長時間見続けていたので、目の前のパソコンの画面が何だかボヤけて見えてきた。私は手を止めると、誰かが入れてくれたらしいお茶を一啜りする。視線を上げて会議室を見渡してみると、人の少なさに驚かされた。
相模さんからの、実質的な実行委員解放宣言から数日が経った。あの日から、文実の出席人数は減り続けていた。その分仕事の進みが遅くなり、私がこなさなければならない仕事は増える一方だった。
有志団体の申し込みは増える一方で、書類の処理が次々と溜まっていく。クラスの出し物の申請内容も確認しなければ。食品を扱う出し物の場合は、特に面倒な手続きが必要になる。宣伝広報の仕事だってまだまだたくさんある。
「……はあ」
分かってはいたことだ。相模さんのあの発言を止められなかった時点で、こうなることは予想できた。文実の出席率が急低下すること。本物の雪ノ下雪乃ですら疲弊するような仕事量が私に降り注ぐこと。あの時どうにか未来を変えようとしなかった私には、何も言う資格はない。
それでも、思うのだ。
あの相模とかいうやつ、ロクに仕事しないくせに余計なことだけしてくれるな!!
……おっと、自室でもないのに雪ノ下雪乃ではないボクが出てしまった。疲れてるのかな。疲れてるんだろうな。
長時間同じ姿勢で座っているせいで、腰が痛む。パソコンの画面を少し見ただけで、目がチカチカしてくる。なんということだ。これでは帰ってから猫動画を見て癒されることもできない。
私が今夜の楽しみを奪われたことに絶望していると、突然爽やかな声に話しかけられた。
「雪ノ下さん、有志の書類を提出しに来たんだけど」
「それなら右奥に」
ぼんやりとしてきている意識とは裏腹に、口から出る言葉は凛然としていて、まるで他人が話しているみたいだ。今日も今日とて、私の雪ノ下雪乃という外殻は正しく機能している。
返事をしてから遅れてチラと視線をやると、葉山君の姿が映った。ああ、今彼と会話していたのか。
そのまま比企谷君と何事か会話しだす彼から視線を外し、私は再びパソコンの画面に向かい合った。
無機質な白い光に、目の奥の方がガンガンと痛んだ。
「でも、雪ノ下さんがほとんど仕事をやっているように見えるけどな」
少し声を張り上げた葉山君の言葉に、キーボードを叩いていた私は何事かと顔を上げる。見ると、葉山君と比企谷君がこちらをじっと見ていた。
「……何かしら?」
「いや、葉山が文実の仕事、雪ノ下がほとんどやってるんじゃないかってな」
「こっちの方が効率的というだけよ。何か問題が?」
冷たく言い放つと、葉山君も同じような口調で言ってきた。
「でも、その状態じゃ遠くないうちに破綻する」
「……」
普段の彼らしからぬ強い言葉に、思わずそちらに向き直る。見ると、彼の隣に比企谷君も言外にそれに同意しているように見えた。
その態度に、思わず言葉が口を突いて出てきた。
「……比企谷君も、そう思う?」
ああ、なんて
恐る恐る観察していると、私の言葉を聞いた比企谷君は少し驚いたように目を見開いた。その動作に、私は全身が冷えるような恐れを抱く。
しかし比企谷君の言葉は、私の恐れていたようなものではなかった。
「……そうだな。雪ノ下が一人でやってきたことを否定する気はないが、遠からず限界が来そうな気がするな」
その言葉を聞いて、私は少し自分の肩の荷を下ろすことができた気がした。
「……そうね。仕事の分担を少し考え直してみましょうか」
「俺も手伝うよ。有志の統制なら、他人事じゃないし」
「部外者に頼るのは流石に悪い気がするけれど」
「気にしないで。俺だって文化祭が成功してほしいのは同じだし」
相変わらず非の打ち所がない微笑を浮かべたままで、葉山君はさわやかに言い放った。先ほどの突き放したような冷たい言葉が嘘だったみたいだ。
簡単に、仕事の割り振りについて城廻先輩とも話し合うと、その場は解散となった。
負担を減らすために分担するとはいっても、副委員長である私にしかできない仕事も多い。……やれるだろうか。凡人である私に。言いようのない不安を飲み込む。
私は今日の持ち帰る仕事を鞄に詰め込むと、席を立った。
その後一週間ほど、私は少しだけ量の減った仕事をこなしていた。けれど、正直なところ疲労は溜まっていく一方だった。放課後会議室に閉じこもって作業しては、終わらなかった仕事を鞄に詰め込み、家でこなす日々。一日中パソコンの画面を見ているせいか、最近は寝つきが悪くなってきた。
雪ノ下雪乃らしくあらんと毎日自炊していた食事も、最近ではカップ麺や栄養食で済ませることが多くなってきた。時間がないというのもあるが、以前よりも食欲がない気がするのだ。
会議室で仕事をしていると、時々城廻先輩が話しかけてくるようになった。曰く、顔色があまり良くないようだが無理していないか、とのことだった。
ありがたい心遣いだったが、不調を悟られるようでは、雪ノ下雪乃としては失格だ。私は反省し、学校では一層気を引き締めるようになった。
そんな日々を過ごしていた時のことだった。
鳴り響く携帯のアラーム音に重たい瞼を引っぺがされる。晴れ晴れとした朝日がカーテン越しにボクを照らしてくるが、心の中はどんよりとしたままだ。アラームを止めた携帯を持ち、なんとか立ち上がり洗面所へと向かう。
なんだか体が重い。足元がおぼつかず、フラフラしている。まだ寝ぼけているのだろうか。気づけば、視界までぼやけていた。意識までぼんやりとする。
……ボクは、今何をしていたんだっけ? いつの間にか、上下の感覚すらあやふやになっていた。混濁した意識は、ついには体を制御することすらできなくなった。唐突に訪れる浮遊感。いつの間にか、ボクの頭は地面へと急接近していた。鈍い痛みと共に、意識が遠ざかる。
最後に考えていたのは、学校に休みの連絡しなければ、ということだった。
自宅のフローリングの寝心地は最悪だった。頭の下の固い感触に意識を強制的に覚醒させられ、そのたびに何度も無理やり眠りについた。
何度目かの起床の際に、半ば無意識に学校に連絡は済ませたらしい。携帯の履歴には、学校に電話した跡が残っていた。会話の内容は覚えていない。それに安心したボクは、硬くて冷たい床の上で、眠りに就くことにしたのだ。
ベッドまで戻って眠るという、当たり前の判断すら頭に浮かんでこなかった。自分の頭が鉛でも詰まっているかのように重く、とても起き上がれる気がしなかったのだ。
そんなボクの意識が完全に覚醒するのは、インターホンの音を聞いた、午後四時過ぎのことだった。
ピンポーン、という甲高い電子音に、重たい頭が痛んだ。ボクは薄目で、リビングに設置されているインターホンの画面を確認する。何やら、二人ほど、エントランスで立ち往生しているように見える。……宅配便には見えないな。
鈍く回る頭で、なんとか思考を巡らす。来客。二人。時刻は……夕方か? 誰だろう。
もう一度、インターホンが鳴る。その音を聞いた瞬間、ボクの頭の中で急に全てが繋がった。おぼろげに認識していた携帯メールの受信音。二人組。放課後。原作の知識。──由比ヶ浜さんと比企谷君が来た!?
「ッ!」
その考えに思い至った瞬間、未だまどろみの中にあったボクの意識は、急覚醒を果たした。立ち上がる。全身が痛みを訴えかけてきて、頭の奥がガンガンと痛んだ。慌てて、インターホン越しに由比ヶ浜さんと比企谷君との会話を試みる。
「はい」
自分の喉から出てきた声は、想像以上に弱弱しかった。
「あ、ゆきのん! 大丈夫!?」
「心配してわざわざ来てくれたの? ありがとう。でも大丈夫だから」
できるだけ元気のよい声を出そうとしているのだが、喉から出てくるのは、か細い声だけだった。
「いいから開けろ」
比企谷君のいつもとは違う、硬い命令口調に驚く。彼の表情は、いつになく真剣だった。
少し考えて、ボクは言葉を返す。
「十分、待って」
通話を打ち切ったボクは、急いで身支度に取り掛かった。跳ねまくった髪を整える。顔を洗う。鏡の向こうのボクは、ひどい顔色をしていた。……こればっかりが誤魔化しようがないな。
服を着替える。雪ノ下雪乃が部屋着にしていても違和感のないもの。ダボッとした白のニットに、ロングスカートを合わせる。……家でスカートを穿くのはなんだか違和感がある。
芳香剤を使い、少しでも女の子の部屋らしくする。
最後に、何よりも大事なことだ。ボクは姿見の前に立つ。綺麗に伸ばされた黒髪。恐ろしいほどに整った顔立ち。女の子らしい服装。それを眺めながら、自分に言い聞かせた。
「ボクは雪ノ下雪乃。ボクは雪ノ下雪乃。ボクは雪ノ下雪乃」
くつろいでいた、ただのボクから、完璧な雪ノ下雪乃になるための儀式。ボクの中での、内面を隠すための区切りのようなものだ。
そうこうしていると、いつの間にか十分経っていた。インターホンから、二人に入ってくるように呼びかけ、オートロックを解除する。
しばらくすると、家の前のインターホンが鳴った。ドアを開くと、なんだか数日ぶりに会った気がする由比ヶ浜さんと比企谷君の姿があった。
「どうぞ、入って」
我が家のリビングまで入ってきた二人は、興味深げに部屋中を見渡していた。
そんなに見られると不安になるな。ボクは、プライベートまで完璧に、雪ノ下雪乃を演じれているのだろうか。鏡の前で自分に言い聞かせたことを思い出す。そうだ、ボクは雪ノ下雪乃なんだ。
自己暗示で自信をつけてから、満を持して、ボクは二人に話しかけた。
「……それで、ボクに何か用があった?」
「「ボク……?」」
「……あっ」
うわあああああああああああ! 一人称だけそのままだった!