相談のあった後日、奉仕部では一色さんから詳しい話を聞くために、彼女を呼び出していた。
既に部室の相談者の席には一色さんが座っていた。けれど、彼女にはまだ本題の話を始めないように言ってある。
「いろはちゃん部活は大丈夫だったの?」
「はい、葉山先輩にちょっと用があるって言って抜けてきました……もしかして結衣先輩、何か伝えてくれましたか?」
「え?いや、何も言ってないよ」
「そうですか……」
既に面識があったらしい由比ヶ浜さんが、彼女と親し気に談笑していた。姦しい様子はなんだかまさしく女子高生といった感じで、私が入り込む余地などないような気がした。二人の話し声をバックに、私は文庫本のページを捲った。
私たち三人が集まって、少し経ってからのことだった。何の前触れもなく部室のドアが開かれた。その先には、いつものどんよりとした瞳をした比企谷君の姿。
「来たのね」
「ああ」
交わす言葉は短く、温度はなかった。一瞬交錯した視線は、しかし彼の方から外される。
比企谷君が席に座るのを横目に確認してから、私は一色さんに声をかけた。
「では、話を始めましょうか、一色さん」
「はーい」
間延びした返事をした一色さんが、自分の置かれた現状についての認識を簡単に示す。生徒会選挙が迫っていること。生徒会長候補が自分しかいないこと。できれば信任投票で落ちるのは避けたいこと。壇上に立つこと自体はさして抵抗がないこと。
「私たちが取れる方策と言えば、他に候補を立てて一色さんに負けてもらうことくらいね」
「あっはい。それなら構わないです」
私の言葉に応えて鷹揚に頷く様すらなんだか可愛らしい。きっとそんな所作一つ一つが計算づくで、魅力的に見えるように工夫の凝らされたものなのだろう。
可愛い自分を演じる姿は、親近感を覚えなくもない。
「候補の選定を急がなくてはならないわね。選挙まではもう時間がない。さらに、立候補には三十人も推薦人を集めなきゃ。由比ヶ浜さん、すぐに候補のリストアップに入りましょう」
「うん」
由比ヶ浜さんに呼びかけた後、私は無意識に比企谷君の方を向いていた。
私の目線を認めた比企谷君が、低い声で自分のスタンスを述べる。
「昨日も言ったように、俺は俺で好きにやるぞ」
「そう」
努めて興味無さげに言って、私は再び一色さんの方を向いた。
「私たちで立てる対立候補の公約はもう考えてあるの。差別化を図るために、一色さんはこれを参考にして、違う公約を考えてもらえる?」
「へえ、早いですね……ふむふむ」
公約を読み始める一色さんを眺めていると、比企谷君から冷静な声が飛んできた。
「それだと、お前らが立てる対立候補は傀儡候補になるんじゃないか?」
「……」
そう、とも言える。しかし今それを認めるわけにはいかない私は、詭弁を展開する。
「もちろん、候補者にも自分の意見を出してもらうつもりよ。それに私たちが関わるのはあくまで選挙まで。それからの生徒会の運営には関わらない以上、傀儡とは言い切れないわ」
「いや」
「それに」
尚も言い募ろうとする比企谷君を、言葉で押しとめる。
「あなたが一色さんの応援演説をしてヘイトを買って落選させるなんてふざけた方法よりはずっとマシよ」
比企谷君がいらない傷を負う必要なんて、どこにもない。
「また、お前は俺のやり方を否定するってことか」
「……」
伏し目がちだった先ほどまでとは打って変わって、彼は私の目を真っ直ぐ見て言った。
黒々とした瞳は、私の醜い内面まで全部見通してしまいそうで、私はそっと目を逸らした。
「……少なくとも、私の言う方法はあなたの自己犠牲的で場当たり的で欺瞞による先送りな解決策よりはずっとマシよ」
また、詭弁。しかし比企谷君は、怯まず言い返してくる。
「自己犠牲?ハッ。そんな陳腐な言葉で、俺の行動をくくってくれるな。だいたい何が欺瞞だ。お前の言う現実離れした解決策の方が、よっぽど欺瞞に満ちてるだろうが」
嫌悪感を言葉に滲ませて、比企谷君は吐き捨てた。
返す言葉などもたない私は、ただ黙ることしかできなかった。
欺瞞。そうだ、私の存在それ自体が、もう欺瞞なのだ。私が雪ノ下雪乃となってしまったその瞬間から、私は欺瞞で、虚偽で、偽物だ。
押し黙る。そんな私の様子を見た比企谷君もまた、気まずそうな顔をして黙ってしまった。
「……あのー」
気まずい沈黙に、耐えかねるとばかりに一色さんが声をあげた。
「ひとまず方針は分かったので、今日はもういいですか?私も公約考えてきますから」
「そうね。今日はひとまず解散しましょうか」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、一色さんが部室を出ていく。
やや遅れて、背中を丸めながら外へと向かう比企谷君の姿。斜陽に照らされる部室には、私と由比ヶ浜さんだけが残された。
私が行動を起こすとすれば、このタイミングか。
私は席を立つ。
「……由比ヶ浜さん、少しお手洗いに」
「うん」
廊下に出れば、そこにいたのはちょうど比企谷君だけだった。ちょうどいい。
「比企谷君」
呼び止めると、比企谷君は気まずげな表情で振り返った。先ほど言ったこと、言われたことを気にしているのだろうか。
以前の私なら、彼にそんな顔をさせてしまったことに一喜一憂していただろう。
しかし決意を固めた今の私は、比企谷君が多少表情を変えたくらいでは動揺はなかった。
「なんだよ、俺は勝手にやっていいんだろ」
「ええ。その前に、一つだけ」
私はつかつかと比企谷君に近寄ると、少し深呼吸をしてから言葉を紡いだ。
「今回の依頼、私に解決策がある」
「……なんだ」
「――私が生徒会長になる」
その時の比企谷君の表情には、さまざまな感情が渦巻いているようだった。驚愕、疑念、それから、失望、だろうか。
「なぜだ」
短く、呻くように比企谷君は言った。
「適任だからよ。それに何より、私がなりたいの。生徒会長に」
「部活は」
「私は引退ね。生徒会長だって、人を救うことはできる。私の目的はそれで達せられる。奉仕部である意味がないじゃない」
「由比ヶ浜には、言ったのか」
「いいえ。彼女には悪いけど、ギリギリまで黙っているつもり」
私の返答に、比企谷君は怒ったように顔を歪めた。
――ああ、あなたが由比ヶ浜さんのために怒ってくれて良かった。
「だから、比企谷君が頑張る必要なんてないわ。この件は私に任せてちょうだい。ああ、一つだけ。……私がいなくなっても、由比ヶ浜さんとは仲良くね。これは私からの最後のお願い」
言わなければならないことは、全て伝えた。そう思った私は、返事を聞くまでもなく背中を向け、部室へと歩き出し始めた。
「ふざけんな」
比企谷君が最後に吐き捨てた言葉は、私の耳には届かなかった。
雪ノ下雪乃は、俺の目を真っ直ぐに見て言った。自分の決断。部活からの引退。そして、最後のお願い。
ふざけんな。
それが俺の偽らざる本音で、率直な感想だった。
だってお前は、何一つ本音で話していない。いつも強い意志の灯っている瞳は、どこかぼんやりとしていて、覇気がなかった。つま先から頭部までピンと伸ばされていた体は、どことなく力がなく、いつもの迫力がなかった。
何よりも。俺はもう知っている。お前が自分の奥深くにある本音を語る時は、自分のことをボクと自称する。
でも俺は、あの場で彼女の言葉を嘘だと断言できなかった。もっと踏み入って話せば、彼女は本音を話してくれたかもしれないのに。
彼女の嘘を暴こうとした結果、もっとおぞましい本音を暴いてしまうかもしれない。俺の中にあるのは、そういう未だに底の見えない彼女に対する恐れだったのかもしれない。
けれども、彼女の虚勢は、ともすれば自分の嘘を暴いて欲しいと言っているようだった。