雪ノ下雪乃は偽物である   作:恥谷きゆう

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ついにボクは一歩踏み出す

「……それで、ボクに何か用があった?」

「「ボク……?」」

「……あっ」

 

 ボクは今、この体に生を受けて以来、過去最大の危機を迎えていた。目の前には、ボクの発言に訝し気な顔をしている奉仕部の二人の姿。

 

「あっ、ちがっ……その、ボクは……ああ、違う! そのボ、私」

 

 奥の方がガンガンと痛み続ける頭は、思考が全く回らなかった。また要らないことを口走ってしまい、余計に動揺していしまう。

 知られたくない、知られてはいけなかった秘密を知られたことへの動揺と恥ずかしさ。愚鈍に動く頭は激しい感情にすっかり支配されてしまった。

 顔が暑い。二人の顔をまともに見れない。

 

「……ゆきのん、おちついて」

 

 普段幼い印象の由比ヶ浜さんに、落ち着いた様子で諭されてしまった。

 その言葉に少し正気を取り戻した私は、一度大きく深呼吸をした。

 息を吸いこむのと同時に、なんとか仮面を被り直す。雪ノ下雪乃という仮面、外皮。

 

 完璧に整った私は、きりっとした表情を作ると、小首をかしげてみせた。

 

「それで、私に何か用だったかしら?」

「流石に今の誤魔化すのは無理だろ……」

 

 無情にも、比企谷君は呆れた顔で言い放った。

 助けを求めるように由比ヶ浜さんの方を見ると、なんだか我が子を見る母親のような目をしていた。

 

「可愛いし、いいんじゃない?」

「うっ……」

 

 優し気な瞳が痛い……。

 

「その私……」

「……」

「うぅ……。なんだよなんですかボクに何か用でしたか!?」

 

 どうすれば分からなくなったボクは、とりあえずキレた。

 雪ノ下雪乃という外皮のなくなったボクが二人の前でどう振舞えばよいのか、全く分からなかった。

 ボクのやけくそな発言を聞いた由比ヶ浜さんは、満足したとでも言うように沈黙を破った。

 

「いやぁ、今日ゆきのん急に学校休んだじゃん。体調大丈夫かなぁって心配だったから来たんだ」

「問題ないよ。大丈夫」

「さっきの醜態を見て大丈夫だと思えるかよ……」

 

 余計なことを言った比企谷君を睨みつけた。しかしいつもとは違って、彼は私の目線に少しも動揺していないようだった。

 

「上手く隠してたけど、最近のお前明らかに疲弊してたからな」

「……そう。気づかれてたんだ」

 

 そっか、ボクが必死に外面を取り繕っていたこと、彼には分かってしまったか。

 

「……ヒッキー、分かってたなら、どうして助けてあげなかったの? 私、お願いしたよね」

 

 少し怒ったような調子で、由比ヶ浜さんが比企谷君に言う。いつにない彼女の姿に、比企谷君には動揺が窺えた。

 でも、それは違う。

 

「違うわ。……違う、由比ヶ浜さん。比企谷君は執行部には関係なくて、何かできるような立場じゃなかったから……」

「でも、だからってゆきのんが全部背負い込むことなかったんじゃない? ……今日のゆきのん、すごく体調悪そうだよ」

 

 どうやら由比ヶ浜さんにも、ボクの虚勢は通じていなかったらしい。

 

「でも、ボクがやらないと」

「どうして?」

 

 間髪入れずに、由比ヶ浜さんが問いただしてくる。表情は真剣で、嘘や誤魔化しなんて許さないと言っているようだった。

 

 そんな彼女に釣られて、ボクは自分の本心を吐き出す。吐き出して、しまう。

 

「──だって、だってボクは、雪ノ下雪乃なんだよ! 弱いボクでいちゃいけないんだ! 必要なのは完璧な私なんだよ! ボクの憧れたみんなのために! それは絶対に必要なことだったんだ!」

 

 感情のままに言い放ってから、乱れた呼吸を落ち着けるために大きく息を吸い込む。

 冷静になった頭に浮かんだのは、激しい後悔だった。──ああ、ボクはいったい何を言っているんだろう。

 

 しかし、ボクが声を荒らげる様子を見ても由比ヶ浜さんは動揺せず、静かに言葉を紡いだ。

 

「……私にはゆきのんが何を言っていて、具体的に何にこだわっているのか、よくわからない。ただ、ゆきのんが心からそう思っていることはすごく伝わってきたよ。──でもさ、ゆきのんは、ありのままでもいいんじゃないかな」

「……ありの、まま」

 

 そんなの、今更できっこない。そう言うのは簡単だったが、由比ヶ浜さんの真剣な表情を見ていると、それだけの言葉では不十分な気がした。

 

「……正直なところ、ボクにとってのありのままが、本心が、本物が、どんななのかなんて、ボクにも分からない。……こうありたいという理想は、外皮は、もうボクの一部になっていて、本当のボクがどんなだったのかなんて、もう分からない」

 

 本当の自分と取り繕った自分の境界線なんてものはあやふやで、ともすれば存在しないのかもしれない。はじまりから偽物だった私の本物なんて、どこにもないのかもしれない。

 でも。

 

「でも、由比ヶ浜さんがそう言うのなら、少しだけ、完璧にならんとしている私じゃなくて、凡人のボクも、出せたらいいな」

 

 ボクは、今できる精一杯の言葉を吐くと、無理やり笑った。不格好だっただろう。不安で頬は引きつったようにしか上がらなくて、唇は僅かに曲げただけ。ボクが鏡の前で練習した雪ノ下雪乃の笑みとは違う、ボク自身の笑み。

 

「……うん、待ってる!」

 

 由比ヶ浜さんは、ボクなんかよりもずっと素敵に笑った。

 その様子を見ていた比企谷君が、一瞬だけ満足そうに笑ったのが視界の端に見えた。

 

 

 

 

「……でも私、文実のことは良く分からないから、ゆきのんのこと上手く助けられないな。ああ、こんなことだったら、私も文実に入れば良かった」

 

 由比ヶ浜さんは、悔いるようにそう言った。相変わらず、どこまでも優しい女の子だ。

 

「ああ、それなら俺に考えがある」

 

 比企谷君は、思わせぶりに言うと、ニヒルに笑った。その表情は、とても彼らしくて、ボクは少しの間、呆然とそれを眺めていた。

 

 

 

「それでは委員会を始めます。議題は文化祭のスローガンについてです」

 

 結局ボクは、あの後もう一日学校を休んだ。本物の雪ノ下雪乃なら一日休んだところ、ボクは二日。凡人の限界というやつだったのだろう。でも、その事実に対してかつてほどの焦りは感じなかった。由比ヶ浜さんは、そして比企谷君はただのボクでも受け入れてくれた。その事実はボクの胸の中に希望として残り続けて、温かい気持ちにしてくれた。

 

 

 

 

「こんなのどうっすか? 『人~良く見たら片方楽してる文化祭~』」

「いやあ、人という字は、人と人が支え合ってできているとか言うけど、実際片方明らかに寄りかかってるじゃないですか。それがこの、犠牲の上に成り立っている文実の様子を端的に表してるんじゃないかなって思いまして」

 

 比企谷君の衝撃的な発言を受けて、会議の空気は凍り付いた。まるで悪役のように、皮肉気な笑みを浮かべてみせる彼。直接的に馬鹿にされた相模さんなどは、怒りで頬をひくひくとさせていた。

 

 けれど、その発言のおかげで私は文実を上手く動かすことができた。

 

「相模さん、今日の会議は解散にしましょう。どのみちこれからいい案が出るとはとても思えないもの。スローガンは、各自で考えてくることにすればいい。明日以降を全員参加にすれば、この遅れも取り戻せる。──異論は、ありませんね」

 

 比企谷君がヒールをしてくれたおかげで、私が文実の緩んだ空気を引き締めることができた。

 でも、比企谷君はこれで嫌われ者になってしまった。会議が終わり、席を立つ人々の口から次々と聞こえる、比企谷君を中傷する言葉。

 ……こうなると分かっていて止めなかったのだから、私はやはり嫌な人間だ。

 

 しかし、みんなに遠巻きに見られている比企谷君の元へと行く生徒の姿があった。城廻先輩だ。

 

「残念だな。君は、真面目な子だと思っていたから」

 

 いつものほんわかとした雰囲気はなりを潜めて、城廻先輩は本当に残念そうに比企谷君に言った。

 色々な言葉をぶつけられても平然としてた比企谷君は、この時だけは少し俯いていた。

 

 ……これくらいなら、許されるかな。

 

「城廻先輩、比企谷君は実行委員のことを思ってやってくれたんだと思います」

「……雪ノ下さん?」

 

 私の言葉を聞いた城廻先輩は、驚いたように、目を見開いた。

 

「今の空気のままでは、委員会がまともに機能することはなかったでしょう。でも、さっきの彼の発言で、それが変わりました。この集団の敵となった彼が、頑張っていない人のことを馬鹿にするのなら、みんなは仕事を頑張らないといけない。言ってみれば、彼は優れた指導者よりも集団を団結させるもの、明確な敵としての役割を全うしてくれたんです」

 

 現状ではあまり実感の湧かない言葉だろうが、城廻先輩は理解してくれただろうか。観察していると、やがて先輩は難しい顔をしながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「……それでも、今みたいなやり方はなかったんじゃないかなって思うよ」

「先輩──」

「でも、比企谷君が考えなしにあんなこと言ったんじゃないってことは、なんとなく分かった。……だから、さっきの私の言葉は、少し軽率だった。ごめん」

 

 城廻先輩はそう言うと、スタスタと会議室を出ていった。いつの間にか、会議室に残っているのは私と比企谷君だけになっていた。

 城廻先輩の背を目で追っていた比企谷君が、扉が閉まったのを確認して口を開く。

 

「……お前があんなこと言う必要なかったんだぞ」

「先輩のこと? あまり気にしなくていいのだけれど」

 

 視線を逸らす。虚空を見つめて、答えを返す。彼が私のしたことにあまりいい顔をしないことは、なんとなく分かっていた。でも、やった。

 

「憐れみや施しならいらないぞ」

「そんなものじゃないの。ただ、あなたには感謝しているから」

「感謝されることなんてない。あれは俺が勝手にやったことだ」

「いいえ。それでも、私は言うわ」

 

 虚空を漂わせていた視線を、比企谷君の黒い瞳へと向ける。彼の全てを見透かしてしまいそうな瞳を見つめていても、今は怖くなかった。

 

「──ボクを助けてくれて、ありがとう」

 

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