※喫煙が主題です 良い子は真似しないでね
※ハンター出てこないけどウツシ教官とハンターは恋人同士の設定
夜夜中、薄雲掛かる春月の下。深更の闇に溶ける黒装束に全身を包んだ男は、この里で最も高い場所──たたら場の屋根の上で、懐から一巻きの煙草を取り出した。口に咥えたその先に火を点そうと燐寸を擦る寸前、ふと手を止める。己の手中にある炎の素は未だ仕事を始めてもいないのに、何処からか、既に火を点けられた紙と乾いた植物片が燻る匂いを感じた。
こんな夜更けに誰だろうか。興味を唆られ、一旦煙草と燐寸を仕舞い込む。人より飛び抜けて敏感な鼻腔を擽る微かな刺激を頼り、ウツシは儚げに宙を漂う香りを辿る旅に出た。
程無くして探り当てた煙の主は、誰も居ない船着場の桟橋の先端で一人、裸の足を水に浸して空を仰ぎ見ていた。透明感のある白銀の髪が、柔らかな月光を浴びて薄暗闇の中で仄かに光る。上方を見上げる為に大きく逸らした上体、それを支える右手の細い指には赤い蛍が燃え、そこから、彼女の髪色とそっくりな紫煙が揺らいでいた。
「こんばんは。ご一緒してもいいかな」
「!」
清廉と艶を着流した浴衣姿の背中に向かって、そっと声を掛ける。声色や声量には十分配慮したつもりだったが、ウツシの来訪を全く予想もしていなかったアヤメはびくりと肩を跳ね上げ、上半身だけを捻って驚きの表情で此方を見遣った。何故か、悪戯を見咎められた子供のような、居心地の悪そうな顔をしている。
問いの答えを待たずにウツシが歩み寄り、一人分程の間を空けた右隣によっこいせと胡座を掻いて再び煙草を取り出すと、アヤメは一瞬だけ切れ長の目を丸くしてその手元を見つめ、それから拗ねたように暗い川面へ視線を落としてぼやいた。
「……ここなら誰にも見つからないと思ってたのに」
「里の皆には秘密なの?どうしてだい。堂々と吸える身分なんだから、隠す必要なんか無いだろう」
「別に隠してるって程でもないけど……あんまり格好良いモンじゃないでしょ、こんなの」
肩を竦めてチラリと横目でウツシを一瞥し、直ぐにまた所在無さげに空を見上げて、煙草を口に運ぶアヤメ。
何気なく煙草を挟んで支える指先。それを唇の端へ導きながら、ごく自然にふわりと口許を覆い隠す手。熱を持った刺激の強い煙を肺に通しても、通常と何ら変わらない深呼吸。無駄な力みが無い一連の所作は、彼女がこの習慣を身に付けてから既にそれなりの時が経過している事をウツシに推察させる。おそらくウツシの物と同じく彼女の手製だと思しき煙草が、既製品と見紛うほど固く丁寧に巻かれている事も、熟れたイメージを更に強い物にした。
「いやいや!とても様になってるよ。俺にモンスター以外の絵も描ける技量があったら、今見てるこの光景を丸ごと絵にしたいくらい」
「ハッ。勘弁して」
言葉を尽くした心からの賛辞にもアヤメはまるで興味を示さず、薄曇りの空に向かって己が吐いた煙の行き先をぼんやりと眺めている。日頃は自分を喰い殺そうと立ち向かって来るモンスターや、師の一挙手一投足をも見逃すまいと注目してくる弟子達の相手ばかりしているので、これほどまでに無関心を貫かれるのは新鮮だ。思わぬ場所で出会った非日常。つい、口数が増える。
「アヤメさんが煙草を嗜むとは意外だったなぁ。いざ見れば本当によく似合ってて、なんで吸わないと思い込んでたんだろうって不思議になるくらいだけど」
「お互い様。アンタもそんな風には見えないよ、教官」
「その印象は間違ってはいないさ。俺は特別な日にしか吸わないからね」
「ふーん」
そう。喫煙習慣の無いウツシが、慣れない手巻きの煙草を手にするこの時間。それが非日常の特別な日であるのは、アヤメの存在に何ら関係がない。彼女がこの里に帰って来るよりもずっと前からそうだったのだ。
予定より遅くなってしまった。星が消える前に煙を上げなければ。使命感に駆られ、指先で摘まんだままだった煙草を再度口に咥える。燐寸を取り出して側薬に擦ろうとしたが、続くアヤメの言葉に、ウツシの手はまたしてもぴたりと止まった。
「誰かの供養?」
「……」
アヤメは相変わらず此方を見もしない。助かった、とウツシは思った。自分と同様に数え切れないほどの闇と絶望を見て来たのであろう、彼女の漆黒の瞳。今は宙に揺蕩う煙に向いているそれと目を合わせてしまったら、この夜の静寂と一緒に、何もかも呑み込まれてしまいそうだ。
何とか動揺を収める事に成功したウツシは、完敗だと言わんばかりに溜め息を吐き、逆立てた髪をぐしゃりと掻いて苦笑した。
「……参ったな。流石は上位ハンター、素晴らしい推察力」
「ハンターとか関係ないよ。多いからね、そういう洒落た事するのが好きな男」
「ハハハ、違いない。──お察しの通り、無意味にカッコ付けたい奴にありがちな話だよ。線香代わりって奴さ」
「煙草が好きな人だったんだ」
「そう」
殆ど説明無しに大方の事情を把握されてしまい、却って肩の力が抜けた。ウツシが煙草を手向けようとする相手について、アヤメがこれ以上詮索してくる様子はない。これが好きだったのかと尋ねたのもきっと彼女にとっては些細な戯れ、只の気まぐれ。眼下に流れる川の細流の如く静謐でひやりとした横顔に、『どうでも良い』と書いてある。これから喪った過去に思いを馳せようとしているウツシには、好都合だった。
何度も中断して済まなかったね。そう心の中で詫びながらようやく燐寸に炎を点し、危うく噛み潰しかけて少し曲がってしまった煙草の先端を、揺らぐその炎でゆっくりと炙る。紙に巻かれた葉を通して高温の外炎を一吸いすると、燐寸が放つ熱は容易く此方側へと移り、口内に強い苦味と香薫が充満した。
だが、これを吸引する事はウツシの目的ではない。吸えば吸うだけ煙草の寿命は縮んでしまう。だから、灯した火と想いが立ち消えない程度に酸素を与えるのみ、あとは只々燃えるに任せて天に昇る煙を見守る。それが月に一度、長年に亘って続けて来た、ウツシ流の煙草の嗜み方だった。
今夜は御誂え向きに風も凪いでいる。細く頼りない紫煙の糸は、遥か上空に浮かぶ星に向かってゆるゆると立ち上ぼり、しかしそのどれにも到達する事は終ぞない。“死ねば人は星になる”、絶対的な喪失を理解出来ぬ幼子を宥める為のそんな戯言を信じているつもりは毛頭ないけれど、この時だけは星に煙が届けば良いのにと願ってしまう。しまった、今日はたたら場から降りて来てしまったから高さが足りないかと、煙草を持つ腕を空に向かって掲げ、そんな自分の愚かさに皮肉めいた笑いが零れる。
「普通に線香を立てて、手を合わせれば良いものを……わざわざこんな形にしたくなるのは、本当にただの自己満足だ。分かっているのに、一度やり始めたら止められないんだよなぁ。つくづく面倒な生き物だね、男ってのは」
「……別に良いんじゃない?気持ちのモンだし」
ウツシの饒舌な自嘲をも心底興味がないと言った顔で聞き流しながら、アヤメはふと何かを思い付いたように、先程までよりも少しばかり強めに煙草を吸った。濃い煙を、不自然に広く空間を取った口内にふっくらと含む。そのまま軽く顎を上げて喉奥を僅かにひくひくと震わせると、微弱かつ繊細な息遣いと共に、窄められた麗艶な唇から小さな煙の輪が二つ、ポ、ポ、と吐き出された。
「お、上手い。慣れてるねぇ」
「慣れてなんかいないよ。アタシも、狩りの予定が入ってなくて、すっごく暇で、しかもお酒が入ってる時くらいしか吸わない。休業中はやめてたし」
「へぇ、そうなのか」
器用に形作られた煙の輪は、風とも呼べぬ微かな空気の揺らぎにすら耐え切れず、すぐにふわりと蕩けて虚空に消えた。その跡をじっと見つめるアヤメの横顔は、言われてみればほんのりと桜色を帯びているようだ。心身の健康を何よりも重んじるべきハンターという職で上位にまで上り詰めた彼女が、度を越せば害になる嗜好品に深く耽溺するとは考えにくいし、そもそも、酒や煙草の匂いを付けて狩り場には出られない。怪我から復帰して精力的にハンター業に勤しんでいる彼女が先で挙げた条件を全て満たす機会は、確かにそう多くはないだろう。
「じゃあ俺は今、滅多に見られない貴重な時間に立ち会えてる訳だ。明日は何か良い事があるかもしれないな」
偶然拾った小さな幸運に微笑みながら、光を失い始めた火種にそろそろ空気を送ろうかと、少し短くなった煙草に口を付ける。有害物質が含まれる煙を吸う行為には未だに慣れない。僅かばかりそこに集中したせいで、今の今まで碌に目も合わせなかったアヤメが悪戯っぽい目でちらりと此方に視線を寄越した事に、ウツシは気が付かなかった。
「煙に念でも込めてあげようか。明日ウツシ教官が愛弟子ちゃんとイイコトできますように、って」
「ブハッ!!──おわっ!!ゴホッ!あちっ、あちゃちゃ!!」
思い切り噎せた。咳き込んだ勢いで手元の火種が椿の花よろしくぼとりと胡座の上に首を落とし、喪に服す為の黒装束を突き破って膝を焦がす。小指の爪ほどの火傷と煙による呼吸困難、そして激しい動揺で七転八倒するウツシを、アヤメは氷のように冷たい目で一瞥して鼻で笑った。
「あーあ、消えちゃった。そんな邪念混じりで弔われちゃあ、相手も気の毒だね」
「いきなり邪念をブッ込んで来たのはキミだろう!?ゲホッ、あぁーもぉーびっくりしたぁ、エホッ」
「貴重な時間とやらを邪魔した罰。静かにしてよ、夜中なんだから」
服の上から闇雲に引っ叩いて何とか火種を消し、突如として肺を襲った刺激物に尚も悶絶しながら、ウツシはアヤメの物言いに僅かな引っ掛かりを感じた。『貴重な時間』。ウツシが発したその軽口を彼女がわざわざ拾い上げた、その理由とは。
「ごめんごめん。キミのそれにも、何か特別な意味が?」
気にはなったがどうせ適当に遇われるだろうと然して期待もせず、俯いて涙目を擦りながら問い掛けた。返事は無い。成る程、これは無視で通す方向性か。それならそれで致し方あるまいと顔を上げてアヤメを見遣ると、意外な事に、彼女はいつの間にか川に晒していた足先を引き揚げ、膝を抱えてじっとウツシを見つめていた。何故そんな事を聞くのかとでも言いたいのか、それとも単に、たかが煙草の火と煙ごときに大騒ぎをする男を呆れて見物しているのか。彼女の思惑は読めない。
予想していなかった反応にまたしても動揺したウツシが口を噤んで固まってしまったのを理解すると、アヤメは一つ溜め息をつき、前方へ視線を戻して、煙草を指に挟んだ右手で口許を覆った。此処ではない何処か遠く、暈けた星が浮かぶ場所よりも更に遠くを眺めるかのような黒水晶の目が、透き通った銀髪の隙間から覗く。それを僅かに細めながら、アヤメはゆっくりと息を吸う。煙草の先端がちりちりと命を縮めながら、赤い赤い光を放つ。口許から手を離し、肺の容量一杯まで胸を膨らませた彼女の細い身体がぴたりと止まると、一瞬置いて、薄い煙幕が一息に吐き出された。
煙草に火を点ける習慣こそあれ、それを“正しく”吸わないウツシの目には、一連の流れがとてつもなく緩慢に映った。否、しかしあくまでも自分がそれをしないだけで、他人が喫煙する姿を見るのは初めてではない。かつて最も親しかった者が同じ行為に耽るのを何度も側で見てきたからこそ、巡り巡って今自分は此処に居るのだ。なのにそう感じたのは、己が吐いた煙が月を陰らせる様をぼんやりと眺めるこの寡黙な女が、一見何気ないその一呼吸に、何か深く重い感情を含ませていたからなのかもしれない。長い沈黙の末、何事かを逡巡している様子だったアヤメがようやく発した言葉で、ウツシのそんな疑念は確信に変わった。
「昔の男に教わったの。葉の調合も、巻き方も吸い方も、輪っかの作り方も全部。忘れられたらやめようって、ずっと思ってはいる。でも、ご覧の通りまだ吸ってる。……そういう事」
「……へぇ……」
意外、慮外、予想外。あまりにも不似合いで幼気なアヤメの告白に、ウツシは気の利いた相槌の一つも打てず、目を丸くして呆けた。己の膝で頬杖をついて空を見上げたままのアヤメは、表情を変えず身動ぎもせず、見方を変えれば頑なにウツシから目を逸らして、じっと黙りこくっている。酒が入っているとは言っていたが、元来はどちらかと言えば色白である彼女の肌が、先程よりも赤くなった気がするのは見間違いだろうか。当たり障りなく人付き合いをこなしはしつつ、心の中核には常に高く重厚な壁を張り巡らしている彼女の内側に、それほど奥深く入り込んだ男というのは、一体どんな──
そんな事を考えていたら、アヤメがくるりと顔ごと此方を向いた。驚愕とめくるめく妄想に囚われたウツシの顔を、相変わらず感情の色が無い黒一色の瞳で暫く覗き込み、唐突にプッと小さく吹き出す。かと思えば上半身を翻して此方に背中を向け、肩を震わせてクスクスと笑い出した。更にはそれでも飽き足らず、僅かにではあるが声まで漏らして笑い続ける。何事だ。ウツシは大いに困惑した。
この人がこんなに笑う事があるだなんて。何故笑う。笑われているのが自分である事は疑いようが無い。何故。どうして。訳が分からず呆然とするウツシを他所に一頻り笑ったアヤメは、呼吸を整えて再びウツシの方へ向き直り、まだまだ心底面白くて堪らないといった口調と顔で言った。
「……なんてね。どう?それっぽかった?」
「へぁ?」
ぽかんとして間抜けな声を上げたウツシを見て、アヤメがもう一度派手に吹き出した。今度は顔を逸らさなかったので、ウツシが極めて稀少な彼女の笑顔を具に観察する初めての好機だったのだが、体よく騙されたショックで顔を引き攣らせて絶叫する彼に、そんな事を気に留める心の余裕は一寸足りとも無かった。
「えっええっ嘘!?嘘なの!?さっきからアヤメさんなんかキャラ違わない!?俺まるっきり信じて、そんな乙女な一面があるんだぁーってドキドキしたり、恋心に身を焦がす若かりし日のアヤメさんを想像してちょっぴり切なくなったりしちゃったよ!?」
「は?キモ」
「ええぇーなんでぇぇー!?傷付くー!!普通にめちゃくちゃ傷付くそれぇー!!」
恥じらいに頬を染めているように感じたのは、やはり盛大な勘違いだったらしい。ウツシのあまりの喧しさに眉を顰め、存分に侮蔑の籠もった目で此方を睨むアヤメの顔は、絶望的なくらいに普段通りの仏頂面。さっき見えた気がした愛嬌と柔らかさが滲む笑顔にはもう一生御目にかかれないのではないかと、ウツシはきちんと見ておかなかった事を今更後悔した。
「嗜好品を続ける理由に特別も何もありゃしないって。惰性だよ、惰性。あとは、コレに含まれる依存性物質の中毒が少々。以上」
「ええぇ~……なんか……なんだかなぁ……惰性と中毒ってそんな……」
「……何も無い所に無暗やたらと綺麗な理由を付けたがる奴の事、何て言うか知ってる?」
「えっ?何?」
「ロマンチスト。……はぁ。めんどくさ」
「それ、俺の事……?」
「他に誰がいるのさ」
「アヤメさん……もしかして、俺の事嫌い?」
「別に」
完全にいつもの気怠げな調子に戻って言葉短にそう吐き捨てたリアリストは、半分弱ほどの長さになった煙草をもう一吸いすると、これで終いだと言うように大きく天を仰ぎ、頭上に広がる鈍色の空へ向かって、勢い良く煙を吹き付けた。その気になればまだまだ吸えるように見えるが、アヤメは十分満足したようだ。川へ再び足を浸しがてらに左手の指先で水をいくらか掬い、それを右手の煙草へぽとりと一滴垂らす。じゅっ、と掠れた断末魔の悲鳴を上げ、微細ながらも懸命に輝いていた煙草の先端は、あまりにも呆気なくその命の灯火を消した。人のそれと全く同じに、あまりにも、呆気なく。
用が済んだのならば帰るだろうと思っていたら、またしても予想を裏切られた。アヤメは帰るどころか、煙草の死骸を片手に桟橋へ腰掛けたまま、足でちゃぷちゃぷと無造作に水を蹴って遊んでいる。表情は依然として平常通り、最早少し不機嫌そうにすら見える無愛想だが、よく考えたらアヤメは顔に出るほど酒を飲んでから此処へ来ているのだ。ウツシは彼女の心からの笑顔は見た事がないけれど、決して酒に弱くはない愛弟子に飲み比べを挑まれたアヤメが、顔色一つ変えずに勝利の拳を突き上げていたのは見た事がある。その彼女が酩酊に頬を赤らめていたとあらば、今夜は一体どれだけ呷って来たのやら。案外、見た目の印象以上に酔いが回っていたりするのかもしれない。ウツシにまるで関心を持たず、何を語ってもつまらなさそうにしていた彼女の言葉数が心なしか増えてきたのも、飲み過ぎた酒のせいだろうか。
「ところでアンタのそれ。可愛い可愛い愛弟子ちゃんは知ってるの」
今夜此処で出会ってから十分ほど経っているが、初めて、アヤメの方から新規の話題を振って来た。やはり酔っている。そうでなければ彼女はきっと、興味もない男の私情に首を突っ込んだりはしない。
「いや、言ってない。俺が死んだ時に真似されちゃ敵わないからね。身体に毒だ」
「その毒を今しがた思いっ切り摂取した人間に言うかね、それ。……あの子がこんなのを、真似すると?」
「……しないかな」
「知らないよ。ただ、『男は引きずる、女は忘れる』って言うでしょ。だから、どうかなぁって」
「……わ、わす……わわわ忘れる……?」
「冗談だっての。ホントめんどくさいねアンタ」
初めは先立った自分を想って毎日毎夜泣き暮らしていた愛弟子が、心の傷が癒えるに従って徐々に自分の存在を過去の物として受容し、喪失の痛みを忘れ、ついには教官よりもずっと歳の近い別の男と出会い、結ばれる……辺りまで光の速さで想像して色を失い戦慄き始めたウツシの肩を、強めに小突いて我に返らせるアヤメ。ウツシの鼈甲色の瞳が生気を取り戻したのを確認すると、ぱしゃり、ぱしゃりと川の流れを掻き混ぜる足遊びを再開しながら、訥々と持論を展開した。
「でもやっぱり、あの子はやらないと思うな。もしもアンタがコロッと死んだら、あの子はすぐに後を追うだろうから。きっと、忘れる暇も煙草吹かす暇も無い」
「……それはもっと困るよ。俺が絶対先に逝くのに」
年齢を考えればそうなって然るべきだ。彼女が見送る側、自分は送られる側に、絶対にならなくてはならない。だから、その年功序列が崩れる可能性をウツシは敢えて無視した。その可能性は無視出来るほど低くはないという現実も、この世に“絶対”など在りはしないという残酷な事実も重々知りながら、全力でそれらから目を逸らし、取り残される恐怖から逃げた。
己の全身全霊を懸けて育て、師弟の関係を超えるほどにも愛してきた愛弟子の事を考えると、ウツシは途端に臆病になってしまうのだ。自分があの子の後を追う側になる未来なんか要らない。あの子に置いて逝かれるくらいなら、自分が先に抜け駆けして、忘れられる方が千倍良い。今や人生の何もかもを与え合うまでになった彼女が居なくなった現世など、全て瓦礫に変えて送り火の薪にしても構わない。煙草の煙は星に辿り着けないが、この世の全てを燃やした炎と煙に乗れば、星になった人にも会いに行けるかもしれない。
「……はぁ。あれも駄目、これも駄目、とんだ我儘野郎だね。だったらせめてモンスターの倒し方だけじゃなくて、悲しみとの付き合い方も教えといてあげなよ。こういう物に頼らずに、忘れられない人を悼む方法も」
煙草の煙のように全身を満たした荒唐無稽な空想は、紅が移った吸殻をひらひらと掲げるアヤメの仕草に振り払われた。
「俺は現在進行形で頼りまくってるってのに、随分と難しい事を言ってくれるなぁ。アヤメさんが教えてやっておくれよ。で、ついでに俺にも教えて」
「嫌。アタシはアンタの教官じゃないし、あの子の教官はアンタでしょ。それに、アタシは教えられるような正解なんか持ってないもの」
「正解ねぇ。……キミは、そんな物が何処かに在るって思ってるのかい?」
「……」
相対する者に思考を読ませない深黒の瞳が、ウツシを横目でじっと見つめる。数秒程黙ってそうしていた彼女は、やがて些か大仰に肩を竦め、軽く小首を傾げた。少し戯けたようなその仕草からは、彼女が物事を逸らかす時の『さぁね』という投げ遣りな声が、はっきりと聞こえた気がした。
それで返事をしたつもりになったらしい。アヤメは徐に遊ばせていた足を川から引き抜いて立ち上がり、水が滴るのにも構わず、傍らに置いていた草履に足先を突っ込んだ。
「帰るわ。今日のコレはまぁ、お互いに何も見なかったって事で。……じゃあね」
素っ気なくそう言って、手にした吸殻を挨拶代わりにもう一度軽く顔の横で振り、踵を返して歩き出す。立ち上がる瞬間には少しフラついたように見えたが、その後は足取りも口調もしっかりしている。引き留める理由はなかった。
「了解。ありがとう、気を付けて」
普段より幾分か鈍重な歩みで立ち去るアヤメの後ろ姿を見送りながら、ウツシは気付いた。──煙草を吸い“続ける”理由をただの惰性だと斬って捨てた彼女が、吸い“始めた”理由は、結局教えてくれなかった事に。
そこに必ず特別な何かがある筈だと思いたくなってしまうのは、自分が彼女の言うロマンチスト、引きずる側の生物だからなのだろうか。済んだ事は忘れるリアリストが、ひたすら前だけを向いて胸に溜めては吐き出すほろ苦い煙には、本当に“毒を含む白煙”以上の意味など何も無いのだろうか。いくら考えたとて、何事にも綺麗な意味付けをしたがる男には、答えが見つからない。
ウツシは諦めの溜め息をつき、まだ半分残っていた線香代わりの煙草に再び火を点した。無数の星が今も光る筈の夜空は、白い月光を乱反射する薄い雲に覆われ、一面が煙に巻かれたようにのっぺりとした灰色一色になっている。そこに何が届く訳もないと知りながら、ウツシは自己満足の祈りを込めて、鎮魂の狼煙を上げた。
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女にちょっぴり振り回される男が書きたかった