「比企谷君、デートをしましょう」
単刀直入に、雪ノ下雪乃は電話越しに規定事項を読み上げるように言い放った。
「は!?」
「以前行ったショッピングモールに12時に集合ね。一緒にご飯食べよ。場所は前と同じところで」
「いや、俺にも用事が……」
「え? ニチアサでしょ?」
なんで分かったんだよ。あいつ怖い。
「時間に余裕は作ったから、ちゃんと来てね。じゃ」
ぶつ、と切れる電話。あれ以来色々変わった雪ノ下だったが、傍若無人なところは変わらなかった。
しかし急にデートってなんだ。休日はろくに会ってなかったのに急にデートとか色々すっ飛ばしすぎじゃないか?
というか、俺とアイツは数日前までやや微妙な関係性だったわけだが、いきなり休日に電話かかって来て呼び出されるのは何かおかしくないか? いや別にアイツと一緒に出かけるのが嫌というわけではないのだが。しかし心の準備というものが俺にもあるのである。
「……とりあえず二度寝するか」
突然の事態に頭が追いつかなかった俺は、ひとまず脳を休ませるために睡眠を取ろうとした。
しかし、聖域であるはずの俺の部屋のドアが、突如として開けられる。
「お兄ちゃん! 何やってるの!?」
愛しの我が妹、小町だった。
日曜日の朝に惰眠を貪るという極めて人間的な行いをしようとしていた俺は、妹の突撃に抗議の声をあげる。
「なんだ、小町。俺はこれから二度寝をかますつもりだったんだが」
「いやいやいや、今日お出かけなんでしょ?」
「え、なんでお前が知ってるの」
怖い。気づかないうちに俺の私生活は完全に妹に掌握されてしまったのだろうか。
「雪乃さんからメールあったよ。お兄ちゃんが逃げ出さないように見張っておいてくれって」
「ええ……」
なんだあいつ、怖すぎだろ。俺を絶対に逃がさないという確固たる意思を感じる。
「しかし待ち合わせは12時だ。それまで何してようと俺の勝手だろ?」
「何言ってんの。小町のファッションチェックはまだ始まってすらいないよ?」
ドヤ顔で言う小町は、心底楽しそうだった。
ああ、これは長くなる。今日のニチアサは録画かな。
ようやく小町のファッションチェックに合格を果たした俺は、日曜日の活気あふれるショッピングモールに来ていた。
正直、この人混みの中で方向音痴のアイツと合流できるか心配だった。しかし、そんなものは杞憂だったと思い知らされた。
無秩序に行き交う人の視線が、ある一点でピタリと止まる。何か特異なものに目が止まってしまったような、そんな反応。そんな視線を辿れば、俺の探していた人物はすぐに見つかった。
「雪ノ下」
不安げにキョロキョロとあたりを見渡していた雪ノ下は、俺の顔を見ると小走りにこちらに近寄って来た。
「よかった。全然見つからないから、来てないのかと思ったよ」
砕けた口調で、雪ノ下は言った。
「……また迷ったのか」
「いや別に。ちょっと来るのが早かっただけだし。ボクだって一度来て学習してるし」
そう言ってそっぽを向く姿は、なんだかひどく幼い印象だ。
「今日はそっちのお前なのか」
今までは、部室の外では頑なに私口調だったのに。それはなんだか雪ノ下にとってひどく大事な変化なのだろう。そして、きっといい変化だ。
「うん。ボクはボク。まあでも、これは君と一緒だからだよ。じゃ、行こうか」
そう言ってくるりと後ろを向いた雪ノ下の長いスカートがふわりと翻った。
口調こそ砕けていたが、その後ろ姿から伺える雰囲気はまさしく深窓の令嬢といった様子だ。なんだか見た目から受ける印象と言葉から受ける印象がちぐはぐで、少し不思議な感じを受ける。
そんな後ろ姿を見て、俺にはどうしても伝えなければならない言葉があった。
「雪ノ下、そっちはトイレだ」
「うそ、また!?」
俺に方向を確認しながら雪ノ下が向かったのは、たくさんの人で賑わうフードコートだった。
スペース内に所狭しと並べられたテーブルは、すでに9割ほど埋まっているように見受けられた。家族連れや学生のグループの集うここは、ひどく騒がしい。
雪ノ下は上階に存在する小奇麗なレストランの方が好みだったかもな、などと考えていると、店舗をぐるりと見渡していた雪ノ下がくるりとこちらを向いた。
「比企谷君、ラーメン! ラーメンがあるよ!」
「は? そんなもんでいいの?」
「いいの! 比企谷君と食べるラーメンだから価値があるの! いいから並ぼ?」
何やら興奮気味な様子の雪ノ下は、俺の服の裾を握ってグイグイと引っ張って来た。
あの……服が伸びるんですけど……。
雪ノ下の指さしたラーメン店の様子を見る。繁盛しているらしく、それなりの人数がカウンターの前で待っていた。
「待て雪ノ下。お前先に席取っておいてくれ。俺が受け取ってくる。何食う?」
俺が注文を聞くと、雪ノ下はなぜか嬉しそうに笑った。
「もしかしてボクが人混みで疲れないように気遣ってくれた?」
「……」
そういう意図がないといえば、噓になる。
「……ああ、小町と出かける時に躾けられたんだ。男が注文取ってこいってな」
「ふーん。デ……トの時に他の女の子の名前を出すのは減点だけど、気遣いは有難く受け取っておくね。ありがとう」
デ……トとは……。その単語を言うのが恥ずかしいなら最初から言わなきゃいいのに。というか電話では堂々と言っていたような……。
礼を言った雪ノ下は、スタスタと空いている席の方へと向かっていった。
湯気の立つどんぶりがテーブルの上に二つ。安めのラーメンを前にした雪ノ下は、割り箸を手に、丁寧に「いただきます」と言った。
俺も合わせて「いただきます」と言うと麺を掬い上げ、一啜りした。
雪ノ下の様子を窺うと、意外なことに音を立てて麵を啜っていた。
「ラーメンも啜れない世間知らずだとでも思った?」
俺の視線に気づいたらしい雪ノ下が、なにやら得意げな顔で言ってくる。
……いや、それくらいでドヤ顔されても。
しかし雪ノ下の珍しい顔を見れた俺は、何か得をしたような気分になった。
いいとこのお嬢様みたいな雰囲気だった雪ノ下と、こうして一緒に安いラーメンを食べている。なんとなくだが、今までのどこか壁のあった雪ノ下とは、こんなことできなかっただろうな、と思った。
腹ごしらえを終えた雪ノ下は、なぜか男物の洋服を販売する店舗の並ぶエリアまで来ていた。
「なんでこんなところに?」
「いや、せっかくだし比企谷君の服を見繕ってあげようかなとか思ったり。あとボクも用がある」
「へえ」
なんだか意外だ、と率直に思った。雪ノ下といえばいつも清純なお嬢様然とした恰好をしている印象だった。現に今日だってそうだ。
店内を彷徨い、艶々とした黒一色のジャケットを体に合わせる雪ノ下の顔は真剣だ。しかしその華奢な体には、男物の上着は少し大きく見える。
自分に合わせると、今度は俺の体に突き出してくる。
「ふんふん。比企谷君が黒を着ると暗すぎるか。本人が暗いし」
「ほっとけ」
売り場のハンガーにジャケットを戻す雪ノ下。その後も手に取るのは男っぽいものばかりだ。
「なんだ、イメチェンでもしようとしてるのか」
雪ノ下の今まで見せてきたファッションとは志向が違う気がする。ほっそりとした指で厚い生地のブルゾンを弄ったままで、雪ノ下は答えた。
「うーん、まあイメチェンというか、今までのボクからの脱却というか。こういう服、今まで……今の人生で、買ったことなかったから」
何やら少し深刻そうな表情をした雪ノ下。その顔を見ていると、言葉が自然と出てきた。
「なんだ、変わりたいっていうのは分かったが、別に無理する必要ないんじゃないか? 好きでもない服着たってそれは変わったとは言えないと思うぞ」
焦ってないか、と言外に問いかけるが、雪ノ下は意外と落ち着いた様子で答えた。
「いや、ボクはこういうのが好きだった……気がする」
「気がするって……」
他人事のように、雪ノ下は言った。
「まあでも『あるべき私』だってもうボクの一部だし、今までの趣味嗜好を全部捨てたいってわけじゃないんだ」
今までの趣味嗜好、と言いながら、雪ノ下はなぜかこちらを見た。
「でも、ボクが本物であるためには、自分の好きなものとか欲求がどんな風になっているのか、もう一度見つめ直す必要があると思ったんだ」
雪ノ下は、大事そうに「本物」という言葉を使った。
彼女がどんな意味でその言葉を使ってるのか、ハッキリとは分からない。けれど、不思議とその響きは俺の胸にストンと落ちて、納得させられてしまった。
「それで、ファッションか」
「うん。……よし、これにしよ。あ、比企谷君にはあれなんか似合うんじゃないかな」
「……俺の分まで選ぶのか?」
その後、雪ノ下指導のもと、俺の分の服を買う。高めのアウターを似合う似合うと言われて買わされた俺は、紙袋片手に店を出た。雪ノ下も同じように片手に紙袋を持っている。
「今度着てるとこみせてね」
「機会があればな」
「何その機会を作る気のない返事。──絶対に見せてもらうから」
「お、おう」
なんだその気迫は。雪ノ下の用は先ほどの店で済んだらしい。あてもなく歩きながら、彼女は俺に尋ねてくる。
「比企谷君は何か見たいものとかある?」
「今日録画してきたプリキュアだな」
「ぶれないね……」
歩きながら、なんでもないような会話を雪ノ下と交わす。そんな当たり前のことが、ひどく久しぶりな気がした。
思えば、あの修学旅行の夜から、雪ノ下とこんな風に会話をすることがなかった。口を開いてもどこかよそよそしい言葉を交わすだけ。
そんな状態を打破して、こうしてまた関係を築くことができるなら、俺も恥を忍んで人を頼ったかいがあったというものだ。気恥ずかしいので言葉には出せないが、俺はそんな風に思った。
「なあ、雪ノ下」
「ん?」
「お前は、本物になりたいんだよな」
「……うん」
やや気恥ずかしそうに、雪ノ下は頷く。彼女のそんな様子も当然だ。理想や夢なんてものは、素面で語るには恥ずかし過ぎるものだ。
だから俺も、恥ずかしさを堪えて言葉を紡ぐ。
「お前の言う本物ってやつがどんなものなのか、俺には分からない。きっと由比ヶ浜だって分からなかったと思う」
突き放したような物言いになってしまったが、雪ノ下の顔に動揺はなかった。きっと彼女も分かっているのだろう。言葉で全部伝わるなんて傲慢であること。相手の考えが完全に分かる、分かり合えることなんて有り得ないこと。
「でも、その二文字にお前の色んな感情が、理想が、生き方が詰まっているのは分かった。だから、俺にもお前の本物を見せて欲しい。──そして、共有させてほしい」
出てきたのはあやふやで傲慢な言葉で、きっと言いたかったことが全部伝わったわけじゃない。でも、雪ノ下は全部分かったように静かに頷いた。その頬は、少し赤らんでいるように見えた。
黄昏の教室で彼女が透明な涙を流した日。彼女が本物と口にしたとき。
俺も、それが欲しくなった。
彼女の言う本物と、俺の焦がれる本物はきっと違う。俺たちは似ているようで全く違う人間で、同じ言語を話していても考えていることを全部伝えられるわけじゃない。だから、二人の本物が重なり合う日はきっと永遠に来ない。
でも俺は、彼女と俺の本物が同じだったらいいと、そう思ってしまった。