でしたから。文さんも来るなら来るで、もっと早くに連絡してくれればよかったのに……」

 

 クーラーが埃を吹いていた。八月はじき終わる。

 

 椛は居た堪れずに席を立ちキッチンへと向かう。お飲み物だします、の言葉と同時に開け放たれた冷蔵庫内部の惨状を見逃す文ではなかったが、見過ごしはする。何せどれほど部屋が荒れていたとしても、自分が急な、傍迷惑な来客であることには違いがなかったからだ。椛が気まずそうにすればするほど、文も気まずくなった。

 

 さておき、椛がこたつに発泡酒の二本を用意する。アテのポン菓子が懐かしすぎる文だったが、とにかく二人は半年ぶりの乾杯を交わした。酒の一口は気まずい二人の重たい口をすこしだけ軽くする。思いのほか威勢良く煽った椛は一口目特有の感嘆を吐いて、やおら吹っ切れたように口を切った。

 

「ああ! 飲んじゃった。私、仕事の前の日は飲まないようにしてるのに。……もう、さすがに急すぎますよ文さん。明日も六時起きなんですよ、私!」

 

 冗談めかして云う椛に文は多少安心しつつ、残り三十分しかない今日のことを思い後悔した。

 

「私もそんなもんです。だから、これ飲んだらすぐ帰らないと……はあ。何しに来たんでしょうね、私」

 

 椛は昔から、秒針の刻む音が大きい時計を好んだ。曰くかの音がしなければ時計という感じがしない、との談だったが、今では事情が違うようだった。文の知っている椛の時計は大概ジャイアントオブジェクトと形容しても差し支えのないものばかりだったが、現在はおよそ常人用の時計を設置しているらしく、秒針の刻む音も相応に小さくなっていた。ともすれば、常日頃から秒針に急かされているのは自分のみではないということが文にはわかった。

 

「……テレビつけしょうか。まあ、二本ぐらいはゆっくりしていってくださいよ。せっかくですから。泊まってもらっても構いませんし、帰るなら帰るで、タクシー代、だしますから」

「わ、悪いですよう。私が、勝手に来たわけですから!」

 

 椛のまあまあ、でテレビからニュースが流れ出す。夜のニュースというのはどうにも淑やかなものだったが、秒針の音をかき消すのと、二人が久方振りに会話を交わすのにはちょうどよい雑音だった。

 

「せっかくですから、いろいろおはなししましょうよ。……まあ、話題なんて仕事のことぐらいしか思い浮かばないんですけどね。文さんは最近どうなんですか? はたてさんも、まだいっしょに働いてらっしゃるんですよね」

 

 はにかみながら椛が言うので、文もようやっと肩の力が抜けた気がした。ニュースでは、なにか都市の不要な公共区域について話している。

 

「私は、まあ相変わらずですよ。はたてさんはバリバリですけどね。やっぱり役員が親戚ってのは羨ましいですね。こっちはさんざ体良く使われてるってのに」

「ああ。たしかそうでしたっけね、はたてさんは。こっちも似たようなもんですよ。現場監督といったって、高みの見物というわけにはいきませんから。むしろ仕事が増えたくらいで、もう大変ですよう」

 

 椛が軽くため息を吐けば、二人して曖昧に笑った。相応の管を巻いてるうちに、ニュースも次々と話題を変える。世論が喫煙者の糾弾を始めると椛は慌てて灰皿を探そうとするので、文はそんな椛を慌てて静止した。

 

「いいんですか? 別に禁煙ってわけでもありませんし。灰皿なら、たしか貰い物があったから」

「構わないでくださいよ。それに、今日はそもそも持ってきてないんです。慌てて出てきたもんだから、忘れてきちゃいました」

 

 文の言葉に、椛は可笑しそうに笑う。

 

「慌てて、って。どうしてそんなに慌ててまで来ちゃったんですか、もう」

 

 椛のもっともすぎる言葉に、文は例の〝いとやとあ〟を発音したが、普段と違いそれは照れ隠しと充足に満ちたものだった。ニュースがシーエムに移行する一瞬の無音に秒針が響く。訪れたのは一寸の静寂だった。暗い映画のシーエムが終わると、たちまち次のシーエムが始まる。途端に、椛があっ、と声をあげた。

 

「あー! みてくださいよ、あれ! あーあー、私も行きたかったなあ、海!」

「……ほんと。私も行きたかったですよ。でもまあ、急すぎましたし。たぶん予定が合わないっていうのも、なんとなくわかってましたから。……みんなもう大人ですし、仕方がなかったってことですよ」

 

 実際に流れていたのはプールのシーエムだったが、それは二人にかの海を想起させるには十分だった。ぐちゃぐちゃのキッチンカウンターの上に目をやれば、むかし文自身が撮影した一枚が写真立てに飾られている。カウンター上は汚れに汚れきっていたが、その一枚だけはどうしたって色褪せないままにあった。写真の中では、夏の浜辺でみんなが笑っていた。椛ははたての隣で、はたては椛の隣で。にとりは浮き輪をつけて、夕暮れの海面に小さくなっている。それでも、にとりが笑顔でいることは遠目にも明らかだったし、ともすれば撮影した本人である自身の表情など、文にはわかりきったものだった。

 

「うーん。大人かぁ……」

 

 写真を眺めつつ思い出に浸る文をよそに、椛がなにか真剣そうに嘯くので、文は視線をふっとテレビに戻した。それはいわゆる冠婚葬祭系のシーエムで、それは二人にある人物を想起させるに足るものだったといえよう。

 

「……にとりさんは、どうしてるでしょうね。楽なバイトばっか選んでましたけど、雛さんと結婚したからにはやっぱ、忙しくしてるんですかねえ」

 

 しみじみとする文を前にして、椛は「ん?」と声をあげる。それはよほど素っ頓狂な声色だったので、文はなんとはない予感を覚えた。

 

「文さん、知らないんですか? 別れましたよ、あのふたり」

 

「えぇ……」

 

 それから二人はにとりの破綻について喋りまくった。二人の会話はにとりの至らなさゆえに度を超えて盛り上がり、文は時間を忘れて笑い転げた。にとりの至らなさについて語らせれば椛の右に出るものはおらず、椛本人ですら自身の口から飛び出す驚愕の語句に笑いを堪えきれずにいた。そんな二人の傍ら、ニュースではまた淑やかに、ウェザーリポートが流れ始めていた。

 

 曰く、明日もどうやら晴れるらしい。

 

 

 

 

  From, 射命丸文、河城にとり、犬走椛

 

 やっほーおひさ。文以外。

 

 夏は終われどハワイは死なず。私たちは逃げて行く夏を追いかけます。再来週、ハワイ行きのチケットを四人分取ったので、有給なり腹痛なり身内の不幸なり、なんとしてでも休みをとってください。

 

 にとりと文は今すぐにパスポートを発行しに行ってください。発行に大体八日間はかかるので、明日にでも行かないと間に合わなくなります。

 

 なお、欠席は認めません。以上!

 

 

 

 

 

 

 

 四月。

 

 デスクは相変わらずコーヒーとタバコの臭いに満ちていた。今朝の電車の中で文の見たニュースによれば、杉花粉は例年の何十倍の量が飛び交うらしい。それはほとんど例年通りのニュースだったし、行う仕事の内容にしたって、なにも変わらないままでいた。ただひとりの退職者を除けば、顔ぶれすら変わらない。社内はそんな普段通りに満ちている。文は受け持った案件をどうにか上手いこと潰してやっていけていた。もちろん、休憩になればカップ麺を食べる。

 

「うーわ。あんたいい歳して、そんなん子供が食べるもんよ」

 

「いやあ。これがなかなか、おいしいんですよ」

 

 そう言って、文は屈託もなく笑うのだった。



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