いくつかの依頼を受けているうちに、気づけば春は過ぎ去り、窓から初夏の匂いが流れてくるようになっていた。
わずかな暑さの籠る奉仕部の部室には、珍しいことに部外者が二人もいた。
そのうちの一人、葉山君の話を頭の中で纏めながら、言葉を紡ぐ。
「なるほど。つまりそのチェーンメールをなんとかしたいということね」
「そうなんだ、クラスで出回ってて……なんとかならないかな?」
状況は、私の知っている通りの物だった。葉山君といつも一緒にいる三人を悪く言うチェーンメールが、クラスに出回ってる。不愉快だし、クラスの雰囲気も悪くなっているから、どうにか解決できないか。そんな相談が奉仕部に寄せられたのだ。
葉山くんが曖昧な笑みを浮かべながら、私に尋ねてくる。彼がこうやって私に話しかけてくるのは極めて珍しいことだ。どうやらよほど困っているらしい。
微笑を浮かべている昔馴染みの方に目を向ける。目が合うと、彼はほんのわずかに目線をそらした。誰にも愛想よく接する彼らしからぬ態度。
……未だに私を助けられなかった自分を恥じて、私に助けを乞うことに負い目でも感じているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
彼が小学生の私を助けられなかったのだとしても、それはしょうがないことだった。自ら不幸にならんとしている人間なんて助けようがない。
葉山隼人はすでにたくさんの素晴らしい人間と関わっているはずなのに、どうして未だに私なぞ気にするのだろうか。
……いけない。思考がそれている。罪悪感を覚えている人間を見て自分が罪悪感を覚えるなんて、どうかしている。気を取り直して、目線をあげる。
「チェーンメールの解決策なんて1つしかないじゃない。犯人を特定して吊し上げる。それ以外に何があるの?」
葉山君の目を見て、告げる。彼の顔がわずかに陰った。
実際、かつてのいじめの類は全部そうだった。まだ私が小学生だったころ。すまし顔で孤高を貫く私に、周りの人間は反感を覚えたのだろう。陰口を叩かれる、上履きは隠される、教科書は破かれると散々な目にあった。あの時は、子どもの無邪気な残酷さが私に容赦なく降りかかっていた。
そしてそれらは、葉山君が介入しようと教師に訴えようと、止まることはなかった。結局のところそれらの解決方法は一つ。根本から絶つしかないのだ。
葉山君が曖昧な笑みで口を開く。
「……もっと穏便な解決方法はないかな?」
「私、あなたは過去から何も学ばない鳥頭ではなかったと記憶しているのだけれど、勘違いだったかしら?」
思っていたより強い言葉が出ると、葉山君の顔から表情が消えた。それを見て、少しの後悔に襲われる。彼はなにも言い返してはこなかった。
「……では犯人を暴いて、その後どうするのかはあなたの裁量に任せる。それで構わない?」
「ああ。助かるよ」
とはいえあの頃とは、私が小学生だったころとは、状況も役者も違う。
彼なら、比企谷八幡なら、気づくだろう。
この物語の主人公は、みんなの期待に応えようとする正統派ヒーローではなく、斜め上の方法で問題を解消してしまうダークヒーローなのだから。
「原因……チェーンメールの原因か……。あ、あれじゃない?職場体験のグループ決め」
由比ヶ浜さんの元気な声が聞こえた。私が彼の活躍について思い出そうとしている間に、話はどんどんと進んでいた。
グループ分け。それは、高校生にとっては案外重要なイベントだ。誰と仲が良くて、誰と仲が良くないのか。そんな曖昧なものが、ハッキリとした形になって現れてしまう。
だから思春期の少年少女は、誰と職場見学に行くのかについて病的なまでに気にする。特に、必要なグループの人数と普段交流しているグループの人数が一致しない場合、そこに諍いが発生することすらある。
「ああなるほど、グループ分けで誰かがハブになるって話か?それでわざわざこんなことしたのか……」
「そうか、それであんなことに……いったい誰がそんなことを……」
葉山君が顎に手を当てて考え出した。
「ハッ、そんなのお前のグループの誰かに決まってるだろ」
比企谷君が、口元を歪めて笑った。葉山君を嗤うように。それを見た葉山君の表情が固くなる。口を開いた葉山君の語気には、鋭さがあった。
「そんなはずはない!あいつらはみんないいやつだ!だいたい、メールには全員の悪口が書いてあって……」
「そんなの、自分に疑いが向かないために決まってるだろ。どんだけめでたい頭してんだよ」
比企谷君のきつい言葉に、葉山君の視線が一層鋭くなる。比企谷君の濁った瞳と、葉山君の刺すような瞳が交錯する。由比ヶ浜さんがその様子を見てあわあわとしていた。
張り詰めた空気が部室を支配した。突如訪れた沈黙には、いつもの奉仕部のような心地よさはない。
それを吹き飛ばすように、私は大きく咳ばらいをした。
「ンンッ……とにかく、犯人を捜すのなら、同じクラスの二人が適任だと思う。由比ヶ浜さん、お願いできる?」
私の言葉を受けた由比ヶ浜さんの顔が、パッと明るくなった。
「ゆきのんが私にお願いを……うん、任せて!友達を疑うのは少し気が引けるけど、私もチェーンメールには嫌な思いしてたからね。解決してみせる!」
「他人事みたいな顔をしている比企谷君も、よろしくね」
「……雪ノ下、適材適所という言葉に聞き覚えはないか?」
どんよりとした瞳で問いかけてくる比企谷君。その顔にはありありと、めんどくさい、と書かれていた。
だから私は、笑顔で言葉を返した。
「比企谷君みたいな人に適所なんてないでしょ?居場所がないのだから」
「図星だが、お前に笑いながら言われるのはムカつくな!」
「あら、ごめんなさい。真実は時に人を傷つけるって本当だったのね」
比企谷君は顔をひくひくと引きつらせながら、閉口した。きっと何を言っても無駄だと悟ってくれたのだろう。
「ゆきのん、私には何かないの!?」
「由比ヶ浜さんは……そうね、依頼内容を忘れないでね」
「……私、馬鹿にされている?」
「馬鹿にはしてないわ。ちょっと頭が残念だとは思っているけれど」
「うわあああ!ゆきのんひどい!」
私に言葉を受けた由比ヶ浜さんは、突然抱き着いてきた。あまりにも急なことに対応できなかった私は、されるがままに抱擁を受ける。
「暑い……」
や、柔らかい……!自分の胸のあたりに、何か温かくて柔らかいものが押し付けられている。ああ、これが由比ヶ浜さんの胸……!大きい……!前世の自分が夢見て、恋焦がれた男のロマンが、そこにはあった。
巨乳を押し付けられて、その感覚を堪能する。突如叶えられた前世の夢に、私の鼓動は早鐘を打ち始めた。顔のあたりに熱が籠る。暑いなんてものじゃなかった。まさか……これが恋……?
この体に生を受けて十年ほど経つが、今ほど雪ノ下雪乃になれてよかったと思ったことはなかった。
私が衝撃を受けていた頃、その様子を見ていた葉山君が、こっそりと比企谷君に話しかけていた。
「仲、いいんだな」
「は?……ああ、あいつらはな」
「君もだよ」
葉山君のひそひそ声は、私の耳に辛うじて届いていた。
……彼の言う通り、私は比企谷君と仲良くなれているのだろうか。由比ヶ浜さんの腕の中で、私は少し考えてしまった。
数日後、部室には奉仕部の三人と葉山君が集っていた。由比ヶ浜さんの報告を聞いていたが、やはりめぼしい成果はなかったようだ。続いて、比企谷君に話を聞く。
「犯人は分からなかった。しかし、分かったことがあるぞ」
比企谷君が得意げにニヤリと笑う。いつも卑屈に曲げられている唇は弧を描き、目の淀みが心なしか消えている。普段の態度とはかけ離れた表情。
……不意打ちでそんな顔を見せるのはやめてほしい。私の胸が跳ね上がったではないか。
「あの葉山たち四人のグループは、全員が友達じゃないんだよ。葉山と他三人は友達で、それ以外はみんな友達の友達。そんないびつなグループなんだよ」
「……それが分かっても、犯行動機の補強にしかならないじゃない。原因を消さないと、問題は解決しない」
「いいや、消すのはもっと別のものだ。葉山、聞きたいか?」
比企谷君の薄い笑みに、葉山君は恐る恐る頷いた。
かくして、物語は私の知るように進む。葉山隼人以下三人のグループを、四人のグループに。
問題となっていた職場見学のグループを、葉山君以外の三人で組ませる。そうすることで、葉山君たちのグループに存在するわだかまりを解消する。
その結果葉山君が一人になってしまうが、まあ彼なら大丈夫だろう。
ダークヒーローは、彼だからこそ思いついた方法で問題を解消してみせた。物語は正しく進んだ。
後日、奉仕部の部室で比企谷君と二人きりになった時のことだ。
「それで、葉山君のグループはあなたの言ったように上手くいきそう?」
「そんなのあいつら次第だろ。俺には分かんねえよ」
比企谷君は気だるげに言うと、手元にあるマックスコーヒーを啜った。……本当にマックスコーヒー飲んでる。なんだか感動だ。私も飲んでみた事があるが、あまりの甘さに缶の半分くらいでリタイアしてしまった。
それに合わせるように、私も缶コーヒーを飲んだ。こちらはブラック。安っぽい苦みが、口の中に広がる。
「……コーヒー飲んでるなんて珍しいな。いつも紅茶だったよな」
「ええ、確かにそうね。……少し、嫌なことを思い出したものだから」
へえ、と興味なさげに相槌を打った比企谷君が、またマックスコーヒーを飲む。
職場体験という言葉を聞いて、思い出したのだ。比企谷八幡と、由比ヶ浜結衣の決別。比企谷君の拒絶と、由比ヶ浜さんの涙。あのイベントは確か職場見学の後に起こるはずだ。
……何か、比企谷君に言うべきだろうか。数日前から堂々巡りを繰り返す思考は、やはり同じ結論へと至る。あの決別は、彼らが経験するべき山場だ。だから、私が変に口出しをするべきではない。
けれど、思ってしまうのだ。私はこれから、結果を知りながら、彼が傷つくと知りながら、彼の選択を傍観するのだろうか。分かっている。彼の苦悩も間違いも、物語を完成させるうえで必要なファクターなのだ。
それでも、私は自分に問いかける。すべて知りながら傍観するお前は、神にでもなった気か?と。
ふと顔を上げると、比企谷君がぼんやりと校庭を眺めていた。西日に照らされた校庭では、運動部がまだ元気に活動していた。
「……何をぼーっと見ているの?グラウンドの運動部を見ていても、突然着替え始めたりしないわよ?」
「ちげえよ。……というか、テニスのとき着替え見られたの未だに気にしてるのな」
「あっ当たり前でしょう!そもそも警察に通報していないことを感謝すべきじゃないかしら!?なんなら、今からでも変質者として突き出してあげてもいいのだけれど!」
あればっかりは計算外だった。当時の、テニスの試合をした後のことを思い出す。
テニス勝負が終わった後、私は由比ヶ浜さんと取り替えた服を元に戻すために、校舎の影で着替えをしていた。
比企谷君がラッキースケベを決めることを知っていた私は、由比ヶ浜さんの提案を拒否したのだ。しかし、由比ヶ浜さんに意外に強い体で引っ張られていき、外での着替えを余儀なくされた。
それでも、私という異物が入った以上あの奇跡が起こらないのではないか、と少し期待したのだ。
だってそうだろう。ラッキースケベというやつはヒロインがされるもので、偽物である私は対象外なのではないか、などと少し考えてしまったのだ。その結果が、これだ。
「はいゆきのん、スカート」
「ありがとう。……由比ヶ浜さん、少し急いでくれないかしら。誰か来るかもしれない」
「大丈夫だって、こんなところ誰も」
「ゆきのし、……あっ」
ちょうど上も下も中途半端に着た辺りで、比企谷君は突如現れた。彼の視線が、私の肢体に突き刺さる。
──見られた。下着も、肌も。そう思った瞬間、私の顔は羞恥に真っ赤になって、動揺のあまりとんでもないことを口走ってしまった。
「──なっ……なんでボクまで!?」
「「……ボク?」」
「ッ!うるさいっ、死ね!」
私の放り投げたラケットは、的確に比企谷君の額を撃ち抜いた。倒れる彼は、最後に満足げな笑みを浮かべていた。
……思い出したらムカついてきたな。
「今、通報した方がいいかしら?」
睨みを利かすと、比企谷君は「やべ、用事思い出した」などと言いながら、素早く部室を出ていってしまった。……この借りは、いつか返そう。