『──でも、笑った顔は姉と全然違うな。雪ノ下のは、なんていうか、本物って感じがする』
「ウウウウウ」
『──でも、笑った顔は姉と全然違うな。雪ノ下のは、なんていうか、本物って感じがする』
「うわあああ!馬鹿!ボケナス!八幡!なんで肝心な時には全く照れずにそんなこと言うんだよお!普段きょどってるくせに!未だにボクの美貌に時々見惚れてるくせに!ちょっとかっこいいとか思っちゃったボクはどうすればいいんだよおおおお!」
その夜、ボクは自室で比企谷君を一通り罵った。
◇
じめじめとした暑さにうんざりしてきた頃、学校は一学期が終了し、学生たちの待ち望んだ夏休みに突入した。
高校生の夏休みは、何物にも代えがたい貴重な時間だ。青春を過ごす若者は、自分たちの最も楽しい時間が過ぎ去ることを惜しむように、日々を精一杯楽しもうとする。
友人と遠くに出掛ける者。1人で長期休暇を満喫する者。あるいは、恋人との逢瀬を堪能する者。その楽しみ方は様々だろう。
かく言うボクは、貴重な夏休みのほとんどを家で過ごしていた。夏休みの課題をして、二学期の予習と一学期の復習をしていれば、いつの間にか日も暮れていた。優等生、雪ノ下雪乃を演じることも簡単ではない。
けれど、こんな風に必死に取り繕うのも、高校二年生までだ。物語が終わる頃になれば、ボクは雪ノ下雪乃を演じることを少しだけ止めてみようと思う。今世の家族とは少し距離を置いて、ひょっとしたら奉仕部とも距離を置いて、自分というやつを見直してみたい。──もしもそうしたら、今のボクにはいったい何が残るのだろう。
「おい雪ノ下、そろそろ目的地に着くぞ。起きてるか?」
「はい。少し考え事をしていただけです」
車を運転している平塚先生に話しかけられて、意識が浮上してくる。少し、目を閉じて思考を巡らしていた。外界の情報が入って来なくて頭がクリアになるのはいいが、周りの人間に意識が向かなくなるのはあまり良くないな。人に隙を見せるなんて、雪ノ下雪乃らしくないだろう。
目を閉じる前と同じく、膝のあたりに重みがある。見下ろすと、由比ヶ浜さんが私の膝に頭を乗っけてくぅくぅと眠っていた。
目を閉じて力の抜けた顔は、普段よりも一層あどけない。車が出発した当初はうるさいほどに私に話しかけてきていた由比ヶ浜さんだったが、三十分もすればうつらうつらとしだして、ついには力なく私の膝に倒れ込んできた。
「由比ヶ浜も起こしてやってくれ」
「はい。……由比ヶ浜さん、起きて」
気持ちよさそうに眠っているので少し気が引けたが、華奢な肩をポンポンと叩きながら、呼びかける。彼女は何事かむにゃむにゃと呟いたかと思うと、再び瞼を固く閉ざした。
少し、起こし方を工夫した方がいいだろうか。
「ンンッ……結衣!いつまで寝てるの!遅刻するわよ!」
「ハッ!ありがとうママ!……あれ?」
飛び起きた由比ヶ浜さんはあたりとキョロキョロと見渡すと、やがて事態に気づいたらしく、顔を真っ赤にした。
「ゆ、ゆきのんひどい!」
「あなたが一度で起きないのが悪いのよ」
「そんなぁ。……待って。今ゆきのん結衣って呼んでくれた?」
「気のせいじゃないかしら」
由比ヶ浜さんがキラキラした目で見つめてくるので、そっと目を逸らす。
「ねえねえ!もう一回呼んでよ!結衣って呼んでみて!」
「しつこいわよ。寝坊助のガハマさん」
「ゆいが抜けた!?」
もう一回、もう一回としつこく迫ってくる由比ヶ浜さんから逃れるように、視線を窓の外にやる。緑がいっぱいの自然の風景が、どんどんと流れてくる。ああ、キャンプに来たって感じだな。
車から降りると、葉山君たち一同と合流して平塚先生から今回の活動について説明を受ける。曰く、小学生の林間学校、その雑事を手伝って欲しい、とのこと。
比企谷君はめんどくさいとかやりたくないとか考えていそうな腐った目をしていたが、思考を読めるらしい平塚先生に一睨みされると、諦めたようにため息をついた。
実際のところ、雑事と言っても四六時中作業しているわけでもなく、水着で遊ぶ時間までくれるのだから、結構良心的であると言えよう。平塚先生にはこんな機会をくれたことに感謝をしなければ。
その後は、林間学校の手伝いがしばらく続いた。
「由比ヶ浜さん。梨の方を回すの。そのやり方だと、また実の六割くらい削り取ってしまうわ」
「うーん。ママがやってたの見てたんだけどなぁ」
「見ていただけなのね……」
「比企谷君、上手いのね。意外だったわ」
「専業主夫志望として研鑽を積んだからな。任せろ」
「でも私の方が上手いわ」
「さらっとうさぎさんを作るな。リンゴじゃねえんだから」
由比ヶ浜さん、それと比企谷君や小町さんと雑談しながら、小学生に配る梨を剥いたり。
「由比ヶ浜さん、クッキーづくりの時にも言わなかった?余計な隠し味は不要なの。分かったらその桃をしまいなさい。どこから持ってきたの」
「ゆきのん手際良いね」
「一人暮らししていればこれくらいできるようになるものよ」
小学生たちと同じようにカレーを作ったり。
そうこうしていると、やがて小学生たちの間にあるひずみが見えてくる。
一見和気あいあいとやっている小学生たち。その中に、明らかに輪に入れていない、もっと言えば仲間外れにされている女の子がいたのだ。名前を鶴見留美。綺麗な黒髪をした女の子だった。
その少女は、道を歩いている時も、食事の時も、いつも五人組の集団の中で、明らかに一人になっていた。……なんだか、既視感のある光景だった。
部外者である私たち高校生でも分かってしまう程の排斥。見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
そんな彼女を見かねたのだろう。小学生がグループに分かれてカレーを作っている時だった。葉山君が、グループで仲間外れになっていた彼女に話しかけていた。
「カレー、好き?」
それは、彼なりの手の差し伸べ方だったのだろう。しかし、それを見た私は思わずため息を吐いた。
「悪手だな」
比企谷君が私に同意するように呟いた。まるで過去の私のよう。葉山君に話しかけられて困ったように硬直する鶴見留美を見た私の率直な感想だった。
鶴見留美は葉山君からそっけなく顔を背けると、その場を去っていった。当然だろう。日陰者が突然人気者にスポットライトを当てられた時に取れる行動なんて、逃げることくらいだ。
葉山君は少し困ったような笑みでそれを見送ると、残った四人の少女の相手をし始めた。
気づけば、彼女が私と比企谷君の近くに来ていた。別に話しかけてくるわけでもなく、鶴見留美は私たちの近くに止まった。ボッチが三人集まった。当然会話は発生しない。
視線は何となしに日向で声を張り上げている葉山君へと向かった。
「じゃあ、せっかくだし隠し味入れるか、隠し味!何か入れたいものあるひとー?」
葉山君が言うと、小学生たちが各々の意見を主張し始めた。すると、鶴見留美に張り付いていた嫌な視線が消えた。さすが、切り替えが早い。
「はいっ!あたし、フルーツがいいと思う!桃とか!」
小学生の声に混ざって、由比ヶ浜さんが声を張り上げていた。周りの小学生たちが度肝を抜かれたような表情をする。しかも発想が小学生並みだ。
由比ヶ浜さんは苦笑いの葉山君に何事か諭されると、肩を落としてトボトボとこちらに歩いてきた。その様子に、比企谷君が呆れたような声を出した。
「あいつ、バカか……」
「ほんと、バカばっか……」
意外な事に、鶴見留美が反応した。冷たい声には、小学生らしからぬ憎悪と諦観が籠められていた。
「世の中なんてそんなものだぞ。早めに気づけて良かったな」
比企谷君がどんよりとした声で応えた。そんな彼に、鶴見留美が値踏みするような視線を向ける。
「名前」
「は?」
「あんたの名前。なんていうの」
その比企谷君に対するあまりにも不遜な態度に、気づけば口を挟んでいた。
「名前を聞くなら、まず自分から名乗るものではないかしら?」
私の目を見ると、鶴見留美が怯えたような態度になった。やがてぼそぼそと名乗り始める。
「……鶴見留美」
「私は雪ノ下雪乃。そっちのは比企谷八幡よ」
「物扱いかよ……ああ、あっちが由比ヶ浜結衣な」
「なになに、どうしたの?」
話を聞きつけてた由比ヶ浜さんがこちらに近寄ってくる。図らずして、奉仕部による留美さんのヒアリングが始まった。
「──私、小学校はもう諦めたの。だってみんなガキなんだもん。だから一人で上手くやっていって、それで中学校に上がったらまた新しい友達を作ればいいかなって」
小学生らしからぬ諦観を湛えた声音で、彼女は話す。今の絶望を。未来の希望を。でも、私は知っている。その未来図には、決定的な綻びがあることを。
「そうはならないわ。聡明なあなたなら分かっているんじゃないかしら?中学生になっても、今の関係性が終わるわけじゃない。小学校の負の遺産を背負ったまま中学校に上がって、それで新しく入ってきた人たちも一緒にハブだのいじめだのを始めるだけよ」
私の言葉を聞くと、留美さんは下を向いて唇を噛んだ。その様子に、なんだか過去の私が重なった。
私も、小学生の時には友達なんて全然できなかった。周りはみんな子どもで、私が澄ました顔で満点のテストを受け取ればすかした嫌な奴だと言われ、男子からの告白をすげなく断ると、お高くとまっていると言われた。
仕方のないことだと思った。私は、雪ノ下雪乃という存在になってしまった。完璧で孤高な人間にならないといけなかった。そう思って、誹謗中傷は受け流してきた。
でも、根っこが凡人である私の精神が傷つかないわけではなかった。教科書に書かれた低俗な罵倒文句。隠された上履き。水浸しのトイレ。嘲笑と悪口。全部残さず覚えている。
人の悪意を一身に受けるとはこんなに辛かったのか、と私はこの体に生を受けて初めて気づかされた。
留美さんは独白する。自分も友達をハブにしたこと。いつの間にか、今度は自分が仲間外れにされていたこと。友達に打ち明けた秘密が、いつの間にか笑い話にされていたこと。
ぽつぽつと話す彼女に、由比ヶ浜さんが優しく語り掛ける。けれど、部外者の私たちでは根本的な解決はできない。比企谷君もそれが分かっているのだろう。複雑な表情で、何かを考えこんでいる。
「中学校でも……こういうことになっちゃうのかなぁ」
留美さんは涙を堪えるように言った。その言葉に返答できる者はいなかった。