月と海との間の空を、鈴の音ほがらかにソリが翔ける。牽くのはぬいぐるみのようなトナカイ。操るは赤い服を着た白い髪の少女。長く白い髪のたなびきに触れた月の光がきらめく粉雪になって、夜色の海を彩る星屑と混ざりあう。
「ブリッツェン、もうすぐ日本だよ~」
頬を紅潮させてその少女、イヴは相棒のふかふかの背中に声をはずませた。世界中でひときわサンタクロースを愛する国。主イエスの人気を翳らせるうしろめたさも、初仕事のこの日、イヴはすっかり忘れて舞い上がっていた。成層圏の下面から雲を蹴るほどの高さまで、ブリッツェンが下っていく。密度を増した空気がドラムロールを耳許に聴かせる。イヴは慌てた。それは下げかたが急だったからで、ひいては、幼いころの事故を思い出したからだった。
雪の丘はなだらかに下って広がり、岩地、荒れ地、人家の向こうに紺色の水平線が見える。樹木など一切ない、グリーンランドの広野だ。イヴとブリッツェンはその日、ソリで空を飛べるようになった。はじめは雪の出っぱりにバウンドしただけと思った二人だったが、その感覚は落ちるときのものとはちがっていた。
這えば立て、立てば歩めとは自分自身にも思うもので、シュプールを飛び越えたら次はあの茂み、こんどはあの岩、苔とシダの一帯。はしゃぐごとに飛ぶ高さと距離とを伸ばしていく。すっかり気が大きくなって、幼い日のイヴは苔に覆われた小高い丘をミトンの手で示した。
「あの向こうまで飛んでみよ~!」
生来の相棒ブリッツェンが小さい手に小さいヒヅメを重ねる。二人の瞳は未踏の丘のさらに上をゆく雲を見つめ、白夜のやわらかな陽射しにかがやいていた。幼い握手をそっと包む節くれだった魔の手の昏さなど、その目に映ることはなかった。
ソリはかがやく瞳の導くままに風のレールを駈け上がる。大地の岩と苔とが怒涛のように流れ去る。やがて小川のゆるやかさになった地表に、二人の影が小さい。地平線は満月に淡く、水平線が太陽に煌々と、一つの輪となってつながり、人間が身につけるひと組の指輪を思わせた。
透明なゲレンデをソリは颯爽と滑り降りていく。この年の白夜最後の満月は低く大きく、濃い金色のウインクでイヴを誘う。伸ばされた幼い手を氷より冷たい禍事の手が掴み、バランスとスピードとを取り上げて、代わりに大地への切符を握らせた。ブリッツェンのおかげで直行便には乗らずに済んだが、二人は雪の斜面を落ちていった。その毛皮に二人の身体を守り抜くだけの厚さがあったのも幸いだった。一身に不幸をひきうけて砕けたソリを引き連れ、イヴとブリッツェンは雪をまんべんなくまとって岩だらけの荒野に転がり出た。
ハ、ホー、クァック、クァック。
天地の区別を手でさぐるイヴの耳を、奇妙な響きが占領した。
首を動かすとやっともどった平衡感覚が鼻から抜けていきそうで、イヴは金色の丸い目だけで四方を確かめた。ブリッツェンが首をすぼめて縮こまっている。ミトンと毛皮ごしにも筋肉のこわばりがわかる。その黒く大きい虹彩を釘づけにするものへ、イヴもこわばる顔をようやく向けた。
それは黄金の瞳だった。豊かな純白の毛が風に膨れている。まっすぐに視線のぶつかったイヴは、一瞬、鏡があるのかと思い、すぐにかぶりを振った。粉雪を紡いだ白い髪が空気に膨れ、振り落とされた根雪は低い陽光に小さい光の手を伸ばしたまま地面に帰っていく。
自分の唇はこんなに小さくも黒くもない。幼い目はしばたいて、目の前にいるものの名前を頭のなかの真新しい抽斗から引っぱり出すと、赤い唇へと運ぶ。
「シロフクロウ! ……さん」
シロフクロウは低い姿勢で翼と尾羽根を扇の形に広げたまま二人から視線を外さない。奇妙な声は威嚇の声だったのだ。子供とはいえ二人はシロフクロウにすれば巨大ないきものだ。猛烈な音と勢いで飛びこんできたものたちへ、羽毛を精一杯膨らせて脅かすのはしぜんなことだった。そして、妖精のようなものとはいえ子供のトナカイのブリッツェンが、北極圏の捕食者に怯えるのも無理からぬことである。
「いきなりおじゃましてごめんなさい~」
イヴが小さい手を顎の先で合わせる。怪訝そうにシロフクロウは頭を左右に揺らす。張りつめた白い翼の下からもう一羽シロフクロウが顔を出した。威嚇に広がる羽毛とはちがい、こちらは岩の色を全身に散らし、顔だけが真っ白い。その白い顔の、黒く小さいクチバシで、怒りの声を発する顔のヒゲを甘噛みした。
「よしなさいよ、この子たち荒らしに来たんじゃないみたいだよ」
……シロフクロウは人間の言葉を話さない。しかしその鳴き声の調子、身振り、目つきは、じゅうぶんに雄弁だ。サンタクロースのイヴは、それらを自分の語彙と正確に結びつける感性を持っていた。
「そうなの? じゃあやめる」
ただしまだ幼いイヴの語彙の範囲において、である。
「私、イヴです! サンタクロース~……の、見習いです! こっちはトナカイのブリッツェン」
シロフクロウたちは名乗らなかった。動物は名前を持たないからだ。それでも、純白のほうが夫で、マーブル模様が妻だとは答えた。
「結婚して、最初に巣に選んだのがここだったの。もうずいぶん昔ね」
「だいじな場所なんですね~」
イヴは思い出の場所を荒らしたことに重ねて詫びた。そして促されてこうなったいきさつを熟年夫婦に説明する。言葉と表情、身振り手振りで、まだぎこちない動きのブリッツェンの助けも借りながら。
「丘のこっち側は風が荒れてるものねえ」
「かぜ……」
「そうさね。ああした空を飛ぶときはぐっと緊張するねえ」
イヴは小さい唇から、息のかたまりを吐き出した。
「ずーっと高く上がって、お月さまがきれいで、つい手を伸ばしちゃったから、サンタが欲張っちゃダメって神さまに叱られたんだと思ってました」
「うん、うん、つい見ちゃうわよねえ。どこにいてもずうっと見えるし、でもどんなに飛んでも追いつけないもの」
イヴは細い首をかしげた。欲や神さまという概念をそもそも持たないものたちに、イヴの誤解はノイズにしかならなかったのである。少女の、ところどころ難解な話を熱心に聞くのはもっぱらマーブル模様のおばあさんシロフクロウで、純白のおじいさんは厚い羽毛に覆われた太い脚で幸と岩の大地を歩き回っている。
「この目玉はおまえたちの仲間のものか?」
金色の瞳を輪をかけて丸くしてイヴはおじいさんを振り向いた。小さい黒いクチバシに、金色の大きい球体をつまみ上げている。
「ああ~……。それは鈴ですぅ。ソリの横につけてた鈴。お目々じゃないですよ~」
イヴが振るジェスチャーをしてみせたので、おじいさんは首を振った。しゃんしゃんと音がして、驚いたおじいさんは鈴を雪へ放り出した。
「これ、まだ生きてる!」
白く大きい脚の黒く鋭い鉤爪が、転げた鈴を押さえつけ、細い口いっぱいに雪を頬張らせる。舌が回らなくなったのを確かめて、おじいさんは満足げに息をついた。
「鈴は動物じゃないんですよ~。ソリが動くと音が鳴って……」
ミトンの手によって雪を吐き出させられ、鈴は舌の凍えたふうもなくもとの音色を奏でた。シロフクロウ夫妻はおなじように顔を傾ける。
「自分はここにいますよ~ってまわりに教えるための道具なんです~。ホッホッホ~って笑いながら~」
「自分の場所を教えるなんてばかじゃないのか」
羽ばたく音を遺伝子からさえ抹殺してきた捕食者の、それは素直な感想だった。空に、雪に、あるいは岩にその姿をまぎれさせて周囲に知られぬことが生きる条件に課される北極圏では、ほかのどの生き物に伝えても奇異の目で見られるだろう。衝突事故という危難を遠ざけるために人間たちはソリや馬車に鈴をつける、などとは。ましてサンタクロースの空飛ぶソリでは、
「サンタが来るとみんな喜んでくれるんですよぉ」
というありようで、二羽がぽかんと口を開けてしまうのも無理からざることだった。およそ理解できない道具から引き剥がしたおじいさんの興味は、苔むす岩の裏からのぞくものに吸いつけられた。破けたソリのクッションだ。飛び出した綿を爪とクチバシで器用にちぎると、おばあさんのうしろにあるスープ皿のようなくぼみへ運ぶ。
「この動物はいい毛皮をしてるんだな」
「ソリも動物じゃないですけどね……」
「あなた、そんなに巣を整えたってしょうがないでしょう」
ぎこちなさからようやく解放されたブリッツェンがイヴの袖を引く。赤い布地に南の国の花々を刺繍したあのクッションは、イヴのお気にいりだった。いまや凍れる大地の霜と土と苔にまみれ、白い綿を見る間に抜かれて、赤いばかりのぼろになってしまっている。
「いいの、ブリッツェン。おばあさんたちの巣があったかくなるんだよ」
つまんだ鈴がしゃんと鳴った。ブリッツェンはそれ以上いわず、イヴもおばあさんも巣の豪華になるのを見守った。白夜シーズンも終盤の太陽が北西にそびえる山にかかり、薄金色の空気があたりを満たした。
そろそろ帰らないと。膝の雪を払ってイヴは立ち、しばし考えてからブリッツェンにまたがった。ソリを失って、二人で帰る方法はほかになく思えた。頭を低くし、四本の脚を力強く動かし、岩も雪も踏み鳴らしてブリッツェンは走った。しぜんとモンキー・スタイルになってしがみつくイヴの目に太陽が見え、月が見え、また太陽が見える。やがてシロフクロウ夫妻の前にもどってくると、ブリッツェンは座りこんでしまった。飛ぶだけの体力と、なにより自信がなくなっていたのである。
「怖かったもんね……。わたしも、まだちょっと怖い」
明るい茶色の毛皮を手ぐしで整えながら見上げる斜面は、やさしい金色の陽射しを踏みつけて、青黒い外套で二人に覆いかぶさろうとする怪物に見えた。
帰れない。
心のなかではっきり言葉になってしまったそれは幼い心臓を締めつけ、丸い目を渺茫たる海に沈めた。ブリッツェンにはあかぎれそうな頬を舐めるしかできなかった。
しゃん。涙の音だけの雪野原に澄んだ音がひびいた。
「おまえさんたちの巣はどこにある?」
純白のフクロウが鈴をくわえて訊ねる。二人は丘の向こう、太陽と月の間を指した。
「よし、親を呼んでこよう。この鈴でおまえさんだとわかるんだろう?」
さっそうと飛び立ったシロフクロウのおじいさんは丘の影を白く切り裂き、長い翼を一打ちして荒らしま風を黙らせる。さらに高さを増すと、小さい夕陽になってまたたいた。おばあさんはブリッツェンの角に飛び乗って、目を細めてそのうしろ姿を見送っていた。ブリッツェンが怖がっているといわれると、おばあさんは頭から首を伝って背中に座った。鳥の骨格からすればそれは踵で立つ恰好だが、すべての足の指を前へ放り出したその姿勢は、イヴには座ったように見えたし、当のおばあさんにとっても休憩のポーズだった。
「聖アンデレさまのみしるしみたい」
フクロウたちの特徴の一つがその足の指だ。X字状に生えていて、ふだんうしろを向いている薬指は前まで回すことができる。シロフクロウの足趾の豊かな羽毛からのぞく、滑り止めのきいた黄色い地肌が、イヴには聖アンデレ十字を思い起こさせた。
「アンデレさまは最初の法王さまの弟で、お兄さんをイエスさまに引き会わせたかたなんです。イエスさまが奇跡で食べ物をお増やしになったときだってパンと魚を持った子を見つけて来たのはアンデレさまで~。いい出会いをくれる聖人っていわれてるんですよぉ~。あっ、アンデレさまのばってん印って月のシンボルだから、きっときょうの満月がわたしたちを会わせてくれたのかも~。それから、将来結婚する相手をアンデレさまが教えてくれるおまじないもあるらしくって~」
鳥の身には受け皿なき概念だらけの話でも、イヴが楽しそうなことはおばあさんにもよく伝わっていた。ピリオドの代わりの吐息を聞いて、ホホホとおばあさんは笑う。
「結婚相手はね、選ぶものだよ。わたしだって、三人のうちからいちばんたくさんネズミを獲ってきたあのひとを選んだんだからね」
「おばあさんモテたんですねぇ~」
「いいかい、たまに大物を仕留められたってだめなのさ。家族に毎日お腹いっぱい食べさせられるのがいい男だよ。あんたもキツネやアザラシなんか放っておいて、ネズミをたくさん獲れるようになりな」
「……あのぅ、おばあさん、わたしも女の子です~」
点になった黒い瞳孔を金の虹彩にまた広げて、おばあさんはしげしげとイヴを眺めた。
「真っ白いし、男みたいな声を出すからまちがえちゃったわね」
純白の羽毛もホーホーという声も、シロフクロウには雄だけのものだ。また一つ知識を増やしたイヴから、おばあさんは顔ごと視線を外した。岩地にのぞく土を掘った浅い巣は、イヴからもらった綿で少し明るくなっている。夫と自分との間に、そそっかしさという共通点をあらためて見出したようで、金の目を細めた。
「あのひとったら、あんなに巣を整えたって、わたしは卵を産めそうもないのに」
「産まないんですか?」
「もう歳さね」
地平線へのゆるやかな旅路を往く太陽が、山の頂に一時の宿を求めた。山の輪郭が赤金色に燃え、雪と岩の平野が少し暗くなる。黒々とした丘がゆっくりと吐きかける冷たい息に、イヴは小さい身体をすくめた。夏でも一〇℃に満たない日の多い土地である。ブリッツェンに促されてその毛皮に身を寄せても、秋口を吹き渡る〇℃の風は芯までこたえた。
イヴの脚に重いものが落ちかかった。おばあさんシロフクロウが細い脚をくるみに来たのだ。四〇℃を保つ鳥の体温と羽毛は、イヴの脚から全身までをあたためた。
「ありがとうございます~。おばあさん、すごくあったかいです」
「毎年こうして子供をあっためたっけ。最後の子は、えらく大きいねえ」
空いた背中に冷えを感じたブリッツェンがくしゃみをした。それに驚いたように太陽が山頂から飛び出すと、寒風の野をふたたび慈愛の光で満たす。いとおしい温度が三者それぞれをまどろませた。イヴの上半身がブリッツェンの荷物になりはじめたとき、おばあさんが首を回転させて虚空の一角を凝視した。少し遅れてブリッツェンがそれを見やり、身を揺すってイヴを起こす。赤い雲と黒い大地の間、金色の空を、純白の鳥が飛んでくる。心をはずませる音がしゃんしゃんと聞こえる。白い翼と赤い鼻が、寝ぼけまなこにもはっきりと見えていた。
「おじいさーん!」
「ホー、ホー、ホー!」
二つの返事がハーモニーを奏でる。イヴもブリッツェンもおばあさんも、それには一緒に噴き出した。
自分のおじいさんの丸くて赤くてやわらかい背中から、イヴは地上の老夫婦に手を振った。真似をして翼をはためかす姿は、丸い金色の瞳からいくらかのきらめきをこぼさせた。
「それでね、おじいさん、来年は一緒に空を飛ぼうって約束したの」
しばらくはソリの練習の時間もおじいさんの目の届く範囲に留め置かれたが、イヴとブリッツェンはすぐに空を飛べるようになった。
しかし、その約束は果たされなかった。
翌年は寒波が強く、シロフクロウたちはもっと南に営巣地を求めたのだろうとおじいさんはいった。明くる年も、その次の年も、夏至が近づくとイヴとブリッツェンはあの丘の向こうを見に行ったが、ついに老いたシロフクロウ夫妻と会うことはなかった。
イヴは星々のさんざめく空を仰いだ。丘からの帰り道、毎年していたように、ブリッツェンが硬い表情で振り向く。高度を一〇キロメートル下げても変わらぬ大きさでついてくる満月の光を、イヴは指の隙間ににじませた。
太平洋の西の果て、日本列島の灯りが藍黒の水平線を彩る。眠る街にも眠らぬ都にも一頭引きのソリは鈴をひびかせ光を降らせる。光の粒の一つ一つが白い髪の少女であり、夢に遊ぶ子供の枕許に色鮮やかな箱を残して消える。明くる朝の笑顔を寝顔に見ながら。
子供たち一人一人の夢に微笑みを落として翔けるイヴは、赤い光を曳いて飛ぶ黒いものとすれちがった。都会のカラスは夜ふかしさんだと思いさし、丸い目をみはってふりかえった。翼も爪も目もクチバシも、みな黒いのがカラスである。目が赤いはずはない。光って見えるはずもない。いま満月は雲に隠れているのに。ブリッツェンが警戒の声を上げた。
「あ、悪魔……?」
流れ去る夜空に胸をざわつかせた姿はもうない。手綱を握りなおし、イヴは前を向いて、悲鳴を上げた。カラスの大群だ。巨大な手のごとく広がって、二人を掴んで隠してしまう。至近に見れば、姿こそカラスを擬けども、その目に地獄の火は赤々と隠しきれていない。大雨のなかで咳きこむ野犬のようなおぞましい声が黒い檻のなかを奔り回る。
星空をつんざく声がした。イヴははじめ、それは空の異常さに驚いた地上の人間の男の叫びだと思った。心配してソリから身を乗り出し、すぐに誤りを悟った。悪魔の檻に気づくものもなく、地上は平穏そのものである。たがいの目の溶岩でてらてらと光る黒い翼に遮られ、イヴからもそれは見えない。ただ、ソリに積み上げられたプレゼントを、悪魔たちがナタのようなクチバシで壊しまわる衝撃が、あれは悪魔のリーダーの号令だったことを気づかしめた。
「だ、だめ~! 待ってる子たちがまだ大勢いるんです~!!」
細い身体一つで覆いかぶさり子供たちの笑顔を守ろうとイヴはした。檻を飛び出そうとブリッツェンが脚を力強く動かす。檻は二人についておなじだけ速く飛び、悪魔のクチバシはソリを壊して横から、あるいはイヴの服を引き裂いて、配られるべき小さい希望を砕いていった。
やがてソリの底が破られ、プレゼントのすべてが暗黒の空に散った。次は我が身と怯える余裕もなく打ちひしがれるイヴを、ソリを捨ててブリッツェンが背負う。ふたたび断末魔のような号令がくだされた。二人裸同然の身軽になってなお悪魔は振り切れない。漆黒の矢が一本、二人へ放たれた。失意のイヴは瞬きもせず、その顔へ突進する焼けた黒曜石の先端をただ見ていた。速度を上げてブリッツェンが洟を吹き飛ばした。その音に驚いたように満月が雲から顔をのぞかせた。
不気味に煮える溶岩の鏃はイヴの顔へ食らいつく寸前、白く差した月光に砕かれた。金色の目を丸くするイヴに、憶えのある声が聴こえる。
ハ、ホー、クァック、クァック。
二陣の白い風が悪魔の檻を打ち砕く。黒く小さいクチバシは威嚇の声を上げ、金の瞳が侵掠者の退路を閉ざす。マーブル模様の翼が一つ羽ばたけば何十の悪魔が灰になって消え失せ、純白の足で聖アンデレのみしるしを首に打たれた悪魔は塵に還元された。
「おばあさん、おじいさん……」
空が滲んで見えた。イヴの目に、満月と星々をいだく濃藍の空が帰ってきた。悪魔の檻はすでに形を失い、白い翼の羽ばたくたびに崩れ去るのみだ。しかし飛ばしに飛ばしたブリッツェンの体力もまた底をつきた。浮くだけの気力も果てたイヴを背負い、ゆっくりと地上へ近づいていく。
マーブル模様の翼が追いかけようとひらめく。それを純白の翼が静かに引き止める。月がまた雲にかかる。やさしく注ぐ二組の金色の光をイヴは見た。。それは星月夜がごとき人間の世界へと巣立っていく最後の子を見送る、親の顔だった。
地面は雪、街角は真夜中。人間の通るたびイヴとブリッツェンは凍える身を隠した。助けを求めたい気持ちを抑える、裸身の恥じらいとプレゼントを配れなかった申し訳のなさとの比率は二人で正反対に、そして大きく偏っている。
また雪を踏む音が聞こえる。イヴは反射的に身を縮め、止んだ足音を横目に見た。金色の目に映るそのひとは、拾い上げた大きい白い羽根のマーブル模様を不思議そうに見つめている。
(了)
※pixivにも同じものを投稿してあります。