文化祭という大きなイベントを越えた奉仕部には、穏やかで居心地の良い空気が流れていた。放課後に三人で部室に集まって、来るかも分からない相談者をのんべんだらりと待ち続けている。
部活動と言うには、少し穏やかすぎる日々。けれど私にとってそれはかけがえのない日々だった。
湯沸かしポットがポコポコと音を立てているのに気づいた私は、雑誌を脇に置き、紅茶を入れる準備に取り掛かる。それに目ざとく気づいた由比ヶ浜さんが、無邪気に喜び出した。
「やった、おかしだ!」
紅茶を入れるのにももう慣れたもので、てきぱきとした動作で三人分の紅茶を入れる。少し寒くなってきた部室に、紅茶の湯気が三つ分立ち昇った。
二人の前にカップを置き、由比ヶ浜さんが持ち込んだ茶菓子をテーブルの真ん中に置く。こうして、私たちの放課後ティータイムの準備が整った。
「ありがとーゆきのん」
「……サンキュ」
二人からの感謝の言葉に、軽く頷いて答える。それだけで、私の胸は少しだけ温かくなった気がした。
乾杯の音頭があるわけでもないのに、なんとなく三人同時に紅茶に口を付ける。温かい液体が喉を通って、少し冷えた体にほんのりと温かさが染みた。
「もうすぐ修学旅行だねー。どこ行くとかもう決めた?」
由比ヶ浜さんの元気な声に、私は先ほどまで読んでいた観光雑誌の内容を思い出した。
私たちの修学旅行の行き先は京都に決定している。西の古都は魅力でいっぱいだ。由緒ある神社仏閣に、歴史の重みのある観光名所など、見るべき場所はたくさんある。
少し早口に、私は話し始めた。
「そうね、ベタだけど鹿苑寺は外せないんじゃないかしら。それから、慈照寺。ああ、竜安寺の枯山水は是非とも一度は見ておきたいものね。それから、来年私たちも受験生なことを考えると、北野天満宮もぜひ行っておきたいところね。……由比ヶ浜さんも行ってみるといいわ」
「へえ、どうして?」
「学問の神様を祀っているところだからよ。由比ヶ浜さんには特に必要でしょ?」
「……あれ、いま馬鹿だって言われた!?」
「気のせいじゃないかしら」
いつものようなやり取りをすると、比企谷君にジトッとした目を向けられた。その淀んだ目は、「うわっ、コイツ性格悪っ!」などと思っていそうだ。
「シスコンの比企谷君も行っておきたいんじゃない? 妹さん、受験生でしょ?」
「そうだが……お前、俺の妹のことまで良く把握してるな」
「……たまたまよ」
比企谷家のことなら良く知ってるよ。何回も原作を読み直したからね。なんて言えなかった。
変に怪しまれただろうか、と少し比企谷君を観察していたが、そこまで気にしている様子もなかった。「ふーん、流石ユキペディアさん」などと呟いて、彼は紅茶を啜った。
その顔を眺めていると、なんとなく修学旅行でのイベントを思い出した。
「修学旅行、か……」
「どうしたのゆきのん、なんか心配ごと?」
「……いいえ。ただ友達のいない比企谷君にはつらいイベントだろうな、と少し憐れに思っただけよ」
思わず口から出た言葉を、適当に誤魔化す。
私の適当な言葉に目を濁らせた比企谷君は、反撃を試みてきた。
「クラスに友達がいないのはお前も一緒だろ」
「私に友達がいないのはその通りだけど、誘ってくれるクラスメイトはいるもの。名前すら覚えられていない比企谷君とは一緒にしないで欲しいものね」
「俺がクラスメイトに名前を覚えられていないことすら把握してんのかよ……」
「……」
しまった。またボロが出た。これではまるで、私が比企谷君に興味津々のようではないか。
「……ていうかゆきのん、あれから全然ボク口調で話してくれないよね。部室ではありのままでいてくれるんじゃなかったの?」
突然痛いところを突かれた私は、真っすぐにこちらを見てくる由比ヶ浜さんからそっと目を逸らした。けれど彼女の視線は、ずっと私の顔を見たままだった。
無言で見つめられる時間が数秒流れ、比企谷君がポリポリと茶菓子を食べる音が嫌に大きく聞こえた。
「分かったよ。ボクの負け。……これでいい?」
「うん!」
そんなに満足そうな顔で言われたら、ボクも恥ずかしさを我慢するしかないじゃないか。
ずっとやり取りを黙って眺めていた比企谷君が、少し口角を上げながら声をかけてくる。
「相変わらず、由比ヶ浜に弱いな」
「仕方ないじゃない……じゃん。笑顔の由比ヶ浜さんには、わた……ボクは逆らえないんだよ」
つっかえつっかえに話すボクを、比企谷君はずっと口角を上げたままで眺めていた。……非常に腹が立つ表情だった。
「比企谷君、文化祭でゴンドラに乗った時にボクにしたこと、ここで打ち明けていいの?」
ゴンドラの窮屈さによる事故であることは分かっているが、それでもボクの体を触ったことは重罪だ。今からでも通報も辞さない。
「……いやあれはほんと不可抗力だったんだよ。悪かったから許してください」
「フンッ、分かったんならボクを揶揄おうなんて二度と思わないことだね」
「……ボク口調のゆきのんと話してるヒッキー、いつもちょっとにやけてるよね」
ボクたちのやり取りを見ていた由比ヶ浜さんが、ポツリと呟いた。その言葉を聞いた比企谷君が、目に見えて動揺する。
「いや、それはいつも毒舌がムカつく雪ノ下が弱った様子なのが面白いだけであって、決して不埒な感情があるわけじゃないんだが」
「ふーん」
由比ヶ浜さんの細められた目が、比企谷君の狼狽する様子をじっと見つめていた。
先ほどまで強気だった比企谷君が由比ヶ浜さんのジトッとした視線に怯えている様子を眺めながら、私は紅茶を飲む。うん、うろたえる比企谷君を眺めながら飲むと美味しい。
紅茶を味わっていると、ふと思い出すことがあった。
「そうだ。二人とも、良かったら修学旅行三日目の自由行動、一緒にまわらない?」
「もちろんいいよ! ゆきのんからそれ言ってくれるの、嬉しいな」
由比ヶ浜さんが、心底嬉しそうに微笑む。相変わらず、表情の一つ一つが魅力的な女の子だ。
「ヒッキーも、いいよね?」
「……まあ、いいんじゃねえの」
渋々といった体で、比企谷君が肯定する。
「比企谷君は由比ヶ浜さんと一緒にまわれるのが嬉しいのに、つい不愛想な態度取っちゃうんだよね。しょうがないね。男子高校生だもんね」
ボクがうんうんと頷くと、比企谷君が抗議するように腐った目をこちらに向けてきた。
「そうなの? ……照れるなぁ」
由比ヶ浜さんが少し顔を赤くして言う。可愛い。
ボクが続けて、三人で行く場所について検討を始めようとした時だった。
部室のドアが三回ほどノックされた。その音を聞いた瞬間、ボクは一瞬で仮面を、外皮を被り、雪ノ下雪乃に戻っていた。
「どうぞ」
私の声に反応して部室に入ってきたのは、戸部君をはじめとする、葉山君のグループだった。──ああ、やはり来るのか。
「何かご用かしら?」
問いかけると、部室をじろじろと眺めていた彼らはこちらに向き直り、事情の説明を始めた。
戸部君が同じグループの海老名さんに告白したいので、それを手伝ってほしい。
だいたい要約すればそんな話だった。そんな単純な依頼を話すまでに、信用できない比企谷君には話せないとか余計なことを口走ったりとか、話す話さないで躊躇したりだとか無駄な時間があったが、まあ私の知る通りに歴史は動いた。
「……でも、部外者である私たちではお役に立てないと思うのだけれど」
「いやー、そこを何とかさ。雪ノ下さん、オナシャス!」
軽い口調で、だけど真剣な目をして、戸部君はお願いしてきた。
「ねぇねぇゆきのん、手伝ってあげようよ。結構真剣みたいだしさ」
由比ヶ浜さんが同調してお願いしてくるのを横目に確認しながら、私は腕を組み、考えを巡らした。
正直、気は乗らない。だってこの依頼を受けてしまえば、原作通りになってしまうかもしれない。
比企谷君の嘘告白。そして、そのやり方を否定する奉仕部の二人の拒絶。居心地の良い関係を築いてきた三人の間には、大きな溝ができることになる。
たとえ私が比企谷君を拒絶しなくたって、由比ヶ浜さんはきっといい顔をしないだろう。
──それに、何よりも私は、今の奉仕部の関係が崩れるのが嫌だ。
三人でなんとなく部室に集まって、なんでもないような時間を一緒に過ごす居心地の良い空間がなくなってしまうかもしれない。そんなの、嫌だ。
最初は義務感だけだった。奉仕部を設立したのも、原作通りにするため。比企谷君を受け入れたのも、主人公だから。由比ヶ浜さんと仲良くなったのも、原作通りにするため。そのはずだった。
いつの間にか二人は私の、いや、ボクの深いところまで入ってきていて、今ではボクにとってかけがえのない人になってしまった。
だからこの関係を、失いたくない。比企谷君の成長のためだとか、三人が乗り越えるべきターニングポイントであるとか、もはやどうでもいい。そう思えてしまうほど、ボクは今の関係が好きだった。
しかし現実は、私の思いなんて知らないように時を進める。
「──ゆきのん、手伝ってあげようよ」
先ほどまでとは違い、真剣な様子の由比ヶ浜さん。私は知っている。こんな顔をした由比ヶ浜さんは、簡単には引かないこと。諦めないこと。
自分の中の懸念と、由比ヶ浜さんの真剣な目。その板挟みにあった私は、思わず、比企谷君の様子を確認してしまった。
彼は、何も言わずただ私の言葉を待っていた。
──その黒々とした瞳は、私が雪ノ下雪乃らしくあるかどうか見張っているようだ。そう、思えてしまった。
「……仕方がないわね。そこまで言うならその依頼、少し考えてみましょうか」
結局のところ、私は由比ヶ浜さんの頼み、戸部君の依頼を受けることにした。原作の流れから逸れるのが嫌だった、というのが一つ。それから、由比ヶ浜さんの真剣な瞳にほだされたのが一つ。
最後に、私の被害妄想が一つ、だろうか。
ああ全く、ありのままにいるということは、なんて難しいのだろうか。