由比ヶ浜は、俺の頼みに、何も言わずに静かに頷いてくれた。
だから俺は、自信をもって雪ノ下を止めるために動くことができた。
「ゆきのんは、きっとヒッキーの素直な言葉を必要としているよ」
その言葉を信じた俺は、まずあいつが素直に話を聞く状況を作ることにした。
既に、Twitterで集めている、一色が生徒会長になることへの賛同者のリストは四百を超えている。インチキによって作られた、砂上の楼閣とも言えるリストだったが、一色との交渉材料としては十分だ。
満を持して、俺は図書室に呼びつけた一色と、話を始めた。
「ああ、お前に整理してもらってるこれはな、お前の生徒会選挙の賛同者なんだよ」
思わぬ言葉に、一色が息を呑む。
畳みかけるなら、今。
「──なあ一色、お前、悔しくないのか? 雪ノ下に惨めに選挙で負けて、お前は校内の笑い者だぞ」
なんでもないようなフリをしていたが、一色の手は強く握りしめられていた。
そうだ。自分を可愛く装うことに余念のないお前が、プライドのない人間なわけがない。馬鹿にされて、黙っていることに納得したわけがない。
「でも、お前が選挙に勝って生徒会長になったらどうだ。一年生で生徒会長になった、立派な生徒という肩書き。さらに、お前はもう一つの特権を得ることができる」
「なんですか?」
「『一年生で生徒会長になって部活にも出ている健気で大変な私』という肩書きを得たお前は、大義名分の下に葉山を頼ることができる。好きなんだろ? 葉山のことが。自分のことを気にかけて欲しいんだろ? なら、これは好機だ。お前は堂々と葉山を頼る口実が出来たことを喜ぶべきだ」
俺の言葉を聞いていた一色は、やがてポツリと呟いた。
「先輩、もしかして頭いいんですか?」
「まあな」
「……でも性格は悪いですね」
「おい」
「いいですよ。先輩に乗せられてあげます」
俺の言葉に被せるように、一色は呟く。下を向いていた顔がこちらに向く。
その表情は、驚くほどに底意地の悪そうな笑みで。不思議と、そんな顔の方が魅力的だと思えてしまった。
◇
夕焼けの眩しい部室で、私は一人本を読んでいた。
比企谷君が部室に来ないのはここ最近ずっとそうだったので意外でもなんでもないが、ついには由比ヶ浜さんまで部室に来なくなってしまった。
……やはり、私が勝手に部活を辞めるなどと言ってしまったこと、怒っているのだろうか。想像に、自己嫌悪が湧き上げる。
でも、好都合だったかもしれない。優しい彼女は、部活を辞めても私を気遣おうとするかもしれない。それではダメなんだ。
私は完全に奉仕部との繋がりを断たなければ。そうしなければ、未練がましい私はまたこの部屋に戻ってきてしまうかもしれないから。
普段とは違いもの悲しさを感じる静けさに包まれた部室で、私は本を広げていた。中身なんて少しも頭に入ってこなくて、ただ文字の羅列の上を、目が滑っていく。
そんな虚しい時間は、唐突に終わりを迎えた。
「やっぱり、ここにいたか」
聞きなれた低い声。
いつの間にか扉は開かれていて、その先には比企谷君と由比ヶ浜さんがいた。二人一緒に部室に来るなんて、珍しい。
そう思って様子を窺っていると、どうにも二人とも奇妙な緊張感に包まれていた。
「……どうかしたの?」
やや気まずさを感じながら、私は声をかける。彼らと最後に話した時のことを思い出す。そういえば、突き放すようなことを言ってしまったっけ。
「生徒会選挙についての話をしにきた」
単刀直入に、比企谷君は言った。その後ろで、由比ヶ浜さんが小さく頷いている。奇妙な構図に、私は違和感を覚えた。
「前も言ったように、その件は私が生徒会長になることで全部解決するって……」
「いいや。その必要はもうなくなった」
そう言って、比企谷君は紙束を机の上に叩きつけた。
恐る恐る、私はその中身を確認する。人の名前らしきものが記載されたリスト。
……これは、まさか。
「それは、一色いろはの生徒会長推薦人のリストだ。全部でだいたい四百人分ある」
「それ、は……」
どうして。どうして比企谷君が、一色さんの生徒会長就任のために動いている。
私は確かに、比企谷君に何もしなくていいと言ったはずなのに。
「一色は、これを見て生徒会長になる決意を固めてくれた。だから、お前が生徒会長になる理由なんてもうなくなったんだよ」
「……ゆきのんが部活を辞める理由なんて、もうないんだよ」
比企谷君の言葉を肯定するように、由比ヶ浜さんが言う。
比企谷君がそう言うのは、ある意味で原作通りだ。でも、由比ヶ浜さんがどうして……?
考えても分からない。彼らが何を思ってこうしたのか、分からない。
「どうして、比企谷君も由比ヶ浜さんも、私の言葉を無視するの!? 私は自分がなりたいから生徒会長になりたいんだってハッキリと……」
「ゆきのん」
胸を突く想いのままに吐き出した言葉は、自分でも驚くほどに激情を含んでいた、けれどそれは、由比ヶ浜さんの穏やかな声にピタリと止められる。
「あの時みたいに、本音で話してよ」
「本音って……私はいつだって本当のことを!」
「違うな」
比企谷君の声もまた、いつも以上に落ち着いていた。私の動揺とは対照的に落ち着き払った二人の態度に、私の苛立ちが増していく。
「お前は生徒会選挙の件が依頼されてから。いいや。きっとあの修学旅行の夜から、全然本音で話していない」
「そんなこと、比企谷君に分かる訳が!」
「──分かるに決まってんだろ! お前の本音と虚勢の違いなんて、分かりやすすぎるくらいだ! ……どれだけ、見てきたと思ってんだ」
「ッ!」
息が、詰まった。
「ゆきのん」
声を荒らげた比企谷君とは対照的に、由比ヶ浜さんの声は静かなままだった。
「ありのままをもっと見せて欲しい。その思いは、いつも変わっていないよ」
泣きたくなるほどに優しい声だった。
「私、は……」
声に詰まる。急にそんなことを言われても、何を言っていいのか分からなかった。
「雪ノ下」
再びの、比企谷君からの呼びかけ。私は俯いていた顔を上げ、彼の顔を見る。
「多分、お前も俺と似たところがある。いつだってやることなすことに言い訳つけてて、自分の本心ってやつに向き合わなかった。逃げ道を常に探していている。……でも、お前の逃げ道は俺たちが塞いだ。そのための署名集めで、そのために俺は色んな人に頼った。その上で、俺はお前に問いたい。──本当にお前は、生徒会長になりたいと思っているのか?」
「……違う」
「じゃあなんで……」
「違う違う違う!
不思議と目頭が熱くなってくる。
口にしてしまえば、不思議と自分の本心が胸にスッと入ってくる想いだった。
自分の嫉妬が苦しいから、比企谷君から離れたい。それも十分にある。
けれど、それだけじゃなかった。この感情がこのまま重たくなり続ければ、やがて由比ヶ浜さんすら敵視してしまうかもしれない。
無意識にそれを恐れたボクは、二人から距離を取ろうとした。
「それはいったい……」
「待ってヒッキー」
なおも追求しようとする比企谷君を押しとどめたのは、落ち着いた様子の由比ヶ浜さんだった。
「お姉さんに言われたこと?」
核心を突かれたボクは、ただゆっくりと頷くことしかできなかった。怖くて、由比ヶ浜さんの顔は見れなかった。
『雪乃ちゃん、ちょっと見ないうちに女の子の顔するようになったね』
フラッシュバックする、姉さんの言葉。図星だったし、何よりも人にも見抜かれるほどに自分の感情が大きくなっていることが、たまらなく恐ろしかった。
「そっか。でもね、ゆきのん、それは私も同じなの」
「由比ヶ浜さん、も?」
「私だって、同じような感情に揺さぶられれて、翻弄されてるの。ゆきのんにそんな暗い感情を向けてしまって、それがたまらなく怖いことだってある。──でもさ、それでもいいと思うんだよ。だって、私たちは女の子なんだから」
「違う……」
「え?」
「ボクは、私は、ちゃんとした女の子じゃない! 生まれた時からずっと、目覚めた時からずっと! 偽物のまんま! 半端者のまま! だから苦しい! この胸にこんな感情があることが! こんな想いを持ってしまったことが!」
「ゆきのん……」
嗚咽交じりに、ボクは全てをさらけ出したしまった。いつの間にか、涙が溢れ出してきていた。
ああ、由比ヶ浜さんが困ってしまった。言うつもりじゃなかったのに。一生胸の中に隠しているつもりだったのに。
何を言っているのか分からなかっただろう。ボクが何を思っているのか、分からなかっただろう。後悔で胸が苦しい。握りしめた手が痛い。
でも、そんなボクにも、比企谷君は言葉をかけた。
「雪ノ下。お前が何を言っているのか、全部理解できたなんて絶対に言えないけどな。でも、これだけは聞かせてくれ。……お前は、どうしたい? どう、なりたい」
「ボク、は……」
頭をよぎる、今までの思い出。比企谷君と初めて会った時のこと。由比ヶ浜さんと初めて会った時のこと。一緒にキャンプをしたこと。文化祭を成功させるために頑張ったこと。修学旅行で京都を見回ったこと。この部屋で、なんでもないような時間を一緒に過ごしたこと。
全部全部キラキラした思い出で、目を逸らしたくなってしまいそうなほど、本物だった。
そしてボクは、そんな現実離れしたキラキラしたものに、たまらなく憧れていた。
だから。
「ボクは、本物になりたい」
視界はいつの間にか涙でいっぱいで、声は掠れていて、それでもその言葉は、ボクの正直な、ありのままの気持ちだった。
その言葉を吐きだすのと同時に、他にも色々なものを吐き出せたような気がする。修学旅行の夜からずっと続いていた気がする憂鬱な気持ちが、ようやく晴れたような気がする。
いつの間にか、湧き上がってきた涙が頬を伝った。視界はぼやけていたが、二人が満足そうな顔をしているのはよくわかった。
優しい顔を見たら、なんだかもう一度泣けてきた。いつの間にか立ち上がっていたボクはゆっくりと椅子に座り直すと、手で顔を覆い、もう一度涙を流し始めた。
「……はあ。……比企谷君、女の子の泣き顔じろじろ見るの止めてくれない?」
「わ、悪い……」
なんだか見つめられているのが気恥ずかしくて、ボクは文句を言った。
ようやく落ち着いてきたボクは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。まだ少し目が痛い。夕焼けがやけに眩しかった。
「今日はもう遅いし、帰りましょうか」
「うん! また明日、だね!」
「だな」
言葉には、最近なかった温かさがあった。
……しかし、帰る前に確認しなければならないことがある。
「比企谷君、ボクと由比ヶ浜さんの会話、聞いてたよね」
「当たり前だ」
「ボクたちの話していた感情が何なのか、分かった?」
「い、いやさっぱりだな。そもそも人の感情なんてものは当人にすら分からないものであって、ましてや他人の感情のことなんて分かるはずも──」
「ふーん。まあいいけどね」
ボクの言葉を聞くと、比企谷君は安心したように胸を撫でおろした。……この様子。
ボクはスッと比企谷君に近づくと、耳元に口を近づけて、息を吹きかけるように言った。
「本当は分かっているくせに」
「ッ!」
「アハハハハ!」
慌てて耳を抑える比企谷君の様子がおかしくて、ボクは高らかに笑った。
ボクもかなり恥ずかしかったので、彼から距離を取ってから言葉を紡ぐ。
「──二人とも、ありがとうね。こんな面倒くさいボクを見捨てずにいてくれて」
「面倒くさい人との付き合いはヒッキーからいっぱい学んだからね! 任せてよ!」
「なんだ、俺が罵倒される流れだったか今の」
比企谷君もまたボクと同じような面倒くさい人間だからこそ、こんな手を使ったのかもしれない。本音を語る前に逃げ道を全部塞いで、言い訳を奪って、それから話を始める。
全く、気恥ずかくなるほどによく分かっている。
「それから、ごめんなさい。修学旅行の時に比企谷君のやり方を否定したのは、多分単なるボクの八つ当たりだった。嘘の言葉で比企谷君を傷つけた。だから、ごめんなさい」
「いや何、お前の言ったことだって間違ってたわけじゃない。今更気にする必要なんてねえよ」
「うん、ありがとう。──最後に、こんなボクだけど、これからもよろしくね」
よろしくね、ボクの本物。
長々と読んでくださってありがとうございました
これにて完結です
少しこの後の番外編を書くかも?
活動報告更新すると思うので、興味あったら見てみてください