「受動喫煙ってこの世の縮図みたいなもんじゃない?」
彼女はブラックデビルを蒸かしながら言う。
「誰かのとばっちりで害されるなんてさ、あまりにもありふれてるじゃん」
「それはそうですね」
キミだってそうでしょ、と続けた彼女の瞳は、ぼくの手元に向かっていた。違いないと頷いて、僕は口を付ける。小刻みな破裂音の後に、電子タバコの点灯ランプが光った。
「だからこそ棲み分けがされてる訳だし、一番実害を被ってるのはキミみたいな人間なんだろうね」
「そのくらいは経費かな、と思ってます」
「ほう?」
携帯灰皿をコツコツと叩いて、JPSを一本取り出しながら、彼女は興味ありげにこちらを見た。
「喫煙だとか禁煙だとかをやりきる勇気はなく、なのに吸いたくて堪らなかったから手を出した半端者。傍から見たら電子だろうが加熱だろうが紙巻だろうが絵面は変わんないんすよ、みんな等しく喫煙者。その括りに温情で入れてもらってるようなもんなんだから、まあ多少の被害は見物料みたいなもんです」
「キミも存外変わってるねえ」
どれだけ格好付けようが、結局意味なんてないのにね──と頬杖をついて紫煙を燻らし、絵になる姿で彼女は言った。
◇
喫煙所。喫煙者が唯一存在を許される場所であり、非喫煙者に蛇蝎のごとく嫌われる場所でもある。そして我が大学構内唯一のそこは、現在閉鎖されていた。『感染症対策』という五文字の張り紙が各所に貼られ、ビニールテープで入り口が阻まれている。
「ええ……」
久方ぶりにそこを訪れたぼくは困惑していた。まあめちゃくちゃ息吐くわけだし、結果的にノーマスクだし、見てて気持ちのいい場所ではないから当然の処置ではあるのだけれど──それでも非情である。
そもそも、我が学び舎の喫煙所は校舎端の僻地に、煙対策のためか、さながら電話ボックスのように、人気のない、裏山側の一面だけ開かれた透明な箱が、連なって配置されているものなので、接触対策という面では完璧である。換気は最悪だけれど。加えて言えば、喫煙所を利用するような輩はお互い一線を引き合い、ソーシャルディスタンスを保ち合っている。何気なく語り合う場合もあるが、そういった出会いもまた一つの文化であろう。
「まあどうでもいいか」
ビニールテープをかきわけて、ボックスの一つに陣取る。腰辺りの位置に灰皿が置かれ、それを囲むように三人入るのが限度だろうという狭い空間が、張り紙やら何やらのせいで余計に窮屈に見える。どうせこんな辺鄙なところ、これが目的の人間しか来ないのだ。無論灰皿は撤去されているが、こういう時は電子様々だなと仄かな桃の香料を味わった。
「ちょっとキミぃ、こんなところで何してんの! 今は感染症対策で使用禁止なんだぞ!?」
煙を吐きながら山を眺めているときに、背後から声が響いた。咎めるような声音に小さく心臓が跳ね、どう言い訳したものかと振り返れば、毛先が七色に染まったブロンド軸の派手髪に、無数のピアス穴を携えた女がニマニマと嫌な笑顔で仁王立ちしていた。片手には煙草の箱を持っている。
「あ、悪魔だ……」
「んー? もしかしてあーしもそこそこ有名になった?」
一際綺麗に口元が弧を描いて、同時にぼくの心臓がきゅっと締め付けられた。『悪魔』というのはこの学校では有名な通り名で、曰く、喫煙所に神出鬼没で出現する、ピアスバチバチ、派手髪フリルマシマシ量産型ワンピース年齢不詳女。亡霊みたいなもんで、十年くらい前からずっとそこにいると噂されている。常に喫煙所一番奥のボックスを愛用していて、彼女がいる時はどんなコワモテの兄ちゃんも、同じボックスを使おうとはしない。愛飲しているのはブラックデビルで、それ故にその異名がついたとか。ちなみに愛煙家の中でも吸う銘柄によってある種の性格診断があり、ブラックデビルは満場一致で『関わるな』の称号を欲しいままにしている。
「よいしょ、と」悪魔が隣に腰を下ろした。そういえば、ぼくが現在いるのは彼女の指定席である最奥のボックスだった。普段はここを使っていなかったので完全に失念していた。
「吸っていい?」
「喫煙所でそれ咎める人間いると思います?」
「や、普通に吸うけど一応ね」ジッポで着火して、彼女は煙を吐いた。バニラのような甘い香りが仄かに漂い始める。
「キミ、パチパチくんでしょ」聞き慣れない呼称に目を丸くした。
「なんすか、それ」
「よくそこの茂み裏で吸ってるでしょ? 電子のぱちぱちって音響かせてさー、だからパチパチくん」
子どもじみた命名に、無邪気な笑顔で彼女は言った。
「……その通り名、広まってるんすか?」
「いいや? あーしが勝手に呼んでるだけ。かわいいでしょ?」
「絶対他の人に言わないでくださいね」
手元でパチパチさせて、深く息を吐いた。こういうよくわからない状況の時は、とりあえず煙に巻いて場を保たせるに限る。視界の端では悪魔が、緩んだ顔で頬杖をついて、こちらを見つめていた。
「なんすか」
「ん、
色素の薄い切れ長の瞳がこちらを見つめる。なんだか魔性の魅力を感じたので目を逸らして、ポッケの中のライターを弄ぶ。それすら可愛いと思われるのは目に見えていた。
「一本いる?」
小さなポーチから幾つか箱を取り出しながら彼女は言った。ブラックデビル、JPS、ラッキーストライク。
「いや、大丈夫っす」
「おや、口に合うやつはなかったかい?」
「や、俺いま禁煙中なんで、お気持ちだけで」
そりゃ残念、と彼女はラキストを一本吸った。
そんな出会いから、ぼくたちは不定期的に喫煙所で遭遇するようになった。彼女に言わせれば『前からすれ違ってはいた』とのことだけれど、まあそこは誤差だろう。良き隣人、というか一方的にぼくが彼女にからかわれるばかりであったが、まあそれなりに楽しかった。待ち合わせるわけじゃなくて、たまたま喫煙所で鉢合わせるだけの関係で、連絡先も、名前さえ知らない。吹けば飛ぶような、宙に溶けるような、煙のような関係だったが、ぼくがいままで出会った他人の中で、彼女と過ごす時間が一番どうでもよくて、よかった。
「パチパチくんさ、その桃のヤツ好きだよね」
「ああ、これが一番美味いんすよ。煙草っぽさは微塵もないですけど」
「ふうん」真冬にも関わらず曝け出された太ももを、人差し指で叩き、悪魔は言った。
「じゃあさ、ちょっと吸わせてよ」
「や、ご時世柄それはちょっと」
「いーじゃん、一緒にこんな狭いところにいる時点で、あーしらは運命共同体っしょ?」
バニラみたいな匂いが間近になった。そう言われてしまうと、それもそうだなと頷きかけてしまう。それほどまでに近いなら別にいいか、と錯覚を起こしてしまう。蜘蛛の糸が張り巡らされているのを感じつつ、ぼくは一歩を踏み出した。
「ふう──」彼女はパチパチさせると、大きく息を吸い込んで、そのまま煙をほとんど飲み込み、肺を循環させきってから透明な煙を吐いた。「うん、なかなかなかなか」
「お口に合いますか?」
「うん、パチパチくんの味がする」
舌ピをのぞかせて彼女は妖艶に笑った。
「こーゆーのも悪くないね、下手にアイコスとか吸うよりも好きかもなー」
「気に入ったならそれ、あげますよ。カートリッジも本体も、うちにまだ余ってるんで」
「や、遠慮しとく。ヤニが被るとさ、なんか個性なくなったみたいでヤじゃん?」
それは分からなくもない感覚だった。先程の銘柄診断に代表されるように、愛飲する煙草というのは一つの個性である。空き箱一個、一本の残り香に至るまで、その人の身体、印象に染み付き、個人を連想させるものに繋がるのだ。
「まあ相変わらずの煙信仰と言われればそれまでなんですけど」
「あーしも最初はパチパチくんみたいなタイプだったからね、わかるよ。憧憬で不味さを上書きしてたら、それが日常になっちゃった──みたいなやつ」
「まさにそうっすね」
なんとなく、喫煙するオトナがカッコよく見えたから始めて、カッコ悪いまま吸い続けてたら当たり前になっていた。喫煙所のムッとする臭いも、服に染み付いた時の香りも、全部が全部未だに好きではないけれど。
「好きな人なんていないよ、みんな惰性で慣れちゃっただけなんだから」言いながら、彼女はJPSを吸った。惰性で吸っているにしてはサマになりすぎてて、この人のこういうところが苦手だと思った。
「悪魔さんが色んな煙草吸うのは、どうしてですか?」
「それはもう、ゆーじゅーふだんだからさね」
三本一気に着火して、彼女は大きな煙を吐いた。そうして漂った匂いは、たしかに彼女の香りだった。
「もしくは、あーしの愛が広いからだねえ。一つに絞るには深すぎるのよ」
「浮気症ってことっすか?」
「意外と一途なもんだよ」
私はね、と悪魔は続ける。鳶色の瞳がこちらを捉えていた。
「もしかして俺、誘われてます?」
頷いたら襲ってくれんの? と、からかうように笑われた。「笑止」
「あいにく処女信仰も深いもんで、ある程度はピュアな恋愛してからじゃないと」
「乙女だねえ、あーしもそのくらいカタブツでなきゃな」
体は柔らかいけど、といらない一言を足して、悪魔は大きく伸びをした。ロリータのフリルと、胸元のリボンが揺れる。
「なら今は、この狭い箱の中で許しといてやんよ」
「むしろこの方が燃えません? 密室に男女二人っきりっすよ」
「煙草が燃え続ける空間じゃなきゃエモかったね」
吸い殻をヒールで踏み潰して、悪魔はビニールテープを潜った。
「さて、口直しにあーしはコーヒーブレイクしてくるよ」
「いいっすね、やっぱりヤニにはカフェインですよ」
いつ立ち去るのかと見守っていれば、悪魔は不機嫌そうに「なにぼーっとしてんの、キミもおいでよ」と言った。
「え、俺もいいんですか?」
「むしろなんでダメだと思ったの、ウケる」けらけら笑って彼女は手を差し出した。
「あーし、いいとこ知ってんの。一本くらいなら奢ってあげるからさ」
手を握り返す。細い一線を越える。
「思いっきり吸わす気じゃないっすか」
「だってヤニにはカフェインなんでしょ?」
悪魔はイタズラっぽく笑う。バニラのような甘い香りがした。