修学旅行の二日目は何事もなく過ぎ去った。あえて特筆すべきこととして上げるとすれば、龍安寺で比企谷君たちのグループと出会ったことだろうか。
私として予想していたことだったし、特段動揺はなかった。
しかし、私と比企谷君が秘密の逢瀬をしていたと思っていたクラスメイトたちは違った。
私が何気なく比企谷君に話しかけにいっただけで、ひそひそと話を始め、私が彼女らの元に戻ると、すごい勢いで質問をぶつけてきた。
「実際いつから付き合っていたの?」
「どこが良かったの?」
「きっかけは? クラス違ったでしょ?」
「その……どこまで済ませたの……?」
こんな調子だ。いくら否定しても全く怯まない彼女らの様子に、私は終始押されっぱなしだった。
しかしそれ以外は順調だったと言えよう。一日目は疲れたという感想しか浮かばなかった京都観光だったが、二日目は私も楽しめた。
そして、私にとって最大の関心事である修学旅行三日目。自由行動の日だ。
学校が予約している朝食をキャンセルした私は、京都の一角に存在する小奇麗なカフェで優雅にコーヒーを飲んでいた。
朝の店内にはまだ人はまばらで、空いている席もちらほらと見受けられる。
私がたいして好きでもないコーヒーなんて飲みながらここに座っている理由は一つ。由比ヶ浜さんがここに比企谷君を連れてくるのを待つためだ。
私たち奉仕部の三人は、自由行動であるこの修学旅行三日目に一緒に行動することを約束していた。
二人を待っているからこそ、私はこの真っ黒いコーヒーを飲んでいると言える。
なんとなくブラックコーヒーを飲んで待っていた方が、大人っぽく見えるかな、なんてよく分からない思考が働いた結果だった。
とはいえ。
「……やっぱり苦いな」
私はテーブルに備え付けられていたガムシロップを三つほど掴むと、一つずつ黒々とした液体へと投入していった。
トドメにスティックシュガーを投入。完璧だ。
カップに口を付けると、途端に口の中に甘さが広がった。
「あ、ゆきのんいた!」
私が元の苦さがどこか行ってしまったコーヒーを楽しんでいると、遠くから由比ヶ浜さんの声がした。見ると、元気に手を振ってくる由比ヶ浜さんと、彼女の後ろを眠そうな目で歩く比企谷君の姿があった。
「遅かったわね」
言いながら、私はガムシロップとスティックシュガーのゴミをそそくさとテーブルの端に追いやる。そして、カップの中身を一気に飲み干した。
……良し、次に頼むコーヒーはブラックで飲もう。
「なに? なんで雪ノ下が? なんで俺ここに連れてこられたの?」
未だに状況を把握していないらしい比企谷君。その黒々とした目も、どこか眠たげだ。
「ここでモーニングを取るのよ、比企谷君」
「え? 何その文学的表現。朝取るの? 昼と夜しかなくすってことか? おいおい、最高かよ」
寝起きゆえかとぼけたことを言い出す比企谷君。
「いいからヒッキー早く座って。頼んじゃうから」
寝言は寝て言えと言わんばかりに比企谷君の肩を押す由比ヶ浜さん。眠たげな様子は少しもない。
やがて、三人分の朝食が到着する。プレートの上に綺麗に並べられた洋風の朝食。
いただきます、と三人で口をそろえて言うと、奉仕部三人の少し遅めのモーニングが始まった。
「今日私たちが回るところ、改めて説明するわね」
伏見稲荷大社。東福寺。嵐山。それから、忘れてならない北野天満宮。
一つ一つの観光名所について説明していくと、比企谷君と由比ヶ浜さんがへーだとかほーだとか相槌を打つ。
「どれも見たいけれど、有名だから人混みが予想されるのが今から憂鬱ね……」
「ゆきのん体力ないもんね」
由比ヶ浜さんが何気なく言った言葉に、内心同意する。
その通りだ。最後に訪れる予定の嵐山まで無事辿り着けるだろうか……。
ブラックコーヒーの苦みをオレンジジュースを飲んで上書きしていると、どうやら二人の食事も済んだらしい。
「じゃあ、奉仕部での修学旅行、行きましょうか」
立ち上がりながら言ったそのセリフは思ったよりずっと弾んでいて、私は少し気恥ずかしさを感じた。
伏見稲荷の有名な千本鳥居をくぐりぬける。朱色の鳥居が何本も並んでいる景色は壮観だ。
しかし、その道のりはなかなかに険しかった。ただでさえ上りになっていてしんどいというのに、さらに周りは人だらけときた。私を殺す気だろうか。
伏見稲荷に着いてしばしば、私は高所から京都を一望するベンチにぐったりと座り込んでいた。
「大丈夫か」
「ええ、少し休めば下れそう」
ぶっきらぼうに聞いてきた比企谷君に答えて、私はまた京都を一望する絶景に目を向ける。快晴の京都はどこまでも見渡せそうだった。
そして今、比企谷君も同じ景色を見ているのだと思うと、私は少し嬉しくなった。
「ここも恐ろしい人だかりだったけれど、次の東福寺は紅葉の名所よ。……下手すればここ以上の人だかりが予想されるわ」
「お前なんで人混み苦手なのにこんな予定にしたの? 遠まわしな自殺?」
「……せっかくだから楽しみたいじゃない」
「……そうか」
口数は少なく、それから由比ヶ浜さんが戻ってくるまでの間、私と比企谷君は同じ景色を眺めていた。
伏見稲荷を下りて、次に向かったのは東福寺だ。紅葉の最盛期は過ぎたとはいえ、予想通りの人混みだ。
内心それにうんざりしながらも、私は二人と一緒に、鮮やかに色づいた木々を眺める。寺の古めかしい景観も相まって、非常に写真映えしそうな景色だ。
「あれ、姫菜たちだ」
由比ヶ浜さんが指さした方を見ると、何やら紅葉をバックに写真を撮る一団がいた。戸部君と海老名さん、それから葉山君と三浦さんの四人組だ。
「なんかとべっちと姫菜、仲良さそうじゃない?」
「……いや、いつもと変わらねえな」
ぼそりと呟いた比企谷君に、内心同意する。仲は良さそうだが、いつもと同じ人間と一緒にいるせいで特別な雰囲気になるのは難しそうだ。
眺めていると、やがて向こうの一団がこちらに気づいた様子を見せた。由比ヶ浜さんが大きく手を振ると、四人がこちらにやってきた。
「や」
短い挨拶と共に、合流する一団。葉山君と由比ヶ浜さんが会話を始める。
ふと、私は視線を感じた。見ると、三浦さんが獲物に襲い掛かる直前の狼のような目でこちらを見ていた。
……そういえば彼女とはサマーキャンプ以来か。未だに泣かせてしまったことを根に持っているのだろうか。
「……」
私に思うところはないが、雪ノ下雪乃として舐められるわけにはいかない。すかさず、鋭い目線で睨み返す。私と三浦さんの間に冷たい空気が漂い始めた。
私が三浦さんとの面白くもないにらめっこを始めた頃、ふと、かすかに聞こえてくる声があった。
「ヒキタニ君」
ちょうしっぱずれな、不自然に明るい声だった。しかし不思議と空気に溶け込んでしまいそうなほどに存在感のないものだった。
声の主である海老名さんはするりと背中を向けると、人混みの中へと歩いていく。
そして、比企谷君はその背中についていくように人混みの中に紛れていった。
それは、よほど注目していなければ見逃してしまうような、極めて存在感のない動きだった。
「……」
少しだけ、迷う。きっと今、海老名さんは比企谷君に「依頼」の確認をしているのだろう。例えば、今私がそれを邪魔しに行けば、比企谷君の動き方も変わるだろうか。
一瞬、葉山君の姿を見る。彼もまた、戸部君が関係を進めないことを望んでいる。だからこそ遠まわしに戸部君が海老名さんと二人きりになることを邪魔していた。
目の前で私を睨みつけてきてくる三浦さんを見る。キツイ言動に反して友人想いの彼女も、関係が壊れることを望んでいない。
「……いや、ボクは見守ると決めたんだ」
誰にも聞かれないように、小さく呟く。自分の決断を、全うしよう。比企谷君の決断を、尊重しよう。
三浦さんから少し視線を外して、紅葉を見る。
突風に、鮮やかな落葉が視界を埋め尽くした。色鮮やかで美しいそれは、しかし自然の移ろいやすさを表している気がした。
夜の嵐山には、人の気配が全くと言っていいほどなかった。喧騒の遠ざかった山中には、竹の葉が擦れ合う音だけが静かに存在した。
夜の山は真っ暗だが、ここには光源が二つあった。一つは、ライトアップされた竹林。青白い竹がぼうと光る様はなんだか幻想的だ。
そして、竹林の寒色系の光とは対照的に暖かみを感じる光を灯す灯籠。美しい光を灯す灯篭は足元に等間隔で並べられて、道を照らしてる。
浮世離れした雰囲気は、特別なイベントを実行するにはうってつけだ。
やはり戸部君はここを告白場所に決めたらしい。
「……なら、最後の最後まで頑張れよ、戸部」
比企谷君は緊張した面持ちの戸部君の真剣な想いを聞くと、そう言って励ました。
他にも大和君や大岡君、それに葉山君に励まされた戸部君は、覚悟を決めたように表情を引き締めると、ゆっくりと現れた海老名さんの元へと歩み始めた。
「……成功するといいね、ゆきのん」
「……そうね」
成功するなんて微塵も思っていないのに、そう返して、私は戸部君と海老名さんの様子を見守った。
夜の嵐山に佇む海老名さんの顔には、いかなる表情も浮かんでいなかった。私には、まるで彼女がこれから判決を聞く被告人のように見えた。
反対に戸部君は、ひどく緊張した面持ちだ。しかしその瞳には確かな熱が籠っていて、その想いが本気であることが伝わってくる。
やがて、覚悟を決めたらしい戸部君が口を開く。
「あのさ……」
「うん……」
ぎこちない言葉の応酬は、普段の二人の快活な様子とは打って変わって緊張感に溢れていた。
「俺、さ……」
戸部君が躊躇するように言葉を切る。
カサカサという竹の葉の擦れる音が、ひどくうるさい。竹林の間を抜けてきた冷たい風が私の首元を撫でた。
やがて、戸部君と海老名さんの間にある緊張感が極限まで高まった時のことだった。
「ずっと前から好きでした。付き合ってください」
その声は、戸部君の口からでもなく海老名さんの口からでもなく、彼らの元に突然現れた比企谷君の口から発せられていた。
後から振り返れば、はっきりと分かる。
それを見た私の胸に芽生えたのは、納得でも失望でも賞賛でもなく、──嫉妬、だった。
「──ッ」
口から意味を為さない声が漏れる。その感情の正体を、その時の私は分からなかった。──分かっていれば、あんなことにはならなかったのに。
比企谷君は葉山君と何事か話した後で、ゆっくりとこちらに戻ってきた。その背は、いつもよりも曲がっているように見えた。
そんな彼に、私はこう告げた。
「あなたのやり方、嫌いだわ」
由比ヶ浜さんが隣で息を吞む音がした。でも、止まれない。
「上手く言えないけれど、嫌い」
違う。ボクは嫌いなのではなく、嫌だったのだ。
比企谷君が、誰かに告白しているのが。比企谷君が誰かのものになるのが、たまらなく嫌だったのだ。冷静になったボクにはそう分析できた。
しかしあの時あの場所にいる私はただ自分の感情に戸惑うだけだった。
「先に戻るわ」
だから、私の言葉は、全部八つ当たりで。
ボクはその時、紛れもなく
こうして、ボクは間違える