朝目覚めたら、違う人間になっていた。しかも性別が変わって、女の子だった。
衝撃の目覚めから数分、ベッドの上で自分の体を細部まで確認した僕は、溜息をついた。きめ細やかな肌。短い手足。まだ小学生といったところだろうか。発達途上の体には、まだ女性らしい曲線はない。
ベッドからよろよろと立ち上がる。体のバランスに違和感を覚えながら、見覚えのない部屋に置いてあった大きな鏡の前に立つ。
長い黒髪を後ろに流したその顔を見た瞬間、僕は驚愕した。
「雪ノ下……雪乃……?」
そこに映っていたのは、僕の好きだった物語、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』のヒロイン、雪ノ下雪乃の幼い姿だった。
「……本物の彼女は、どこに?」
驚愕と共に、最初に感じたのは、凄まじい罪悪感だった。僕がこの体になる前にいた、本物の雪ノ下雪乃は?どこに行ったんだ?死んでしまったのか?どうすれば戻ってきてくれるんだ?
何よりも、何よりも……!
「物語は、どうなるんだ?」
配役から間違っている物語は、果たして成立するのか?
僕が好きでたまらなかったあの物語が、僕のせいでなくなる?そんなの、たえられない。
だから僕は、雪ノ下雪乃を演じることにした。
それからの僕は、いや、私は、必死になって本物の雪ノ下雪乃に近づくために努力した。
まず勉学。元々勉強は得意ではなかったが、たくさん時間をかけて勉強した。そして、努力など一つもしていないような澄まし顔で教師からの賞賛を受けた。
友達と楽しそうに話す同級生を尻目に、必死に学んだ。おかげで本物と同じように友達がいなくなったのは、思わぬ成果だった。雪ノ下雪乃ならば、孤高でなければならないだろう。
厳しい親の期待に応え、優秀な姉の後を必死に追った。姉の前で雪ノ下雪乃を演じるのは大変だった。正直なところ、あの姉を欺けたとは思えない。実家にいる間、私はいつ彼女が自分を偽物だと暴き立てるのかといつも不安に思っていた。
立ち振る舞いも、美貌に似合うような優雅なものを必死に身に着けた。足を開いて座らない。表情を大きく動かさない。背筋はピンと伸ばす。常に他人の目を意識する。
元々男として意識のあった私にとって苦痛でしかなかったそれは、年を追うごとに必要事項を増やしていき、決して要領の良くない私の頭を圧迫した。日々立ち振る舞いを矯正して、やがて自分が元々どんな振る舞いをしていたのか分からなくなった。
こうして、雪ノ下雪乃の偽物が完成した。継ぎ接ぎだらけで、本物とはほど遠い偽物だった。でも私は雪ノ下雪乃だった。
さて、私の醜い努力など、仔細に語る必要もあるまい。重要なのは、高校二年生の春。物語のはじまりだ。
これから始まる物語をハッピーエンドにすることで私のこの人生という演劇はひとまず大きな区切りを迎えることとなる。
しかしながら、なんの因果か私という異物が入り込んでしまった以上、もはや同じ物語を完璧になぞることこそが起こりうる最高のハッピーエンドとは言えないだろう。
であれば、ハッピーエンドは私が演出しなければ。そうでなければ私が雪ノ下雪乃であることを、私はこれから一生肯定することができない。私という異物が存在するから他人が、登場人物たちが幸せを享受できないなど許容できない。
決意はとうの昔に済ませた。あとは、演者の一人として物語を演出するのみだ。
◇
開け放たれた窓から届く陽光が、手元の文庫本の頁を照らす。光は風に靡くカーテンに遮られて、ゆらゆらと揺れていた。耳元を吹き抜ける風、そして私が頁を捲る音。控えめな音のみが存在する、穏やかな空間だった。
けれど私は知っている。もうすぐ、この静寂は終わる。
先刻、平塚先生のところに部室の鍵を取りに行った際にたまたま目に入った、机の上に置かれた作文。書いた生徒の名前は比企谷八幡。「青春とは悪である」という一文から始まる、万人の肯定する青春に抗する、あまりにも青々しい作文。青春とは悪であるという傲岸な主張。
けれどそれは、彼が短い人生の中得た実感や周囲への冷徹な観察眼に基づいた信念の表れだった。
やがて、物語の始まる音がした。
静謐な室内に、無遠慮なノック音が響く。それと同時に颯爽と平塚先生が入ってきた。
「邪魔するぞ、雪ノ下」
「先生……ノックをしたら返事を待つものでは?」
「まあ細かいことはいいじゃないか。──おい比企谷、入ってこい」
「なんなんすか、急に連れてきて。だいたい、俺には反省するようなことなんてないですよ」
部室の扉の前に立ち、気だるげに言う彼を見る。濁った瞳、頼りない猫背、そして重力に逆らうようにピンと立ったアホ毛。
間違いなく彼だ。比企谷八幡だ。前世ではのめりこんだ物語の主人公、彼が目の前に現れ、私は感動する。
実在する比企谷八幡が、すぐ目の前に立っている。その事実に心臓はどくどくと脈を打ち始め、頬が僅かに熱くなる。
外面だけは努めて冷静さを保ちながら、平塚先生に疑問を投げかける。
「それで、そこのぬぼーっとした人は?」
「ああ、彼は比企谷八幡。奇妙な怪文書を作文として提出してくるような問題児でな。ここでお前と一緒に奉仕活動に励んで、その性根を叩き直してもらおうと思ってな」
「お断りします。こんな不審者と二人きりで部活なんて身の危険を感じます」
私は胸を抱く素振りを見せて、彼を睨みつける。ちなみに、抱くような胸は育たなかった。原作の忠実な再現には、ファンとして感心である。悔しくなんてない。
「いやなに、こう見えてもこいつはリスクリターンの計算のできる小悪党のような人間でな。どうせそんな大したことはできない。そういう意味では安心していい」
知っている。後に理性の化け物と言われるような男だ。軽率なことはしないだろう。
しかし、これで確信できた。人を見る目が確かな平塚先生がこう言うのだ。間違いなく、彼は私の知る比企谷八幡なのだろう。
彼がここに来たということは、始まるのだ。あの物語が。美しくて、間違いながらも進んでいく、青春ラブコメが。
けれど、私は知っている。その配役には、最初から間違いがある。──偽物の紛れ込んだ青春ラブコメは、正しく終わることができない。
思案に耽っていると、平塚先生が「じゃあ後は頼んだぞ」などと言いながら部室を出ていくところだった。ピシャリと扉が閉まると、比企谷八幡と二人きりになってしまった。
気まずい雰囲気が漂う。本物の雪ノ下雪乃ならきっと、傍若無人に振る舞い、罵倒のような会話劇を繰り広げたのだろう。
ひとまず、こういう時は雪ノ下雪乃の思考をトレースしよう。今までの人生だっていつもそうしてきた。
私は意を決し咳払いをすると口を開いた。
「それで、あなたはいつまでそうやって突っ立っているの?」
初対面の同級生に無礼な態度を取られて若干憮然としながら、比企谷八幡は教室の後ろに積み上げられた椅子を一つ取ると、適当なところでそれに腰かけた。
どっかりと座った彼が私の顔を見て、少し目を逸らした。今、雪ノ下雪乃の顔面の綺麗さにビビったな。視線を少し逸らしたまま、彼が話しかけてくる。
「それで、ここは何をする部活なんだ?」
「さっきの話が聞こえなかったのかしら?ここは奉仕部よ。生徒から相談を受けて、その悩みを解消するの。まあ、ただ解決してあげるだけじゃ本人のためにならないから、あくまでも最終的に解決するのは本人に任せている。こんなところかしら?」
「ああ、つまり魚を欲する人間に魚を与えるのではなく、釣りの仕方を教える、みたいな話か」
「見た目のわりに理解が早くて助かるわ。見た目のわりに」
「いちいち相手を罵倒しないと会話できないの?……慈善事業かよ。めんどうなもん押し付けられたな」
「あなたのような人間が人の役に立てるのだから、泣いて喜ぶべきだと思うのだけれど。ねえ、穀潰しヶ谷君?」
「俺の未来を正確に予想したような渾名を付けるのはやめろ。そもそも俺の将来の夢は専業主夫だ。穀潰しと一緒にしてくれるな」
実際専業主夫なら余裕でできそうなのが怖いところだ。平塚先生とかあっさり受け入れてくれそう。
思考を振り切り、目の前の主人公に言葉をかける。
「それで、私はあなたを更生させればいいのかしら?……その腐った目を見るに、望みは薄そうね。諦めていいかしら?」
「ちょっと?頼んでもないのに勝手に更生を諦められても困るんですけど?そもそも、自分に更生の必要性を感じないな」
「変わろうという意思がないなんて唾棄すべき怠惰ね。少しは前に進もうという気概がないのかしら?」
思ってもいない、おそらくは彼女はこう言うだろうという言葉を投げかける。前に進むどころか自分の決断で人生を決めてこなかった人間がなにを言うのだろうか。
「変わらないことは別に悪いことじゃないだろ。むしろ些細なきっかけ1つで変わっちまう自己なんて自己って言えるのか?変わろうとするなんてことで簡単に変われるならみんな理想の人間になってるよ」
堂々と持論を言い放ち、彼の瞳が私の顔を見やる。黒々とした瞳に見つめられると、私の薄っぺらい本性を見透かされそうで、私は視線を外した。
「そんなものは言い訳に過ぎないでしょう。変わろうとしなければ、いつまでも思い描く自分にはなれないじゃない」
私が言うのはあまりに似合わない理想論を吐く。
最低限、私は思い描く彼女の姿に限りなく近づけた。だが、私は。彼女という仮面を外した私はどうだろうか。少し、確固とした自己を持った彼が羨ましくなった。
「──とにかく、比企谷君。協力するように言われたのだから、明日からはよろしくね」
「……おう」
平塚先生は勝負がどうこうという話はしなかった。私の負けん気を煽るよりも、率直に協力するように言った方がいいことに気づいているのだろう。私の演技には目もくれず、的確にこちらの心理を見抜いてくる。全くもってやりづらい相手だった。
◇
家のドアの前で立ち止まり、制服のスカートのポケットから鍵を取り出す。鍵には「パンさん」という可愛らしいパンダのキャラクターのキーホルダーが付いていた。
雪ノ下雪乃ならばこういうものを好むのだろう。そう思って集めていたパンさんグッズだが、気づけば私自身も好きになっていき、今では立派な趣味となった。
こんな風に、私が原作の彼女と同じものを好きになるということは珍しくない。コーヒーよりも紅茶が好き。慣れ合いよりも孤高が好き。犬よりも猫が好き。
それは演じる上で好都合とも言えるのだろう。しかし、私はたまにこう考えてしまうのだ。私の価値観が雪ノ下雪乃になっていくのなら、本当の、本物の私とは何なのだろうか。この世界で目を覚ました時から偽物の私には、分かるはずもないことだった。
閑話休題。この自分1人しかいない家は、私にとって、この世で唯一雪ノ下雪乃を演じる必要のない場所だ。
制服を脱ぎ、ゆったりとした部屋着に着替える。同時に作っていた清楚さも立ち振る舞いをかなぐり捨てた
全身の力が抜けていく感覚。ピンと伸びしていた背中を緩ませ、ピシリと張り付けていた無表情を引っぺがす。
リラックスモードに入ったボクは、枕を抱いて小さく呟いた。
「……ボク、実在する比企谷八幡と話したんだよね……。えへへへ……」
外では絶対に出せないような笑い声を出す。正直、涼やかな高音でもなければ聞くに堪えないレベルの気持ち悪さだった。キャラ崩壊なんてレベルじゃないが、大丈夫だ。今のボクは雪ノ下雪乃ではないのだ。
「あの腐った目とか、想像通りだったなあ……。あの作文を見た時には確信してたけど、本当に奉仕部に来てくれるなんてなあ……。いやあ、一ファンとして感動だよ全く」
相対していた彼の姿を思い出す。気だるげな猫背。ピンと伸びたアホ毛。そして、意外と整った顔。
「……あれ?」
思い返していると、自分の体に不思議な違和感を覚える。頬がほんのり暑くて、鼓動が早い。目を閉じれば、比企谷八幡の顔が思い浮かんで。まるで。まるで、恋みたいな。
──そう思った瞬間、全身の血の気が引いた。
「──ッ!違う!」
耐え難い気持ち悪さ、嫌悪感。ボクはたまらず洗面所へと駆け込んだ。
「あり得ない、あり得ない、あり得ない、あり得ない!」
蛇口をいっぱいに捻ると、ボクは冷水を顔に引っ掛けた。少し、冷静さを取り戻す。顔を上げると、真っ青な美少女と目があった。その事実に、また気持ち悪さがぶり返す。
「ボクは男だ!ボクは確かに男だったんだ!──でも。今は女で……」
先ほど考えていたことを思い出す。ボクの趣味嗜好は、雪ノ下雪乃の影響を受けている。コーヒーよりも紅茶が好き。慣れ合いよりも孤高が好き。犬よりも猫が好き。
であれば、恋する対象も、女よりも男になっていてもおかしくない?
「……ちがう」
声は、思っていたよりもずっと弱弱しかった。
思えば、この世界で目覚めてからずっと雪ノ下雪乃を演じるのに忙しくて、恋愛なんて考えてもみなかった。
今のボクは、一体どっちなんだろうか。その問いに答えなんて出せなかった。
こうして、1人の夜は過ぎていく。
Q.偽乃は比企谷八幡と交通事故の時に会っているのでは?
A.交通事故の時にはただ見かけただけ。実際に会って、話をしたのは奉仕部の部室が初めて。
事故の時は気が動転してそれどころじゃなかったり……というのはこの物語が続けば語ることがあるかも