「はあ……」
回想を終えたボクは、自室のベッドで大きなため息を吐いた。
あの夜から一日。修学旅行から帰って、自宅に戻ることができたボクは、ようやく自分の振る舞いを冷静に思い返すことができた。
正直、今日はずっと自分の感情に整理がつかなかった。
どうして自分があんなこと言ってしまったのか分からなかったし、意味もなく比企谷君にきつく当たってしまったことへの自己嫌悪でいっぱいだった。
でも、感情の整理を終えた今なら分かる。あの時のボクは比企谷君の行動に嫉妬の感情を覚えていて、だからあんな八つ当たりみたいなことをしてしまったのだ。
「はあ……」
二度目のため息。
ボクが嫉妬からあんな行動をしてしまったことを思い返すと、改めて一度棚上げにしていた問題に意識が向く。
すなわち、今のボクは男なのか女なのか。
──いや、比企谷君にあんな醜い嫉妬をしてしまったボクはきっと、女なのだ。
しかし、それを受けいれられない自分がいる。
「ボクは確かに、男だったはずだったんだ」
しかし、その事実はもはや確認のしようなんてなくて、男だった頃のボクなんて記憶の中にしか存在しない。
気持ちが落ち着かず、枕元に置かれたぬいぐるみをなんとなしに掴む。
パンダのパンさんのぬいぐるみ。特に意識せず掴んだそれは、いつか比企谷君にUFOキャッチャーで取ってもらったものだった。
「……ぬいぐるみが枕元に置いてある男子高校生なんていないか」
いつの間にか変化していたボクの嗜好。それを確認して、改めて自分の変わりように気づかされる。
手元に引き寄せたパンさんを、体で包み込むように抱き寄せる。
「……」
柔らかい布地で作られたぬいぐるみに触れていると、なんだか安心できる気がした。
……そう、安心感。ボクが比企谷君に感じているのは、きっと安心感だと、そう思っていた。
素のボクをさらけ出せる、この人生で二人だけの存在。
そんな彼に抱く不思議で温かい感情を、ボクは本当の自分を受け入れてもらえる安心感だと錯覚して、そうだと思い込んでいた。
でも、違った。
比企谷君と一緒にいると、少し鼓動が早くなって、体温が高くなる。
比企谷君と話していると、楽しくなる。口角が上がってしまいそうになる。
同じようにボクを受け入れてくれた由比ヶ浜さんには感じなかったそれは、思い返せば安心感とは違った感情だった。
理解はできる。でも、納得はできなかった。
「……この感情を受けいれることこそが、ありのままに生きるってことなのかな、由比ヶ浜さん」
問いが口をついて零れ、ボクしかいない部屋に虚しく響いた。
でも、本人にそんな問いをぶつけることなんて、できそうになかった。
だってボクは、由比ヶ浜さんの想いを知っている。泣いてしまうほどに切なくて、息を呑んでしまうほどに優しい、その想いを。
「……寝る、か」
答えは出るはずもなく、問いはボクの胸中をグルグルと周り続けていた。
◇
修学旅行後、最初の学校の日が来た。私は憂鬱な気持ちで学校に向かうと、放課後までの時間を、上の空で過ごした。
そして、放課後。重い足で部室に向かった私は、いつもの場所に座り、読めるわけもない文庫本を広げる。
「……やっはろー」
「こんにちは」
少しして部室を訪れた由比ヶ浜さんに、短く挨拶する。いつもと違って、目が合わない。それ以上言葉を交わすことはなく、彼女は静かに携帯をいじりはじめた。
しばらくして、もう一度ドアが開いた。今度こそ、比企谷君が入ってくる。その顔はいつもよりも暗い。
「来たのね」
「ああ」
口数は少なく。目線が交錯することはなかった。
……謝らなければ。
思ってもいないことを口にしてしまったこと。八つ当たりしてしまったこと。選択を見守るなどと決意しておきながら彼のやり方を否定したこと。
私が躊躇っているうちに、由比ヶ浜さんが口を開いた。
「葉山君たち、思ってたより普通だったね。少しくらい告白騒ぎの影響があるかなって思ってたんだけど、びっくりするくらい今まで通りだった」
おずおずと、由比ヶ浜さんが切り出した。
「ああ、今まで通りだったな」
「……そう」
小さく肯定するが、私の頭の中はそれどころではなかった。
謝らなければ。比企谷君に思ってもみないことを言ってしまったこと。彼を否定するようなことを言ってしまったこと。
しかし私の口は、思ったように動かなかった。
──怖い。真実を告げることが。あまりにも弱いボクをさらけ出すことが。ボクを受け入れてくれた彼に、否定されるかもしれないことが。
結局のところボクには、ありのままに生きるなんてできないのかもしれない。
「なんていうかさ、みんなが何考えてるのか分からなくなっちゃった」
ぽつりと、由比ヶ浜さんが呟く。みんな、という言葉には、比企谷君も含まれているようであった。
「……他人の考えていることなんて、完璧に分かるはずもないわ」
口から出てきた一般論を垂れ流す。結局のところ、私は何一つ本音を話せないままだった。
三人の間に、重い沈黙が下りる。誰もが言うべき言葉を探して、誰も見つけられていないような、そんな沈黙だった。
そんな時だった。部室に、軽いノックが響いた。
「どうぞ」
まるで地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸を見つけた罪人のような気分で、私は入室を促した。
「失礼する」
返事をしっかり待って入ってきたのは、平塚先生だった。先生は少し部室を見回すと、短く問いかけてきた。
「何かあったかね?」
流石の慧眼だ。しかしその問いには、誰も答えられなかった。平塚先生は沈黙という答えを受け取ると、少し首をひねる。
「ふむ……頼みたいことがあったのだが、日を改めたほうがいいか?」
「それでもいいですけど、どのみち変わらないですよ」
目を見て問いかけられた比企谷君が言葉を返す。
「そうか。……では、入ってきてくれ」
「失礼しまーす」
可愛らしい声とともに入ってきたのは、きらりと光るおでこがチャーミングな生徒会長の城廻先輩だった。
「こんにちは」
そして、その後ろからもう一人。初対面のはずの彼女は、私には見覚えのある人物だった。
ああ、自己紹介なんてされなくても分かる。セミロングの亜麻色の髪に、可愛らしい顔立ち。くりくりとした瞳は小動物を思わせる愛らしさだ。触れれば折れてしまいそうな華奢な体付きは、庇護欲をそそる。
一色いろは。私の知る物語にも登場した、後輩ヒロインだ。
一色さんの紹介を済ませた城廻先輩は、さっそく本題を切り出した。
「もうすぐ生徒会選挙があるでしょ?」
比企谷君と由比ヶ浜さんが少しきょとんとした顔をしているのを見て、私は代わりに言葉を返す。
「はい。もう公示も済んでいますね。候補者も張り出されていますね」
「そうそう。私たち生徒会の引退前最後の仕事が、その選挙の運営なんだけどね」
城廻先輩も生徒会長引退か。三年生とはほとんど関わりがなかったとはいえ、少し寂しいような気もしてくる。
「それで、その選挙で、この一色さんは生徒会長の候補なんだけど……その、一色さんを落としてあげたいの」
奇妙な依頼だった。しかし、既に知識のある私には納得できる話だった。
前提として、一色さんは女子に嫌われるタイプの女子だ。小悪魔的な言動と、男を惑わすような思わせぶりな態度。一言で言えば、あざとい。男受けはいいかもしれないが、女子には不評だろう。
そういうわけで、彼女は同級生の女子から嫌がらせを受けた。この嫌がらせというのがタチが悪かった。なんと嫌がらせの首謀者たちは、署名を集めて一色さんを生徒会長に勝手に推薦したのだ。
そんなわけで勝手に生徒会長に立候補させられてしまった一色さんだが、もちろん乗り気ではない。
当然だろう。嫌がらせのせいで一年生から生徒会長になるなんて、簡単に承諾するほうがどうかしている。
しかし生徒会長の立候補者は彼女一人。このままいけば、流れのままに生徒会長になってしまう。
「つまり一色さんが生徒会長にならないように、なんとかできないか、と」
私の知るように話は進み、確認の意味を兼ねて私は問い返した。
「そうそう。なんとかお願いできないかな」
城廻先輩の困ったような声を聞くと、なんとかしなければならないような気がしてきた。
私は先輩から少し視線を逸らすと、考えを巡らせた。
正直、修学旅行やその後の出来事のことで頭がいっぱいで、このイベントについては何も考えていなかった。今や遠い記憶となりつつある、原作知識を思い出す。
確か、これは最終的には一色さんを比企谷君が説得して、彼女に生徒会長になってもらうことで丸く収めたはずだ。
しかし、その前にはさまざまな紆余曲折がある。比企谷君と葉山君の交流があったり、比企谷君が小町さんに動く理由をもらったり、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が生徒会長に立候補しようとしたりして……。
「……あ」
そこまで思い出してから、私の頭にある発想が浮かんできた。全部丸く収まる、単純な解決方法。何よりも、私を苦しめてきた胸の痛みをどうにかできる解決策。
どうして私が今こんなに苦しいのか、どうして自分の性別についてこんなに思い悩まなければならないのか。どうしてこんなに自己嫌悪に苦しんでいるのか。
比企谷君と一緒にいるからだ。
彼といるからこんなに胸が苦しい。ひどいことを言ってしまった自分が嫌いになる。
──だから、私が生徒会長になって、奉仕部と距離を置けばいい。
その決意は不思議と私の胸にすんなり入ってきて、これしかないと思えた。