翌日、修学旅行はつつがなく決行された。行先は京都。歴史ある神社仏閣の並ぶ観光地だ。
朝早くに起きて東京駅に集合した総武高校の二年生たちは、ワクワクとした表情で新幹線に乗り込み、非日常へと旅立った。
新幹線には、クラスごとに固まって乗った。高校生が一緒に乗るわけだから、当然車内はすぐに話し声でいっぱいになった。
今頃、F組の面々の乗る車両では比企谷君が隣に座る戸塚君にドギマギしたり、車窓から見える富士山にはしゃぐ由比ヶ浜さんに接近されてドキドキしていることだろう。
元男子高校生として、羨ましい限りである。あれでリア充爆発しろとか言ってたんだから、本当爆発してくれって感じだ。
私は小さく溜息を吐くと、座席に座り直した。窓際に座る私の隣の座席は空席だった。きっと隣人は、仲の良い友人とおしゃべりに出掛けたのだろう。
背もたれに身を預け、目を閉じる。クラスメイトの控えめな話し声と新幹線の走行音をBGMにして、私は思考することに集中し始めた。
私はこの修学旅行でどうするべきか。
比企谷君に、偽告白をさせないのか、それとも私の知る原作通りに進めさせるべきなのか。
ずっと考えていたことだったが、答えは出なかった。
私個人としては、比企谷君に偽告白による問題の解消なんてしてほしくない。今の奉仕部に、亀裂を生んでほしくない。
けれど、私が比企谷君の行動を阻止する、というのも、簡単にやっていいことではない気がするのだ。紙面から読み取った私にはよくわかる。あれはきっと、色々な人の複雑な想いが交錯した結果だったのだ。
比企谷君が問題を解消しなければ、戸部君と海老名さんの関係はどうなる。葉山君のグループの雰囲気が悪くなってしまうかもしれない。
──いいや、私が本当に恐れているのは、そんなことではない。
比企谷君が挫折を経験しなければ、私の知るように物語は進まないかもしれない。ハッピーエンドが遠ざかるかもしれない。
私の不安とは、要約すればそんな身勝手な懸念だった。
私が勝手な行動をしたせいで、誰かが不幸になるのではないか。そんな思いがよぎってしまい、私はどうしても決断を下せずにいた。
答えの出ない無益な思考を断ち切った私は、なんとなしに空を見た。修学旅行初日の空は、嫌になるほどに快晴だった。
京都駅に到着し、いざ観光と意気込んだ私を迎えたのは、清水寺の凄まじい人混みだった。
クラス全員で本堂まで続く列に並ぶが、私はすぐに人の多さに嫌気がさしてしまった。
人気スポットだけあって、清水寺前は平日にもかかわらず長蛇の列で、本堂まで辿り着ける気配が全くない。待ち時間に楽しげに話すクラスメイトを横に、私は寒さに身を震わせていた。
ようやく本堂に入る頃には、虚弱気味な私はすっかり人混みに疲弊していた。
クラスメイトに誘われて、欄干で集合写真を一枚。疲労のせいで、表情はあまり取り繕えなかった。
その様子を心配したクラスメイトに促されて、私は境内の建物に背中を預けて一息ついていた。
心配して付いてきてくれたクラスメイトには、観光を楽しんでくるように言って先に行ってもらった。今頃、恋占いの石あたりにでも行っただろうか。
視界の先には、石の周辺の人だかり。見ているだけでもうんざりしてきそうだ。
「どうして行列なんてものが存在するのかしら……。人類の中で戦争の次に不必要なものね……」
独り言が口をついて出てしまった。ふと、顔を上げる。境内の端からは、観光地のワイワイという賑わいが良く見えた。
ふと寒さを感じた私は、そっと肩を抱いた。
「独り言も、答えてくれる人がいないと虚しいものね」
また、独り言を一つ。言葉は誰にも聞かれることはなく、晩秋の寒空に溶けていった。
その後も罰か何かかと思う程歩かされた。銀閣が素晴らしいのは分かったが、私の体力の無さから、観光を全力で楽しむような気力は湧かなかった。
何かとハイスペックな雪ノ下雪乃ボディだが、こういう体力の必要な場面では不便極まりない。私自身あまり外出しないのもあるが、それにしても疲労がひどい。
夕方にホテルに着いてからは、体を休めることに徹していた。夕食を取り、風呂に入った頃、ようやく体力が回復し、気力も湧いてきた。
元気が少しだけ戻ってくると、少しやりたいことも思いつくものだ。私はホテルの売店を覗くために、ロビーに下りていた。
「……あった。パンさん京都モデル……!」
手を伸ばして、ふと視線を感じた。あたりを見渡す。人気のないロビーには、何やら目を濁らせた少年が一人立っていた。
「……おう」
私はパンさんに伸ばしていた手をそっと伸ばして、彼をじっと見つめた。
少しの静寂。遠くで、総武生らしき騒ぎ声が聞こえた。
比企谷君が沈黙の間に居心地悪そうに身じろぎするのをゆっくりと見届けてから、私は口を開いた。
「あら比企谷君、奇遇ね」
「いやいや。恥ずかしい場面をなかったことにすんなよ。バッチリ見てたわ」
「何のこと? 私の人生に恥じるべき点なんて何一つないのだけれど」
「相変わらずの自信過剰だな……」
呆れたように反応を返してくれる比企谷君。その様子がなんだかひどく懐かしい気がして、私は口角が上がりそうになっていることを自覚した。
「わざわざこんな時間に下りてきて、どうしたの?」
「罰ゲームだよ。飲み物買ってこいってよ」
「なるほど、つかいっぱしりね。似合ってるわよ」
「ほっとけ」
僅かに視線を背けてぶっきらぼうに言い放った比企谷君は、それっきり何も言わなかった。
少しの間、互いに話題を探すような間があった。けれどその沈黙は居心地の悪いものではなくて、彼と共有するのならこんな時間も悪くないと思えた。
ふと、頭に浮かぶことがあった。戸部君の告白の件だ。
「戸部君と海老名さんは順調?」
「ぼちぼちだ。あんま普段の様子と変わんないっちゃ変わんないな。まあ、まだ初日だしな」
気だるげに、彼は報告してくれた。
「ちゃんと手伝ってあげた?」
「ああ。まあ学校外つっても同じメンバーとずっと一緒にいるからな。正直いい雰囲気になるってのは難しいんじゃねえか」
「それもそうね」
きっとまだ彼は、嘘の告白をして戸部君の告白を止める、なんてこと思いついていない。──今ならまだ、彼を止められる。そう思って、私は恐る恐る、口を開いた。
「比企谷君──」
「何だ二人とも、こんなところでどうしたんだ」
少しだけ小さくなった私の声は、突然現れた平塚先生の声に遮られた。
「いえ、飲み物を買いに。先生こそどうしたんですか。サングラスなんかつけて」
比企谷君の問いに、平塚先生は少し恥じらうように頬を赤らめて小さく呟いた。
「その……これからラーメンを食べに……」
言い方は乙女なのに、言ってることは漢だ……。
「……いや、二人ならちょうどいいか。付いて来い。口止めに、ラーメンくらい奢ってやろう」
「まあ俺はいいですけど」
「生徒に賄賂を贈る姿勢が正しいのかは疑問ですが……私も行きます」
「ほお、雪ノ下があっさり了承するとは思わなかったな」
「せっかくの旅なんですから、新しい体験もしたいじゃないですか」
実際は、昼間は人混みに疲れて観光を満足にできなかったので、少しだけどこか行きたい気分だったのだ。
何よりも、ラーメンだ。元男子高校生としては、やはり気になる。
家の近場のラーメン屋には人の目が気になっていけなかったが、平塚先生に連れていかれるなら、まあ大丈夫だろう。
「雪ノ下は寒いだろう。これを着るといい」
平塚先生はバサッとコートを私に投げてよこすと、颯爽とタクシー乗り場へと歩んでいった。
……かっこいい。
私と比企谷君は、慌てて平塚先生の頼もしい背中を追う。
「俺も寒いんすけど」
「比企谷は少し我慢だ。冷え切った体で食うラーメンは最高だぞ」
こうして、私たちは夜の京都へと繰り出すことになった。
タクシーに乗って数分。私たちは、「天下一品」とでかでかと書かれたラーメン屋に到着した。
「行くぞ」
店内にはそれなりに空きがあった。カウンターに、三人並んで座る。
「こってりで」
「俺もこってり」
慣れた様子で注文した二人が、こちらを見てくる。慌てて、私も注文しようとしたが、ふと迷ってしまう。……この体、夕食後のラーメンなんて入るだろうか。
「……雪ノ下は取り皿でももらって少し麺を分けてやろう。どうだ?」
「……そうですね。お願いします」
平塚先生の提案にありがたく乗らせてもらう。
全く、ラーメン一杯も気軽に食べられないなんて、不便な体だ。
汁につかないように髪を抑えて、どんぶりから掬い上げた麺を頬張り、一気に啜る。少し硬い麵の食感。油たっぷりの汁に良く合う。
なかなかに美味しい。私も一杯頼むべきだっただろうか。
内心感動しながら湯気の立つラーメンを無言で啜っていると、平塚先生が話かけてきた。
「雪ノ下は修学旅行を楽しめているか?」
「初日は人混みにあてられてしまいましたね。でも清水の舞台は見れたので、そこは満足しています」
「そうかそうか。それならいいんだ」
満足げに頷くと、平塚先生は豪快に麺を啜った。その声音は優しくて、なんだか聞いているだけで安心できるような気がした。
そんな頼もしい大人の横顔を眺めていると、不思議と言葉が転がり出てきた。
「──平塚先生」
「んん……なんだ?」
応じる声は、いつもより少し柔らかい。
「──自分の行動で誰かが不幸になるかもしれないとして、それでも自分の考えを押し通すことは正しいと思いますか?」
漠然とした問いにも、こちらに向き直った先生は真摯な顔で聞いてくれた。
「ふむ、具体的には?」
「はっきりとは言えませんが。……私は自分の幸福のために、ある行動を起こしたい。いや、あることを止めたいんです。でもそれは、他の誰かを不幸にするかもしれなくて。私のエゴを押し通すことは、正しいことなんでしょうか」
私の曖昧模糊とした言葉を聞いた平塚先生は、箸をおき腕を組んだ。
「状況にもよる、と言うのは簡単だな。……そうだな、事情を良く知らない私から言えるのは、問題の解決方法が常に二者択一だと思わないことだ」
平塚先生は二本指を立てて、言葉を続けた。
「君は、君が行動を起こすか、起こさないかの二択しか存在しないと思い込んでいるんじゃないか? 人間関係には、いつだって複数人の想いが交錯するものだよ。──君の行動だけで物事が動くと思わないことだ」
「それ、は……」
「周りの人間をよく観察して、本当に自分にはその二択しかないのか良く考えてみたまえ。人間関係というものは学校の試験とは違って選択肢があるわけでもないし、もっと言えばはっきりとした正解なんてないんだよ。私には、今の君は少し焦って、視野が狭くなっているように見えたよ」
落ち着いた様子で言い切ると、平塚先生は話はここまでだ、というようにラーメンを啜った。
先生の言葉を反芻する。選択が二つに一つだと思うな。視野を広く持て。──焦るな。
「……そう、ですね」
静かに呟いたが、平塚先生はもうこちらを見なかった。
やがて、私の中で結論が固まってきた頃、私たちは店を出た。
平塚先生の、アドバイスはするけど最後の決断は生徒にゆだねる姿勢、好きです