雪ノ下雪乃は偽物である   作:恥谷きゆう

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いつでも私はあの瞳が怖い

 ペットを連れていた由比ヶ浜さんとの偶然の邂逅を果たした後も、私たちは買い物を続けていた。ちょうど由比ヶ浜さんを部室に呼び出すこともできたし、後は気持ちを籠めた贈り物を渡すだけだ。

 

 

 

 

 君の宝石のような瞳を見つめていると、私はいつも吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。こちらを見上げてくる小さな黒は澄み渡っていて、ともすれば鏡のようだ。

 純粋な気持ちを持って鏡面を見つめれば、凪の湖面の如きそれは、こちらをじっと見つめてくれる。

 かと思えば、突然こちらに背を向け、その美しいかんばせを隠してしまうこともある。

 その気まぐれな様子は、まさしく我こそが地上の王者であると言わんばかりだ。

 嗚呼、君のその瞳は、まさしくあらゆる財宝を超越する至上の輝きを持つ宝石の如く!その芸術性の前に、人は皆首を垂れて──

 

「……にゃあ……にゃあ」

「──のした!おい、雪ノ下!買い物は終わったぞ!」

 

 その無粋な声に、私は至上の芸術に浸る至福の夢からの覚醒を遂げる。

 現実への回帰を果たした私が最初に感じたのは、猛烈な羞恥心だった。

 

「……っ!いるのならいると言ってちょうだい!比企谷君の存在感のなさには全く呆れたものね!」

「何回も名前呼んだだろうが!それなのにお前がいつまでも猫ににゃあにゃあ囁いていたんだろ!?」

「言いがかりはよしてちょうだい。いったいどこの世界に、ショッピングモールの往来のど真ん中で猫に向かってにゃあにゃあ囁き続ける女子高生がいるっていうの」

「まさしくお前だよ!」

「虚言癖もそこまで行きつくともはや特技ね。あなた、詐欺師なんか向いてるんじゃないの?」

「お前の方がよっぽど向いてるわ!」

「……まあいいわ。特別に今回のことは不問にしておきましょう。買い物は済んだのだし、帰りましょう」

 

 赤くなった顔をこれ以上見られないように素早く翻り、歩き出す。……我ながら無理のある切り抜け方だった気がする。

 

 ショッピングモールを、出口の方へと真っすぐに向かう。奇跡的に、今回は迷わなかった。

 少し遅れて比企谷君も付いてくる。その瞳は、心なしかいつもよりも腐っていた。今頃、マジかこの女とか思っているのだろうか。

 

 しかし、順調に歩を進めていた私の体が、ピタリと動きを止めた。……猫を見た時と同じ反応だ。こういう時はだいたい、雪ノ下雪乃の体の好むようなものが近くにある。

 視界の先にあるゲームコーナーには、パンダのパンさんのぬいぐるみの入ったクレーンゲームが存在していた。

 ……ああ、このイベントか。猫を眺めているうちに忘れていた。

 

「……ゲームしたいのか?」

「いいえ、ゲームに興味はないの」

 

 言いつつも、視線はパンさんのぬいぐるみから動かない。くっ、動け、私の体!パンさんのぬいぐるみなら家に死ぬほどあるだろう……!

 

「あー、なんだ、あれ、やるか?」

 

 私の顔は、自然と縦に頷いていた。

 

 

 

 

 これでも、前世の頃にはクレーンゲームは何度かやったことがある。操作方法すらまともに分からなかった原作の雪ノ下雪乃とは違うのだ。

 私ならきっと、クレーンゲームの景品を取ってもらうなんてヒロインムーブをせずに、自分でぬいぐるみを華麗に取れる!

 ……そう、思っていた。

 

「なるほど、そういう重心なのね」

「あのパンさん、ちょっと重すぎじゃないかしら」

「あっ……今たしかに掴んだはずだったのに……」

「くっ……また……あのアーム部分、緩くしすぎじゃないかしら?」

「おい雪ノ下、もうやめた方が……」

「いいえ。次は取れる。もう一度」

 

 何枚目か分からない百円玉を投入すると、軽快な音楽と共にアームが動き出す。やがて、私の口から何度目か分からない溜息が漏れた。

 

「……お前、ゲーム下手くそだな」

「……そう言うなら、あなたはさぞ上手いのでしょうね」

 

 もう一枚百年玉を投入して再挑戦しようとしていると、後ろにいる比企谷君が話しかけてきた。気が立っていたので、ついぞんざいな返事をしてしまう。

 

「ああ、昔小町に散々景品を取ってくれとせがまれたからな。おかげで上手くなったんだ。小町が俺におねだりするのが」

「そっちが上手くなったのね……」

「まあ、ちょっとどいてろって。俺が確実に手に入れてやるから」

 

 比企谷君が私に語り掛けるので、その場から一歩下がった。比企谷君が私の前に立つ。ああ、これで比企谷君にぬいぐるみを取ってもらうのだっただろうか。……なんだか、悔しい。

 そう思っていたが、しかし比企谷君はスッと右手を上げてゲームセンターの係員を呼びつけた。

 

「あ、あのーすいません。これ欲しいんですけど」

「はい、こちらのパンダのパンさんでよろしいですね」

 

 係員は慣れた手つきでクレーンゲームを操ると、瞬く間にパンさんのぬいぐるみを取り出した。そして、比企谷君に爽やかな笑みで手渡した。

 

「ほら」

「……呆れた手口ね」

 

 比企谷君が私にぬいぐるみを差し出す。

 ああ、そうだ。比企谷八幡とは、こういう人間なのだ。頭が良くて、でも捻くれていて、最低な手段で人の悩みを解消してしまう。

 

 勘違いだったのだ。クレーンゲームを正々堂々攻略してぬいぐるみを取ってやる、なんてそんなヒーローらしいやり方、彼らしくない。回り道をして、抜け道を使って、ズルをして、比企谷君は私にこのぬいぐるみを差し出してくれた。それが、なんだかとても嬉しかった。

 

「……あなたが取ったものなのに、本当にもらっていいの?」

「当たり前だろ」

 

 比企谷君が、少しぬいぐるみを突き出してくる。目を合わせようとすると、わずかに逸らされた。

 そっと、ぬいぐるみを掴む。それと同時に胸中には温かい気持ちが溢れてきて、私

 は素直な感謝を口に出そうとした。

 

「……比企谷君、その、取ってくれて──」

「あれー、雪乃ちゃん?」

 

 聞きなれた、無粋な声に邪魔をされるまでは。

 

 

 声の主は、周囲にいた知人らしき人間に一声かけると、こちらに歩み寄ってきた。

 やがて、彼女の、雪ノ下陽乃の姿が明らかになる。

 

「あ、やっぱり雪乃ちゃんだ。久しぶりー。隣にいるのは?もしかして彼氏?あらー、雪乃ちゃんも隅に置けないなあ。うりうり」

「違うわ、ただの同級生よ」

 

 姉さんは一息に言うと、私のことを肘でつついてきた。鬱陶しい。

 

「そっちの子の名前は?」

「比企谷君よ、私の同級生」

「へえ、比企谷君……」

 

 姉さんが一瞬比企谷君に値踏みするような目を向ける。それは、普通の人間なら姉さんの美貌に見とれて見過ごしてしまうような、一瞬の間のことだった。

 しかし、比企谷君はその目を見て、わずかに目を細める。

 

「私、雪ノ下陽乃って言うんだー。よろしくね、比企谷君!」

「はあ、よろしくお願いします」

 

 美人に元気に話しかけられた比企谷君は、わずかにきょどりながら返事をした。そのまま、姉さんと比企谷君は取り留めのない話を始めてしまった。

 その様子を、私は黙って見つめる。自然と姉の挙動の一つ一つに目が行き、話している内容に聞き耳を立ててしまう。

 

 姉が誰かと話している所を眺める。そんな時、私はいつも恐怖に襲われる。それは、私が偽物であるということが突然暴露されてしまうのではないか、という根拠のない不安からだった。

 

 私が偽物であること。正確には、突然この、全くの他人の体で意識を取り戻したこと。それは、私にとって最も知られたくない秘密だ。

 だってそうだろう。それはつまり私はこの世界の人間ではないことの証左であり、私がこの世界に産まれた本物の雪ノ下雪乃をいないものとした決定的証拠であるのだから。

 

 そして、姉だけは、私のこの秘密を知っている、と私は考えている。小学生の頃、私がまだこの体に慣れていない頃、姉に決定的な一言を言われたのだ。

 

『──ちがう。雪乃ちゃんはそんなこと言わない』

 

 あの時ほど恐怖を感じたことはなかった。今ここにいる自分全てが否定されているような感覚。その恐怖は、今も私の中に残っている。

 そしてそれは、私が雪ノ下雪乃を演じる理由の一つだ。雪ノ下陽乃に、大切な妹が他人にすり替わっているという疑念をこれ以上抱かせないこと。それはこの物語をハッピーエンドに導くことと同じくらい大事なことだった。

 

「でも、雪乃ちゃんが同級生の男とお出かけなんて本当に珍しいからさ。ねえ、雪乃ちゃん?」

「ええ。でも、それだけで邪推されるような云われはないわ。比企谷君とはなんでもないと説明したじゃない」

「そんなこと言ってー。実は二人は行くとこまで行っちゃってんじゃないのー?」

 

 ああ、雪ノ下陽乃の、あの笑っているようで全く笑っていない目の奥のなんと恐ろしいことか。あの黒い瞳に晒されるだけで、私の醜さまで全部暴き立てられてしまうような錯覚を覚えてしまう。

 

「──じゃあ、雪乃ちゃん、比企谷君、またね!」

 

 嵐の如く、雪ノ下陽乃は去っていった。私と比企谷の間に、少しの沈黙が降りる。やがて、比企谷君がポツリと呟いた。

 

「お前の姉ちゃん、すげえな」

「そうね。容姿端麗で、人付き合いもそつなくこなす。さらに文武両道とくれば人はみんな姉さんを褒め……」

「いや、ちげえよ。まあそれもそうだが、俺が言っているのは、あの強化外骨格みたいなのだよ」

 

 ああ、やっぱり気づくのか。

 

「なんつうか。外向けの顔っつうか、そういうのが凄いって言いたかったんだよ。あんな完璧なの、初めて見た」

 

 人の悪意に揉まれて黒く濁ったその瞳は、姉の本性を見抜いてみせた。

 では、私のことは。ひょっとして、私が偽物であることすら、彼は気づいてしまうのではないだろうか。根拠のない不安は、急速に私の胸の中で発達していき、やがて問いとなった。

 

「……じゃあ、私は?」

 

 詳細不明の私の問いかけに、比企谷君は少し考えこむように黙り込んだ。ゲームコーナーの騒がしい音が、どこか遠くのもののように聞こえた。

 やがて、彼の口から答えが紡がれる。

 

「ああ、たまに姉みたいな時はあるな。強化外骨格ってほどじゃないけど、なんか体に薄い皮でも被って、その外皮に合うように行動しているように、たまに見える」

「……そう」

 

 やっぱりか。雪ノ下雪乃を演じる私は、本物ではない。だから、それは当然の言葉だった。しかし私は比企谷君の言葉に、少しの落胆を覚える。私は、どんな言葉を期待していたのだろうか。

 少し間を置いて、でも、と比企谷君が言葉を続けたのを聞き、少し顔を上げる。

 

「──でも、笑った顔は姉と全然違うな。雪ノ下のは、なんていうか、本物って感じがする」

 

 彼の言葉を聞いた瞬間、私の体には春の日差しを浴びているような温かさが充満した。本物。その言葉は、私の胸の奥深くに突き刺さった。

 自分はこの世界で目覚めた時から偽物である。そんな意識を持った()()が、初めて肯定されたような感覚。そんな錯覚に陥ってしまったのだろう。

 ああ、いけないな。そんなことされてしまったら、もうしばらく顔を直視できそうにないや。

 

 顔を見られないように、くるりと身を翻して、比企谷君に背を向ける。

 

「──じゃあ、比企谷君。用は済んだようだし、私は帰るわ」

「あ、ああ」

「……今日は、楽しかったわ」

 

 最後に一言添えて、私は立ち去った。

 

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