私が比企谷君と会話をしてから、一週間ほど過ぎただろうか。何だか一日が長くなったような気分だ。ずっと気分がどんよりとしていて、時間が経つのが遅い。
私は生徒会長になって奉仕部を辞めることを決断したが、由比ヶ浜さんにはそのことを話さなかった。止められる、と直感的に分かっていたからだ。
そして、もし私が話せば由比ヶ浜さんも生徒会長に立候補してしまうかもしれない。
私は、奉仕部には由比ヶ浜さんと比企谷君の二人で残ってほしいのだ。
「ゆきのん、会長の件、やっぱり優美子もダメだったよ」
「……そう。そろそろ候補者もいなくなってきたわね」
徒労に終わってしまうだろう作業に由比ヶ浜さんを従事させてしまっていることに罪悪感を覚えながら、私は言葉を返す。
目ぼしい生徒会長候補もいなくなってきた。もし希望があるとすれば、今日話し合いに応じてくれた葉山君だろうか。
「でも、隼人君が話に応じてくれて良かったよね。隼人君なら、一色さんと決戦投票になっても負けなそう!」
「そうね」
しかし、葉山君が話し合いに応じてくれることはないだろう。
私は、彼がなぜ私たち二人を呼び出したのか知っている。
「……そろそろ時間ね。出ましょうか」
「うん」
葉山君に指定されたカフェは、学校から少し離れている。二人で荷物をまとめて、学校を出る準備をする。
「……はあ」
「……どうしたのゆきのん、ため息なんてついて。疲れてる?」
「いいえ、なんでもないの。ありがとう」
今から見る光景を想像して、そして、それに対して自分が感じる感情を想像して、憂鬱になっただけだ。
夕方にもなると、私たちのように制服姿で出歩いている学生も珍しくない。若人たちの活気ある声によって、街は喧騒に包まれていた。
「えーっと……あ、あそこだ!」
自分が方向音痴であることを良く弁えた私は、道案内を由比ヶ浜さんに任せていた。比企谷君とショッピングモールに行った時からの成長を感じる。
落ち着いた雰囲気の店内に入り、目立つ容姿をしている葉山君を見つける。けれど、その横にはとある人物がいた。
「……え、なんでヒッキーが」
由比ヶ浜さんの呆然としたような呟き。葉山君と一緒にいたのは、比企谷君、それと見知らぬ女子生徒二人だった。
──ああ、あの嵐山の夜と同じ感情が湧き上がってくる。比企谷君が女の子と一緒にいることへの嫌悪。比企谷君を誰かに取られるのは嫌だという、醜い独占欲。嫉妬。
それが胸中にモヤモヤと漂って、私はひどく不快な気分になった。
「……来たか」
「……なんで、あいつらが……」
葉山君の表情を押し殺したような顔と、比企谷君の驚いた顔。
ダブルデートの最中、事あるごとに比企谷君を馬鹿にしていた二人の女子生徒に向かって、葉山君は堂々と言葉を述べる。
「見ての通り、比企谷は君たちよりもずっと素敵な奴と親しくしている。うわべだけ見て悪く言うのはやめてもらおう」
葉山君らしからぬ、他人を拒絶する言葉だった。
温厚な彼にそんなことを言われるとは思わなかったのだろう。葉山君とのデートを楽しんでいたはずの女子生徒二人は、ショックを受けたような顔をすると、その場を去っていた。
後に残ったのは、葉山君と奉仕部の三人だけだ。
「選挙の打ち合わせと聞いて来たのだけれど」
思っていたよりずっと冷たい言葉が出たことに、自分でも驚く。葉山君は私の言葉に少し驚いたように目を見開いた。
「生徒会の選挙の話を、葉山とか?」
状況を把握していなかったらしい比企谷君が確認してくる。
「うん。えっと今日は隼人君が生徒会長の件、受けてくれるかもって話で、それで私たちにここに来るように言われてたんだけど……」
由比ヶ浜さんが慌てたように説明する。葉山君は、ずっと黙ったままだった。
その時、この場で話をしている四人以外の声が聞こえてきた。
「ふーん、そういうことだったんだ」
「……姉さん」
少し離れた席に座ってこちらを見ていたのは、雪ノ下陽乃だった。
相変わらず感情の読めない表情をした姉さんが、こちらに近寄ってくる。
その様子に、私は言いようのない不安感を覚えた。
……大丈夫だ。たとえここで姉さんが生徒会長にならないのか、なんて挑発してきたところで、もうすでに決意を決めた私には関係のない話だ。恐れる必要なんてない。
しかし、姉さんの言葉は私の予想を大きく超えたものだった。
「ちょっと見ないうちに女の子の顔するようになったね、雪乃ちゃん?」
「──ッ!」
その言葉に籠められた意味を、私が履き違えるわけもなかった。
姉さんには、私が嫉妬を覚えたことなんて、まるわかりだったんだ。
いつになく軽薄な笑みで、姉さんは言葉を続ける。比企谷君の目の前で。
「でも、自分の感情には素直になった方がいいんじゃない?」
「──姉さんには、関係のない話よ!」
「ふふ、いつになくおっきな声」
クスクスと、姉さんはおかしそうに笑った。姉さんが私をからかってくるのはいつものことだったが、こんなにも心を揺さぶられたのは初めてだった。
「……話し合いができないのなら、用はないわね。今日はもう帰るわ」
これ以上何か言われたくなかった私は、踵を返し、店を出ようとした。今は比企谷君の顔を見たくなかった。
最後に、姉さんと比企谷君が何か話している声が聞こえてきた。
◇
長い、あまりにも長い一日を終えた俺は、帰るなりリビングのソファーに座り込んだ。このまま目を閉じれば気持ちよく眠れるだろう。
けれど俺は、浅く座り直し、姿勢を正した。まだ、考えるべきことが残っている。背筋を伸ばしたままで、俺は目を閉じた。
目を閉じれば、いつだって思考に集中できる。誰とも話さずに思索に浸れるのは、ボッチの長所だ。
誰よりも一人で過ごしてきた分、誰よりも色々なことを考えてきた。友人の定義について。名作の真意について。哲学の問いについて。
それから、数少ない知り合いについて。
今日の奇妙なお出かけの終着点、カフェで出会った陽乃さんは、雪ノ下に挑発的な言葉をかけたかと思うと、俺にも意味深な言葉を残してきた。
「どうか、君だけは、雪乃ちゃんを見捨てないで」
余裕そうな普段の声音とは違う、真摯な響きがあったように見えた。……いや、それすらも演技の可能性があるのが、雪ノ下陽乃の怖いところなのだが。
ともかく、雪ノ下陽乃にすらあんなことを言わせるほどに、今の雪ノ下が不安定に見えたということだろう。
であれば俺は、今一度雪ノ下雪乃のことを分析し直さなければならない。この半年ほど浅からぬ付き合いをしてきた、彼女のことを。
雪ノ下雪乃は不思議な人間だ。初めて見た時は、冗談みたいに美しい少女だと思った。端正な顔に、真っ直ぐ伸びた黒髪。初めて見た時は、彼女が一人で本を読んでいるさまを絵画のようだと思ったものだ。
話してみると、やたら口の悪い嫌な奴だと思った。視線は俺を貫かんばかりに鋭かったし、口を開けば無駄に多い語彙から放たれる罵倒文句ばかり。容姿の良さと同じくらい性格が悪いと思った。
でも、よく話してみるとそれだけではないのが分かった。優れた容姿に相応しい清楚な言動は、よく見れば時折演じているようにも見えた。薄い外皮で自分を覆っているような、そんな違和感。けれど、彼女が理想の姿であろうとしていることだけはよくわかった。
深くかかわると、どうにも彼女は想像以上に自分を演じていることが分かった。一人称には驚かされたが、ボクと自称する彼女は、いつもよりずっと表情豊かで、何よりも楽しそうだった。
──そんな彼女は、今何に悩み、何を必要としてるのだろう。
雪ノ下雪乃の宣言を思い出す。
『──私が、生徒会長になる』
どうして彼女がそんなことを言ったのか、見当もつかなかった。でも、何か無理をしているのだと俺の直感は囁いていた。
だって、奉仕部にいる彼女はあんなに自然体で、楽しそうだった。
分からない。分からない。分からない。
──分からないから、俺は分かるかもしれない奴に聞くことにした。
◇
私と由比ヶ浜さんは、いつも昼食を部室で取っていた。この昼食会は私と彼女の交流が始まってからずっと続いてきたことで、部活内での雰囲気が少し悪くなってきてからも、ずっと続いていることだった。
「ゆきのん、やっぱり隼人君もダメそうだったよ。……どうする?」
箸から手を離した由比ヶ浜さんは、こちらに向き直って問いかけてきた。いよいよ打てる手がなくなってきた、生徒会選挙の候補者探し。
私が由比ヶ浜さんに打ち明けるとすれば、そろそろだろうか。
「……由比ヶ浜さん、私──」
言いかけた時だった。なんの前触れもなく、ドアが開く。向こう側には、最近部室では見かけなくなっていた比企谷君の姿があった。
わずかに、息を呑む。比企谷君の目には、これまで見たこともなかったような光が灯っているように見えた。
堂々と、比企谷君は私に問いかけてくる。
「雪ノ下、自分が生徒会長になるって決断は、まだ翻す気はないか?」
「……え? ゆきのんが生徒会長になるの?」
「……まだ言ってなかったのか」
由比ヶ浜さんの驚いたような声に、比企谷君が驚く。
そうだ。言うことを先延ばしにし続けて、結局ここまで来てしまった。
「ええ。相談しようとは思っていたのだけれど」
自分でも詭弁だと分かっているので、声が小さくなる。由比ヶ浜さんの視線が厳しいものになる。
「でも……そしたら部活は……?」
「私は辞めるわ」
「嘘……」
信じられない、という顔で、由比ヶ浜さんは呟く。
私は罪悪感を覚えるが、しかし今は言わなくてはならないことがある。
「由比ヶ浜さん、これは私個人の決断で、後悔なんて一つもないの。適任者が他に見つからない以上、私が生徒会長になるのが一番丸く収まる解決策だと思う。だから、由比ヶ浜さんがいちいち気に病んだりする必要はないわ」
だから、由比ヶ浜さんが生徒会長になろうとする必要なんてない。そう言いかけて、言葉を飲み込む。
私たちの顔を厳しい目で見ていた比企谷君は、確認するように私に問いかけてくる。
「それが、雪ノ下の意思なのか」
「……ええ。誰に言われるわけでもなく、私が決めたの。だから、比企谷君たちは何もしなくていい」
下を向きそうになる視線をなんとか比企谷君に合わせて、ハッキリと言う。
「雪ノ下……」
「──もう、いいでしょう。私は食べ終わったから、教室に戻るわ」
何事か言おうとした比企谷君を押しとどめるように大声で宣言すると、私は弁当をテキパキと片づけて、部室の外へと向かう。
「鍵は開けっ放しで構わないから」
振り返らずに言い放つと、私は後ろを振り向かずに、教室への道をトボトボと歩く。
◇
「由比ヶ浜」
一人の少女のいなくなった教室で、二人は会話を交わしていた。
「うん」
「雪ノ下の言うこと、全部本心だと思うか?」
「ううん。でも、ゆきのんはたぶんそれを認めないと思う」
「由比ヶ浜」
「なに?」
「俺を、助けてくれないか」
次回、最終回 12日投稿