始まりの日   作:桶乃

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不知火さん√を欲しくて書きました。


第1話

「千鶴ちゃん、今日が駄目だったとしても明日があるからよ、気にすんな」

 そう言って、永倉新八は千鶴の肩を叩いて励ます。否、千鶴ではなく、千鶴に扮装した南雲薫だ。永倉は何も不審がる事なく、薫を連れて屯所に戻って行く。

 したり顔で永倉の背中を見届け、屯所内へと侵入する。

 薫は、永倉が千鶴から目を離した隙を狙って、女装姿の南雲薫として千鶴を誘い出し、眠り薬の入った茶を飲ませた。それからとある神社の中へと千鶴を隠し、着物と袴を奪うと、むしろを千鶴に掛けて入れ替わった次第だ。

 ここまで強行に走ったのは訳があった。千鶴が沖田と巡察を共にしている事が多いと気付いたからだった。どの幹部とも仲良くしているのを見るのは不快だが、沖田だけはもっと不快だった。他の幹部は当たり障りのない会話が多いが、沖田の場合、役に立たないからだの、逃げたら斬ると脅したり、千鶴を不安にさせるような事を言っているのを聞いたことがある。それが許せなかった。そういう言葉を掛けていいのは、兄である薫のみだ。そう思っているからである。

(もし、沖田が千鶴に手を出していたら、痛い目に合わせてやらなくちゃね)

 千鶴になりきるのも完璧だと思いながら、薫は堂々と屯所の廊下を歩く。だが、土方とは顔を合わせるのは嫌だった。万が一、偽物だと気づかれた場合、出し抜いて逃げきれるような相手には見えない。

「千鶴ー」

 元気の良い声が薫を呼ぶ。煩い奴が来たと思いながらも、冷静に笑顔で振り向く。

「この後暇あるか? 饅頭買って来たから一緒に食おうぜ」

 満面の笑みで、犬のような人懐っこい顔を見せる藤堂平助。

(こいつ、千鶴の事狙ってるかもしれない)

「千鶴? 顔が引きつってるみたいだけど、大丈夫か? ……まさか、この後用事でもあったりすんのか?」

 困ったような、落ち込んでいるような、そんな表情だ。明らかな藤堂の態度に、薫はどう断ってやろうかと思案する──その時、微かだが後ろから人の気配がした。

「ねえ、千鶴ちゃん」

 その言葉が先か、伸びてくる腕が先か、薫は瞬時にしゃがみ、腕を躱した。

「君、いつの間にそんなに動けるようになったのかな?」

 しまった、そんな事を思いつつ、薫は何も無かったかのように立ち上がる。それから得意の笑顔を作った。

「沖田さんのお陰、でしょうか」

 いつも沖田にこのような事をされていると思いたくなかったが、それを調べる為に鎌をかけた。

「ふうん。君がそう言うならそうかもしれないけど。昨日まで、そんな早く動けなかったじゃない」

「ちょっと待てよ」

 いきなり藤堂が割って入った。

「その言い方じゃ、総司が千鶴に抱きついてるのって、毎回ってことになるよな?」

「そうだけど、それがどうかした? 外国では、挨拶のようなものって、山南さんに教わったんだよね」

「はあ? ここは外国じゃねーし、何より、千鶴が嫌がってるだろ」

「そうかな? 千鶴ちゃんから突き飛ばされたりはしてないけど。寧ろ、大人しくしてると思うんだよね。今日はたまたま違ったみたいだけど」

「今日はって言うけどな、総司。お前の腕の力じゃ突き飛ばせなかったんじゃねーの。だから避ける練習してて今日は やっと避けられた、そうだろ千鶴?」

 そうであって欲しいと言わんばかりに、藤堂はまくし立てるように言って来る。願望が前のめりになり過ぎて、必死だ。

「はい。急にあんな事をされては驚きますし、好きでもない男の人にされても嬉しくありませんから」

 藤堂の想いは別にして、藤堂の言葉に同調した方が良いと判断した薫。しかし、藤堂にも杭を打っておかなければ、菓子で千鶴を釣って、下心満載で接してくるに決まっている。そう思うと、薫は怒りを抑えられそうになかった。抱きついて来る沖田に、菓子で釣る藤堂が居ると思うと、許せなかった。

「ち、千鶴? 今日のお前、何か……様子がおかしいぜ? 大丈夫か?」

 睨んで来た千鶴に怖気づきながらも、藤堂は千鶴を見つめる。

「おかしい、ってより、鬼の顔だよね。土方さんには負けるけど」

 愉快そうに言う沖田は、目が笑っていなかった。

「ねえ、千鶴ちゃんじゃないでしょ?」

「どうしてそう、思うんですか?」

 突然の確信に、薫は冷や汗をかいた。

「だって君、お菓子の誘いだとあからさまに変な顔するじゃない。さっき平助が誘った時は変な顔じゃなかったし」

「変な顔ってなんだよ、総司! 千鶴は、可愛い笑顔で喜んでくれるだろ」

「何、可愛いって。平助、いつもそう思いながら千鶴ちゃんに餌付けしてるんだ」

 沖田は意味ありげに「へえ」と言いながら、目を細めて平助を見る。

「ち、違うって。千鶴は女の子だろ。笑顔が可愛いのは当たり前だって。そうだろ」

 平助の慌てようは、否定になりきれてなかった。その為、薫の中でますます藤堂の危険度合いが増していく。

「そんな風に平助君思ってくれていたんだ……気持ち悪いです」

 はっきりと言われ、痛みに耐えるのが精一杯なのか、藤堂はその場で硬直している。

「あーあ。平助を泣かせちゃダメじゃない。偽の千鶴ちゃん」

 目を細めていた沖田は口端を上げたが、それと同時に、薫を捉えた瞳は酷く冷え切っている。

「あんた達、こんな所で何をしている」

 落ち着きのある声。薫が振り向くと、そこには斎藤が不機嫌とも言えるような顔で立っていた。巡察が終わったばかりなのか、浅葱色の羽織を着ている。

 ここで幹部三人が揃ってしまい、薫は逃げるしかないと悟った。既に沖田には怪しまれている為、これ以上幹部連中が集まっては逃げきれない。それを刹那に判断し、薫は庭へと飛び出した。

「ゆ、雪村?」

 そんな斎藤の呼びかけに、薫はにやりと笑い、走り去った。

 

***

 

 肌寒さを感じ、目が覚めた。起き上がると、むしろが自分に掛けてあった。辺りを見回せば、狭い部屋に居ることだけはわかる。どうして自分がここに居るのか、そもそもここは何処なのか分からない。少しして、いきさつを思い出す。永倉の巡察に付いて行き、御用改めの間、大人しく入口で待っていたら南雲薫と出会い、話をした。その途中、筒に入った茶を渡され、それを飲んでから……記憶がそこから無い。もしかしたら、急に具合が悪くなってここに居るのかもしれない。そう思った千鶴は立ち上がる。よろけたが、意識ははっきりとしている。だが、何か違和感を覚えた。髪が結わえられていない。それに、足元がいつもと違う気がした。足元を見る。襦袢しか着ていない。千鶴は声にならない悲鳴を上げた。もう、何が何だか分からない次第である。

「ここに居れば、昼寝の邪魔はされねえよな」

 男の声が、部屋の戸越しから聞こえた。千鶴は急いでむしろを被る。ただ、声の主が何処かで聞いた事のあるような声に疑問を持った。

 戸が開き、目が合った。

「あ? 何だ? いつからここが住処になったんだ、女鬼よ?」

 が楽しいのか、にやけて部屋に入って来た男は、不知火だった。

「す、住処じゃありません!」

 顔を真っ赤にして否定するも、不知火は悪戯っぽい顔をして笑っている。

「でもよ、そんな格好で出迎えられるってのは、誘ってるみてえだな」

 自分の格好がどんな格好だったのか改めて思い出し、千鶴は耳まで赤くなった。

「そんな訳ありませんっ!!」

 ひいひいと笑い、不知火は悪かったと謝った。

「いや、お前の反応が面白くてよ。それより、お前は何でこんな所に居るんだ? どう見ても、偵察ではないよな」

 千鶴は何と言うべきか迷った。正直に分かりません、とは言えなかった。自分を攫おうとしている風間と一緒に行動している人物だ。もしかしたら、このまま風間の所へ連れて行かれる可能性がある。

「な、永倉さんがここで待っていろと……」

「そんな格好させてか?」

 不知火の視線が厳しくなった。

「えと……私の着物が汚れてしまいましたので、それを洗いに行かれています。その内、戻られます」

「ってことは、ここで待ち伏せしても良いって事だよな?」

「駄目です! 私がそうはさせません!」

「その格好でか?」

しまった、と思い、千鶴は思考を巡らす。

「ど、どんな格好でも、私は永倉さんを助けます!」

(もう、変な事言ってる! どうしよう)

 千鶴は必死で嘘を言い続けるが、それも限界があった。

「でもよ、その永倉って奴が来なかったらどうすんだ?」

 確信を付くような質問に、千鶴は頭が真っ白になった。だが、嘘を付く以前に、自分が居なくなった事に気付いて、永倉が捜してくれているはずだと思えた。何故ここに居るのかは分からないが、永倉がこんな所に連れて行くはずがない。もし、具合が悪くなって倒れていれば、永倉は直ぐに屯所へと連れ帰ってくれているはずだ。だが、知らない所に居るとなると、薫が運んでくれたのかもしれない。もしかしたら、自分を運ぶ途中で、浪士に襲われ、自分だけ置いて行かれた可能性もある。

「何だ? 永倉って奴は信用ならねえ奴か?」

「ち、違います! 永倉さんは信用できる人です。絶対に助けに来てくれます!」

 しかし、ここから出なければ、見つけてくれる確率が低いのも確かだ。どうにかして、ここから出たい。薫も酷い目に遭っているかもしれないと思うと、居ても立っても居られなくなってきた。だが、着物無しでは出られない。それに、このままの格好で幹部隊士以外の隊士に見つけられれば、女ではないかと怪しまれてしまう。どうにかして、着物を手に入れなければならない。

「どうしてお前はよ、人間を信じられるんだ? 人間は直ぐに裏切るぜ。もしかしたら、捨てられたかもしれねえぜ」

 まずは、この目の前に居る男からどうにかしなければならないのが問題だった。

「今まで、新選組の皆さん達の事を見てきました。見ていれば、分かるんです! 皆さんはそんな人ではありません!」

「そんなんで分かるかよ! 人間の本性知らねえだろ」

 不知火は腹ただしいのか、声を荒げた。声の大きさに千鶴はびくりとしたが、負けじと言い張る。

「私は誰が何と言おうと、新選組の皆さんを信じます」

 真っ直ぐ不知火を見た。千鶴は、自分の気持ちを折る気は無い。不知火は探るような視線を向け、黙って千鶴の目を覗く。

「じゃ、賭けをしねえか。新選組の奴らが助けに来たら俺の負けだ。もし、助けに来なかったら俺の勝ち。でも、何も罰が無いってのは楽しくねえよな……そうだな。お前が勝ったら、風間が攫いに来るのを止める手伝いでもしてやるよ」

 千鶴は新選組の気持ちを賭けるのは如何なものかと思ったが、風間の邪魔をしてくれるのならありがたいと思った。自分のせいで新選組の負担が大きいのは理解しているつもりだ。それが軽減されるのであれば、賭けに乗るのは悪くない。それに、今の状況では、自分が何処に居るか知らせる事が出来ない。もしかしたら、この賭けで外に出られる状況を作れるかもしれない。

「俺が勝ったら……風間に引き渡すか」

 怖気づきそうになった千鶴だが、頭を縦に振った。

(信じるって決めたもの)

「じゃ、果報は寝て待てって言うし、昼寝でもさせて貰うぜ」

「あ、待って下さい!」

 千鶴は早速ここから出られるかもしれないと思ったばかりで、気が焦った。まさか昼寝をされるとは思ってもいなかった。

「あの、この格好では寒いので、何か着られるものはありませんか? それに、このままだと直ぐに永倉さんが来てしまいすよ?」

「お前が何でそんな事言うんだ? 賭け事してる相手に優しすぎやしねえか」

「そ、それは平等にする為です」

「でもよ、もう来てもおかしくないんじゃねえか。お前の着物を洗いに行ってる割には遅いよな?」

「な、永倉さんは不器用なので遅くなってるんだと思います」

 不知火は肩を震わせ始めた。それから我慢出来なかったのか、大声で笑い出した。

「お前、嘘が下手くそだな。島原の時よりはマシになっちゃいるが、苦しい言い訳だよな」

「な、何を言ってるですか。嘘なんて一つも──」

「どう考えても、着物が汚れたら屯所に帰るだろ。わざわざ社の中に置いて行くって可笑しすぎるぞ」

 笑うのを止める気もないくらい、不知火は腹を抱える。

「え、ここ、社?」

 千鶴はしまったと口を抑えるが、遅かった。

「……お前、何処に居るのかも知らなかったのか?」

 さっきまで笑っていた顔が、真顔に戻っていた。

 口走ってしまったとは言え、全てを話すべきか迷う。

「何だ? 誰かに攫われている最中って事か?」

 真剣な眼差しを向ける不知火は、先程までの笑った顔と比べて、幾分男前に見えた。そんな事を思った自分が恥ずかしくなり、千鶴は俯いた。自分の顔が火照ったのが分かる。頬に手を当て、これで少しは冷えて欲しいと思った。

「分かりません。でも、私より、薫さんが心配で……」

 こうしている間に、自分より危険に晒されているのではないかと思うと、心配だった。

「お願いです。薫さんを助けたいので着物をどうにか借りれませんか?」

「お前、自分の状況も分からないくせに人間の心配か。お人好しもいい所だと思うぜ」

 呆れたと言わんばかりに、首を振る不知火。

「でもよ、これでお前が死んでましたって言うのも後味悪いからな。仕方ねえ。ちょっと待ってろ」

 そう言うと、不知火は千鶴の返事も待たないまま、社から出て行った。

 

***

 

「これで我慢しろよ」

 突然戸が開き、どさっと着物が置かれた。着物は派手な赤色生地で、桃色の花を散らしたような柄が一際目立っている。どう見ても、女物の着物だ。

「どうして女物の着物なんですか!」

「お前が指定しなかったのが悪いだろ。それに、お前は女なんだから、これが普通だろうがよ。文句言うなら、これ返して来るぞ」

 手に取りそうになる不知火の手を、千鶴は押さえた。

「い、いえ、着ます!」

 薫の事を思えば躊躇している場合ではない。そう思い、千鶴は袖を通すことにした。不知火は表で待っていると言い残し、社から出て行く。

 千鶴は久しぶりの女物の着物に、少しばかりどきどきしていた。まさかこんな状況でまた着る事になるとは思いもよらなかったからだ。嬉しくて、くすぐったい気持ちが胸に灯る。

 久しぶりの着物で、おかしくないか確認し、外に出た。

 外に出た千鶴を、不知火は足の先から頭まで眺めると、歯を見せて笑った。

「やっぱりお前、こっちが似合ってるぜ」

 恥ずかしげもなく、不知火は目を見て言う。千鶴は恥ずかしくなり、そっぽを向いた。

「か、からかわないで下さい! 行きますよ!」

 恥ずかしさを紛らわす為、歩き始めた。しかし。薫の行方は全く分からないままだ。

「何処か目星でもついてんのか?」

「……いえ」

 溜め息が漏れる音が、不知火から聞こえた。

「ったく。まずは、お前が分かる限りの状況説明しろよ」

 千鶴は、ここまで来たのなら、話すしかないと決心し、話した。

「薫って奴が本当に攫われているかも分からないのかよ。つうか、お前の話聞いた限りじゃ、薫って言う女が怪しいと思うぜ」

「まさか。薫さんがこんな事出来る訳がありません」

「本当にそう言い切れるのかよ。それ程、信用できる人物か? 女だから裏切らないとは言えねえぞ」

 確かに薫とは顔見知りと言うだけで、何もかも知っている仲ではない。

「ですが、だからと言って、捜さない理由にはなりません。私のせいで酷い目に合っていて、誰かの助けを待っているとしたらどうするんですか。ほっとけません。だから、捜すんです」

 少し考えるように、不知火は視線を中に浮かせた。

「分かった。それなら、その薫とか言う女がよく居る場所に行けばいいだろ。そこで姿を確認出来れば、何も無かった事になる。いいな」

 酷く冷静な不知火の言葉は、冷たく感じられた。何かに怒っているのか、考えがあるのか分からない。だが、良い機会だと思った。薫をよく見かける道は、新選組が巡察で通る道だ。もしかしたら、誰かに会えるかもしれない。そう思うと、気を引き締め、黙って歩いた。

 

 

 暫く歩いて、あと少しで目的地に着きそうな時だった。浅葱色の隊服が見えた。

「三人組みたいだが、あれは幹部じゃねえな」

 そう呟いた不知火は、何処か詰まらなそうな顔をしている。

「わ、私を捜して下さっているのかも! 私の勝ちですよね!」

 嬉しそうに話しかけるが、不知火は真顔で、新選組を見つめている。

「あいつらの一人が手に持ってる着物、お前の着物じゃねえのか?」

 遠くて、色しか認識出来ないが、どことなく自分の着物の色に似ている。

「ま、まさか。近くで見て来ます」

 一歩足を出した所で、不知火に手首を握られた。

「俺も行くぜ。なんせ、お前のその格好、知られたら困るんだろ? 俺を盾にして確認するんだな」

 言われて思い出した。千鶴はしまった、と思いながらも、ありがたく不知火の背に付いて、隊士に近づく事にした。

 近づくにつれ、手に持っている着物の色がはっきりとしてくる。見慣れた色。土の付いた袴。不知火に握られてない方の腕で、思わず不知火の腕を握った。

「なあ、そこの兄ちゃん。その着物見せてくれねえか」

 何を思ったのか、不知火が隊士に話しかけた。不審な顔をする隊士達。

「俺の連れがよ、その着物の色が気に入ったらしくてな。ひと目見せて欲しいんだと」

 それを聞いた隊士は、怪しみもせず、不知火に着物を渡した。それを不知火が千鶴に渡す。渡された千鶴は、まじまじと着物を見つめた。自分の着物だ。間違いなかった。この色を忘れるはずがない。何せ、父に選んで貰った反物だったのだ。

 そっと、不知火に返す。不知火は「ありがとよ」と一言で着物を隊士に返した。千鶴に気づかないまま、隊士達は去って行く。

 どう考えればいいのか、分からなくなった千鶴は、途方に暮れた。何故隊士の手に自分の着物があるのか、分からない。まさか。その後に続く言葉が、途方も無く怖い物だった。

「おいおい、泣くんじゃねえよ。ほら、腹減ったから店に入るぞ」

 不知火は乱暴に千鶴の頬を手で拭って、手首を掴んだまま歩き出す。どうやら、涙が頬を伝っていたらしい。濡れた頬は酷く冷たく感じる。

「すみません」

 借り物だと分かっていながらも、裾で涙を拭いた。それでも、千鶴の涙は止まりそうに無かった。

 

***

 

 夕暮れ時。不知火は千鶴と蕎麦屋で酒を飲んでいた。勿論、酒の飲めない千鶴は不知火の前でお茶を飲んで蕎麦が来るのを待っている。

「ちょっとは落ち着いたか?」

 不知火はだし巻き玉子を食べた。噛むと少し弾力はあるが、しっかりとした鰹節の旨みが口に広がる。これを酒の肴にして食べるのが美味いのだ。

「……はい」

 元気のない返事をする千鶴に、不知火は溜息を付いた。

「ほら、これひと切れやるから食えよ」

 箸ごと千鶴にやると、不知火は盃を一気に空にした。

 だし巻き玉子を貰った千鶴は、何か考えるような素振りを見せながら、頬を染めた。

「い、いいんですか?」

 顔を上げて言う千鶴は戸惑っているのか、目が彷徨っている。

「遠慮なく食えよ」

 何が気になるのか。千鶴が頬を染める意味が分からない不知火は、しげしげと千鶴の顔を見た。恐る恐る箸を持った千鶴は、玉子を一口の大きさに切り、ゆっくりと口に運んだ。

「何だお前。俺の食べかけなんか気にしてんのか」

 合点がいった不知火は、ばしっと音がなる勢いで千鶴の肩を叩いた。それで驚いたのか、咳き込んだ千鶴は不知火を睨む。

「急に何するんですか! それは気にします!」

「そんなお前が男所帯によく居られたもんだな」

 口走ってから、不知火も妙に改めて思った。本当に、千鶴は女一人でよくあんな所に居るもんだと。年頃の娘が飾りもせず、化粧もせず、挙句の果てには男装までして。

「逃げたいって、思わねえのかよ。逃げるなら、今が良い機会だと思うぜ」

 千鶴は、不知火の目を捉え、はっきりと口にした。

「私は逃げません。新選組の皆さんと約束したんです」

 真っ直ぐな瞳は、何にも囚われず、純粋に信頼している目だった。先程の事を忘れているのか、そんな事が頭に過ぎると、不知火に頭に来る違和感が襲った。

「信用してるみてえだが、さっきの事はどうなんだ? お前、泣いたよな? 裏切られたと思わなかったのか? 新選組が、お前を捨てたってよ!」

 虚を突かれたように、千鶴は目を見開いた。じわりと潤む瞳。

「そ、それは……何か訳があると、思うんです」

 必死に涙を堪え、千鶴は不知火から目を逸らした。

「人間は弱いぜ。すぐ死んじまうし、簡単に裏切る」

「新選組の皆さんは違います! 皆さんは、自分の信じた道を貫いてます! それを曲げるような方達ではありません!」

 さっきまで目を逸らしていた千鶴だったが、新選組の事になると、対峙するように不知火を見つめる。

 不知火は、盃に酒を注ぎ、頭に来る違和感に任せて飲み干す。手酌では、どうも味気ない。

 千鶴を見ると、前の自分を見ている気分だった。それが、苛立ちになっている。苦しい思いをする前に、人間から離れろ。そう、言っているのに、気づかない、分からない。それとも気付きたくないのか。

「それに、新選組の皆さんがどう進んで行くのか、見届けたいんです」

 己の気持ちを逃すまいとしているかのよう、千鶴は胸に手を当てる。

「そうかよ」

 千鶴の大半を占めているのは、それなんだと思った。一つを目指し、突き進んでいく男達の行く末。どんなに道が塞がれようとしても、自分達の手で進む先は何処に辿り着くのか。

「お前がそう思ってるんなら、もう何も言わねえよ」

 手酌をしようとして、手を止めた。

「酌をしてくれねえか。手酌じゃ味気なさすぎてよ」

 千鶴は少し考えた様子だったが、酌をする。酌をする千鶴の横顔を、ぼうっと眺めた。長い睫毛と、ふっくらとした頬と唇。

「勿体ねえな」

 男装させておくには勿体無い顔立ちだと思った。島原でのあの格好も綺麗だったが、町娘の格好も悪くない。それに、その辺の女にしては度胸もあって、少し頑固だ。賭け事で不知火が勝ったら風間に渡す、なんて事を言ったが、さらさら渡す気は無かった。屯所に送り届けるつもりだった。

「千鶴。お前を屯所に返すのは惜しくなったぜ」

 さっと振り向いた千鶴は、何事かと不知火を見る。その時だった。

「女を口説くとは、鬼も人間と変わらねえんだな、不知火」

 振り向くと、原田が槍を持って立っていた。

「ここで暴れる訳にはいかねえからな。大人しく、千鶴を返してもらおうか」

「千鶴、無事か!」

 原田の隣には藤堂。千鶴を心配しながらも、不知火を睨んでいる。

「もう助けが来ちまったな」

 原田がいつも以上に殺気立たせ、不知火の様子を見ている。恐らく、最初から攫ったのが不知火だと思っているのだろう。隣に居る藤堂も子どもにしては嫌なくらい怖い顔をしている。それが面白く、不知火はにやりと笑った。それから千鶴の唇を奪うと、鬼の速さで蕎麦屋の入口へと走る。

「ご馳走さん」

「不知火!! てめえ!!」

 原田の怒号が聞こえたが、不知火は止まらずに逃げた。

(次に会う時は、本当に攫ってしまうのも悪くねえな)

 そんな事を思いながら、不知火は夜の京を駆け抜けた。

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