雪ノ下雪乃は偽物である   作:恥谷きゆう

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まだ由比ヶ浜結衣のクッキーはまずい

 扉が開き、今日も瞳を濁らせた彼が入ってくる。昨日ぶりに奉仕部の部室を訪れた比企谷君は、文庫本に目を落とす私に一瞬目を向けると、やや視線を逸らして小さく頭を下げた。……なんだか、前世の自分を見ているようだ。

 それを見届けた私は、返事をせずに再び頁へと視線を落とした。すると、比企谷君の呆れたような声が聞こえてくる。

 

「この距離でシカトかよ……」

「あら、どこかの国の挨拶だったの?少なくとも私は知らないわね」

「……コンニチハ」

「はい、こんにちは」

 

 ばっちり煽ると、比企谷君は引きつった笑みで挨拶をしてくれた。うん、雪ノ下雪乃とはたぶんこんな感じだ。

 

「今日も来たのね。意外だったわ」

「ああ、仕方なくな」

「へえ、もしかして私のこと好きなの?」

「ちげえよ。なんだそれ、自意識過剰か」

「あら、違ったの」

 

 興味なさげに返答してやると、比企谷君は眉をひくひくさせながら、自分の席に座った。この傍若無人っぷり、いかにも初期の雪ノ下雪乃っぽい……!心中で自画自賛していると、比企谷君が話しかけてきていた。

 

「なあ、昨日も思ったが、お前のそのひん曲がった性格、どうにかならないのか?仏門にでも入った方がいいんじゃないか?」

「いいえ、別に不便していないもの。むしろあなたが頭を丸めて悟りの道を目指した方がいいんじゃないの?煩悩ヶ谷君」

「人を煩悩に塗れた俗物みたいに言うな」

「あら、でも私の胸を下卑た目で見てきているじゃない」

「みっ、見てねえし」

 

 比企谷君が大きく顔を逸らした。うんうん、顔を見るのが気恥ずかしくて、視線が下がった結果胸のあたりで視線が止まるんだよね。分かる分かる。心中の男の私が同情する。

 

「……なあお前、そんな性格で友達いるのか?」

 

 再び視線を上げた比企谷君が、急に痛い質問をしてきた。今度は私が視線を逸らす番だった。

 

「……そうね、まず友達の定義から提示してほしいものね」

「ああ、もういいわ。それ友達いないやつの台詞だわ」

 

 比企谷君の私を見る目が、若干生ぬるいものになる。くっ、私だって作ろうとすれば友達の一人や二人……!

 

「……そうね、あなたには不快な話かもしれないけれど」

「もう今までの話で十分不快になってるよ」

「私ってとても可愛くて優秀だから異性にとてもモテるの」

「……すっげー不快だわ。今までになく」

「──だから、同性からは好かれないの。……こう言えば、友達のいないあなたにも分かるかしら?」

「お前にそれを言われるのはムカつくな。……まあ、分かるよ」

 

 比企谷君は呆れたような目で見てくるけれど、私にとって異性に好かれるというのは不快でしかなかった。自分の中の認識は同性なのに、男から欲情の籠った目を向けられる。それは想像していたよりもずっと不快で、精神的にくるものがあった。

 

「──そんなの、間違っていると思わない?優れた人間が蹴落とされる世界。醜い人の嫉妬が世界を支配する。そんなのおかしいじゃない。だから、変えるのよ、世界を、人を」

 

 その理想は、私のものではなく雪ノ下雪乃のものだ。間違ったことが嫌いで、正しくあろうとし続けていた少女が掲げた理想。それを、偽物である私が騙る。ああ、なんて間違い、なんて醜いのだろう。それでも、私は雪ノ下雪乃を演じる。この先にハッピーエンドがあると信じて。

 少しの沈黙が場を支配した。やがて、私の言葉に少し考えこむように黙り込んでいた比企谷君が、おずおずと口を開いた。その瞳は、いつになく真剣だった。

 

「──なあ、雪ノ下。なら俺が友達に」

 

 その、共感と、羨望と、嫉妬と、その他さまざまな感情を含んだ呟きを、私は──

 

「お断りよ」

 

 凍えるような笑みと共に、バッサリと、切り捨てた。

 

 

 

 

 その日の夜。自宅にて。

 

「うわあああああ!ボクなんであんなこと言ったんだよおおお!友達になりたかったよおおおおおおお!」

 

 ゴロゴロゴロ。自宅のベッドの上で回転し続ける女子高生の姿が、そこにはあった。というかボクだった。

 断った時の、比企谷君の微妙に傷ついたような顔がフラッシュバックする。自分の放った、容赦のない断り文句が脳内でリピートし続ける。

 ごめん比企谷君。君はボクのロールプレイの犠牲になったんだ……!

 

 誰にも見せられない醜態を晒して数分。ボクはベッドからむくりと起き上がった。

 

「はあ……雪ノ下雪乃やめたい……」

 

 何も背負っていない、何者でもないボクだったなら、きっと彼と友達にだってなれたはずなのに。嘆きは、誰にも聞き届けられることはなかった。

 

 

 ◇

 

 

 奉仕部に彼が加入してから数日が経った。あれからほとんど毎日部室で会っているが、彼との間にはあまり会話はない。そもそもファーストコンタクトの印象から最悪だっただろう。口の悪い女。きっとそんな印象を抱いたはずだ。

 

 相談者が訪れることもなく、離れた席で文庫本のページをめくり続ける日々が続いた。

 彼は、その時間をどう思っていただろうか。退屈だっただろうか。それとも、静寂の中に心地良さを感じてくれただろうか。彼の暗い瞳は、その内心を明かしてはくれない。

 

 しかし、二人だけの静かな平穏はもうすぐ終わりを迎える。そろそろ、彼女が来る頃だろう。ちょうどそう考えていた時、静かな教室に弱々しいノックの音が響いた。胸の高まりを抑え、冷静そうな声を出す。

 

「どうぞ」

 

 誰かに見られていないか確認するように辺りを見渡し、教室に素早く入ってきた彼女の視線がこちらに向く。

 

「し、失礼しまーす」

 

 画面の向こうで散々見た顔だった。整った、やや童顔な顔立ち。着崩された制服。明るい髪の上にちょこんと乗っているお団子ヘアーが良く似合っている。

 

「奉仕部にようこそ。座って頂戴」

 

 ついに、由比ヶ浜結衣がこの教室に来た。物語の本編、その最重要人物がここに揃った。

 

「な、なんでヒッキーがここにいるの!?」

 

 ああ、やっぱり私の知る由比ヶ浜結衣だ。

 

 

「クッキー作りを手伝ってほしい?なんだそれ。いつもつるんでるような奴に頼めばいいんじゃないか?」

「いやあ、でもそういうガチっぽいの合わないっていうかなんていうか……」

「……まあ、話は分かったわ。それなら私にも手伝えそう。では、さっそく行きましょうか──もちろん、比企谷君も」

 

 関係なさそうな態度をしている比企谷君に釘を刺すと、彼は露骨に顔を歪ませた。瞳はマジかよこの女と言っていた。……まずいクッキーができたら、絶対食べさせてやる。

 

 

 場所は変わって調理室。私は彼女にお菓子作りについて教えていた。

 

「変にアレンジを加えようとするのはやめて頂戴。そういうのは基礎の出来ている人間のやることよ」

「え、でも美味しくなりそうだよ?」

「美味しくならないから言っているの。お願いだからレシピ通りに作ってくれないかしら?」

 

 由比ヶ浜さんの料理下手は想像以上だった。

 正直、私が教えたらなんとかなるんじゃないかと思っていた。私は本物とは違い凡人なので、できない人間の心情も分かる。だから、教え方だって下手じゃないはずだ。それはほとんど唯一本物に勝てる点だと密かに思っていた。

 しかし、そんな私でも、奔放な由比ヶ浜さんを御しきることはできなかった。

 

 クッキーづくりをしていたはずの私たちの前には、黒ずんだ物体が佇んでいた。比企谷君の言葉を借りるなら、木炭。私風に言うなら、ダークマター。

 

「……食えると思うか?」

 

 比企谷君が戦々恐々といった様子で聞いてくる。どんよりとした瞳が、常よりも光を失っていた。

 

「比企谷君、あなたに女子の手料理を食べるというご褒美をあげましょう」

「手料理?雪ノ下にしては冗談が下手だな。これは……これは、なんだ?」

「とにかく、この木炭を食べるわよ。ほら、由比ヶ浜さんも」

「うう……やっぱり食べないとダメ?」

「あなたが食べなかったら誰が食べるの!私も付きあうから、ほら」

 

 黒々としたそれを口に入れると、途端に苦みが口腔を蹂躙した。

 

「ッ!ケホッケホッ」

 

 口を押さえて咳き込む。危ない。雪ノ下雪乃らしからぬ声を出す所だった。「ウッ」とか「オエッ」とかそういう感じの。

 

「リアクションが毒物を食べた人間のそれなんだが……本当に大丈夫かよ」

「つべこべ言わずにあなたも食べなさい。紅茶は特別に用意してあげたから」

 

 二人が目を白黒させている様子を眺める。表情のコロコロ変わる彼らを見ていると、やっぱりここに存在する人間なのだなあ、などと感慨に浸ってしまう。画面の向こうの、あるいは紙面の中の登場人物ではない、実在する人間である彼ら。

 

 完食する頃には、カップの紅茶はすっかりなくなっていた。クッキー(?)を食べた由比ヶ浜さんの表情は暗かった。

 

「やっぱり向いてないのかな、こういうの。私、雪ノ下さんみたいに才能ないし、多分頑張っても無駄なんだよ」

 

 彼女が弱音を吐いた。このセリフに応えるのは、私の役割だろう。

 

「向き不向きを論じる前に相応の努力をしたらどうかしら?才能もそう。そういうのは、血の滲むような努力をした人間がそれでも尚届かなかった時に初めて口にしていい言葉よ。あなたのそれは薄志弱行な人間のつまらない言い訳でしょう」

 

 当初考えていたよりもずっときつい言葉が出たことに自分でも驚いた。

 すぐに後悔と自己嫌悪に襲われる。思ったよりも、彼女の言葉に気持ちが揺らいでいたらしい。

 凡人だった自分が彼女になるために必死に努力したこと。努力の結果得た、本物に迫る能力を、何も知らない他人にすべて才能の一言で片付けられたこと。

 

 彼女ではない、完璧ではない私という人間が過剰に反応したようだ。冷静になるために一呼吸置く。

 由比ヶ浜さんに嫌われてしまっただろうか。恐る恐る、私は謝罪を口にしようとした。

 

「ごめんなさい。言い過ぎ──「かっこいい……」

「「は?」」

 

 由比ヶ浜さんは、私の言葉に目をキラキラさせて感動しているようだった。

 結局のところ、話は概ね私の知る筋書き通りに進んだ。

 由比ヶ浜さんは雪ノ下雪乃の在り方に惹かれた。

 お菓子作りの方は比企谷くんの「味じゃなく気持ちが大事だろ」という鶴の一声で解決した。少なくとも由比ヶ浜さんにとっては比企谷くんが言うのであればそれが正解なのだろう。

 由比ヶ浜さんは、照れ隠しにプリプリと怒りながら帰ってしまった。

 

 騒がしさの過ぎ去った調理室で、私は比企谷くんと二人で調理器具の後片付けを行っていた。彼もさりげなく帰ろうとしていたので、私の特技、雪ノ下雪乃風極寒スマイルをお見舞いしてやると、「なぜ俺が……」などとぶつくさ言いながら手伝ってくれた。

 

「あー、雪ノ下」

「なにかしら?」

 

 話しかけづらそうに、比企谷くんが私の名前を呼ぶ。

 

「初めて会った時に、変わらないことは悪いことじゃないとか言ったこと、その、気に障ったのなら悪い。別に他人の努力を否定する気はないんだ」

「……いいえ、気にする必要はないけれど」

 

 どうやら、あの時私が何に怒ってしまったのか見抜かれてしまったらしい。ああ全く恥ずかしい。そして同時に、この人生で初めて私自身を見られたような気がして、少し嬉しくなってしまった。

 

 

 調理器具はあらかた片づけ終わった。めんどくさそうに片づけをしていた比企谷君は、そわそわと帰りたいアピールを私にしてきている。

 

 しかし、もう少しだけ付き合ってもらおう。

 

「比企谷君、手本に作った私のクッキーが余っているの。食べていってくれない?」

「……ああ」

 

 少しガックリしたような態度で、彼が手近な椅子に腰かける。クッキーを適当な皿に載せて、彼の目の前に置く。我ながらそれなりに良い出来になったと思う。加えて、サービス。再び紅茶を入れて、カップをクッキーの横に添える。

 

「……至れり尽くせりだな」

「ええ。お金を取ってもいいくらいよ」

 

 急に優しそうな行動を取り始めた私に、比企谷君は訝しげな目を向けてきた。なかなか口を付けようとしない。

 

「……そんな警戒しなくても、食べられないものは何もいれてないわよ?」

「食べれるものでなんか入れたのか?」

 

 私がクッキーにハバネロでも入れるような人間に見えるのだろうか。

 私自らクッキーをつまみ、紅茶で流し込んで見せると、彼はようやくクッキーに向き直ってくれた。

 

 

 由比ヶ浜さんの指導に夢中になっているうちに、かなりの時間が経っていたらしい。気づけば調理室には夕陽が差し込んできていた。運動部の威勢のいい掛け声も聞こえなくなっている。

 

 こんな原作にないイベントを私が起こしたのには、理由がある。彼と二人きりで、さらに手作りのクッキーを食べてもらう。こんなイベントを経て、自分の心がどう動くのか、それが知りたかった。

 

 私の作ったクッキーを食べる比企谷君の様子を見る。最初は恐る恐る。そして一口食べてからは次々とクッキーを口に入れていく。夕陽に照らされた顔が、少しだけ緩んだ。彼は私のクッキーを美味しいと思ってくれたのだろうか。

 ──ああ、やっぱりだ。私の胸は少し鼓動を早め、顔が少しだけ熱い。この感情が恋なのか、それとも単に好きだった物語の主人公に会えた興奮なのか、私は答えを出せずにいた。

 

 二人しかいない調理室に、無言の時間が流れる。カタ、とソーサーにカップを置く音。小さなポリポリというクッキーの砕ける音。それらが茜色の空間に溶け込み、耳を撫でる。あまりに静かなこの空間にいると、学校の中にいることを忘れてしまいそうだった。

 

 視線を戻し、自分で入れた紅茶を飲む。飲みなれたはずのそれは、少しだけ甘酸っぱかった。

 

 

 ◇

 

 

 クッキー作りの依頼を一応は完了した翌日、部室には由比ヶ浜さんの姿があった。私としては一安心という気分だ。本物の雪ノ下雪乃が存在しない以上、彼女が奉仕部に入らないという未来もあり得ると思っていた。

「やっはろー」という由比ヶ浜さんの元気な声に挨拶を返す。一応雪ノ下雪乃として彼女がここにいることをいぶかしんで見せる。

 

「あれ、私あんまり歓迎されてない感じ!?……そうだ。ゆきのん、昨日はなんか変なこと言ってごめん。ゆきのんみたいななんでも出来る人が努力してないはずがないもんね。無神経だった」

「いいえ、気にしないで。私のほうこそ言い過ぎだった」

 

 彼女にも私があっさり見抜かれてしまった。昨日と同じように羞恥に襲われ、そして不本意にもうれしさを感じてしまう。

 どうやら私は完全に演者になることはできないらしい。孤高の彼女になるために他人との関わりは最低限にしてきた。だからこそ私の仮面は今まで揺らぐことはなかった。

 

 しかし今は、かつて憧れた彼、彼女と共に過ごす今は。私は彼女になりきれない。

 

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